多動の目立つADHDの子供の場合に、5歳ころの段階で、「すでに客観的で無私の立場からものを言う」というADHDと、「自己主張が強く自分本位」なADHDがいることが少しずつ分かってきた。後者が大人になって自己正当化型モラハラADHDになりうる素因を持ったADHDである。
後者のADHDの養育は難しい。子供ながらに大人顔負けの理屈をこねて自分の主張をごり押しする。周囲の人が押されて主張を聞いてしまうとどんどん増長して押さえが効かなくなる。
私の場合は母親は私を徹底的に「無視する」というやり方をとった。たぶん理屈では親を言い負かすくらいしていただろうし、(無視の原因と結果の両方と思うが)弟をひどくいじめていたので、それしかなかったかもしれないが、自己正当化型であるなしを問わずADHDには非常にダメージを与える方法だった。
私の場合はその結果ひどいACとなり、かなり病的に離人症となって生育したという経過となったが、今思えば甘やかされてジャイアンになるよりはずっとましな経過だったと思う。
有効性はまだ分からないが、現段階で私に思いつくのは、「徹底して是々非々で筋を通して理論的に説明を続け、筋に反したことをしたら容赦なく叱る」ということを続けるしかないように思う。
ただ(本人が納得できるくらいに合理的に筋を通さずに)押さえつければひねくれて自己正当化型ADHDのACとなり、なお厄介になる。思春期になって非行や依存症(薬物、摂食障害、恋愛依存など)の方向に現実逃避する可能性も高い。
逆に甘やかして結果として「ごり押しすればみんな思い通りになる」ということを覚えてしまうとジャイアンへの道に入ってしまう。これは大人になった後も修正が効かない本人にとって最も不幸な道だ。
鋭い分水嶺の上を歩くようなケアが必要となり、親は大変であり、早期に診断して、親のコーチングを続けながら、専門家がずっとサポートし続ける体制が必要だと私は思う。
感情移入の質問があったので、まとめて書いてみよう。
まず「なり切ってしまう」ほどの感情移入をするのは特に多動型のADHDで、登場人物の気持ちになりきってしまい、一緒になって泣いたりする。私はテレビによく登場する女優さんの中にはたぶんADHDだろうと思う人(S.O氏など)がいるが、「この人にしか出来ない迫力」という演技を超えたような演技力があり、これは私は「ADHDとしてなり切っているだけ」とも思う。
ちなみにこれを説明してみると、「あれはあれ」の認知を極端に押し進めていって、「今は今」で、過去とも「いつもの」自分自身とも離れて役柄に没入してしまうというようなことが起こっているのだろう。
正反対の位置にいるのは孤立型のASの人で、こちらはまた「徹底して鑑賞者」だ。映画も「お芝居が上手」で、結局見せるために作られた「作り物の映像」でしかない。自分は自分の立場から動かず「鑑賞している人」であり、劇中の世界は虚構でしかない。
「自分がない」受動型の人にはまだ突っ込んで聞いたことはないので分からない。
微妙であるのは積極奇異型ASの人だ。私が思うには、ADHDと同じ仕方での感情移入はおそらく無いだろう。ASの人は非常にしっかりとした「自分の立ち位置」を持っていて、そこを離れるのは難しいと思うからだ。
だから、おそらく積極奇異型ASの人の「感情移入」は、「AS的な共感」というようなものなのだろうと想像する。「自分も同じように感じる」という場合に、自分と相手の境界が不鮮明となり、あたかも没入しているかのように感じることはありうるだろう。
言ってみれば、ADHDの感情移入は「相手の世界に飛び込んでいってしまう」という形であるのに対し、ASの感情移入は「自分の世界に引っ張り込む」という形で劇中人物と自分とがひとつになったように感じるのだろう。
私の感じている違いを何とか言葉で表現してみたが、どしどし感想をお願いします。
自己正当化型ADHDが立ち直れるかどうかは、結局単純なことだが「自業自得」を認められるかどうかにある。
自己正当化型ADHDはACでなくても、殊に自分に対する評価に関することで、「何でも自分に関連しているように受け取る」ところがある。この点では非常に統合失調症に近いと感じることも多い。これは「自意識過剰」と呼べるような特徴だ。
ところが事不利なこと、自分に都合の悪いことになると、「相手のせい」で、「自分は与り知らない」という発想になるのが不思議だ。何でも自分に関係があると思っていたくせに、「責任」はまったく自覚しない。
言ってみれば自己正当化型ADHDは「世界にただ一人」という感じで、最初から最後まで人が見えていない。ことごとくが「一人相撲」で、傍から見れば「自己中心的な思い込みの中で生きている」という見かけになる。
相手から態度や言葉ではっきりと反論や抗議を示されても、それが「自分の行動の結果として起こった」と認識できないために、「ただ相手が勝手に怒っているだけ」ということになり、その結果「なだめるか、恫喝する」ということになる。物を与えて機嫌を取ろうとすることも多い。
だから自己正当化型ADHDの自覚としては、「もともと自分に関係ないことは世の中にたくさんあるが、周囲の人から言われたことは自業自得として認識する必要がある」ということだ。
この「認識する」ということは、「自らの責任を自覚して、自分にはそういう問題点がありつづけていることを意識しつづける」ことだ。幼児的に「ごめんなさい」で済ませようとする自己正当化型も多いけれど、それでは不足で、謝っても物をあげても帳消しには出来ない。
結局本当に自分の問題を意識しつづけているかどうかは、「その後の本人の実際の行動が変わったか否か」で判断するしかない。行動を変えられない場合には自業自得の自覚とは言えない。
一日24時間「自分は自己中な人間で、その結果人傷つける可能性が高いので言動に気をつけつづけなければならない」と意識しつづけるしかない。AC的な思い込みとの違いは、厳然たる「事実」の客観的な理解の結果としての認識であるということだ。
YANBARU先生、教えて下さい。
私の小学校時代の同級生ですが、一流高、大学卒業するまでは全て順風に過ごしてました。幼少時特に変った行動はありませんでした。
社会人になって仕事がうまく行かず、クライアントの求めることが読めない(相手の気持ちが分らない)ことに始まり、営業という対人がうまく行かず、自分をさげすみ、責めるようになって、うつになってます。
自分の事を「変な奴」と呼んでます。専門医にASではないか自身で受診し、テスト結果ASの可能性は0%と言われ今は本人は安堵しています。
小学校時代は大変いじめっ子で、かつ口が悪く人を心底から傷付ける暴言を吐いてました。でも相手を傷付けてることに全く気付いてませんでした。
成人した現在も暴言を吐くことが自制出来ず、周囲の人に無礼を働きます。
最近彼は同窓会を開催することにし、幹事役を始めましたが、小学校当時にさんざん虐められたので良い印象を持ってないとだれも手伝う人が居ません。それでうつの相談を受けてた立場上、彼を補佐すべく私が手伝い始めましたが、その私に向かって特に人前で「役立たず」「使えん奴」などの暴言を吐きます。
お祝い事があり、私が彼にお祝いした時も「なんじゃ、こんなもん。要らんわ!」と礼も言わず吐き捨て、その割には持ち帰り、後でメールでお礼が来ました。
周囲の人達から「何でそんなこと言われてまで、手伝うの?」と言われるほど、人が聞くと驚かれます。
でもその暴言を吐いてる本人は、その瞬間失礼だとは感じてなくて、悪気がない。後で指摘されると反省し、落ち込む。これを繰り返してます。
「自分は非難は受け止められるけど、その原因である暴言を吐くという行動をとめられないことに問題がある」と自分で分析しており、「自分は無礼な奴」と表現してます。
「自分は変な奴」「自分は無礼な奴」と自己分析し、「人を動かす」という対人関係をうまくすすめる手ほどき本を読み、自分を戒めてるのに改善出来ない。
とても優秀な人がこれ程努力してるのに、その性格を改められないのはADHDなのではないかと思いますが、如何でしょうか?ちなみに大変しゃれっ気もあり、ブログはダジャレを連発してます。
ここに書かれているだけでは、何とも言えませんが、私の「自己正当化型ADHD」と呼ぶグループの可能性は考えられます。しかし専門医にASでないと言われたのであれば、その専門医はASを診断できるのであれば当然ADHDも分かると思いますので、その場で指摘されていそうな感じもします。
いずれにしても、本人が自己診断で自分のことを理解することが一番大事です。下記を参考に自己診断を勧めてあげてください。相手が何故傷つくのか、多数派を理論的に理解する努力により、少しずつでも理解する努力を続けていけば、生き辛さは少しずつ減らせます。これを「コーチング」とよびます。あなたは本人に欠けている「状況分析」についてその都度相手から見ればどんな風になるか教えてあげてください。
自己正当化型ADHDの人の多くは(子供で言えばジャイアン) 「相手が悪い」と自分の責任を認識しないので、あなたのお友達は自分の問題を認識しているだけ、回復の可能性は非常に大きいと思います。
私の提唱する自己診断については下記を参照
以前にADHDの「AS被影響症候群」について述べたが、同じように自己正当化型ADHDにも被影響症候群がありうる。ある意味でASの場合よりも被害が大きい。
ASの人は愛着で近い相手に支配的となったり、「こだわり」で強制したりするけれど、「本人も選択の余地がない」、「相手はかけがえのない愛着の相手として自分勝手な仕方であるが大事にすることはする」、「本人自身もこだわりで苦労している」ことが相手からも推察できるので、相手の痛みが比較すると少ない。
自己正当化型ADHDは、「相手を落とすけれど、それは自分が上に立つことだけを目的としている」という感じで、相手は人間として見えていないので、ある意味愛着よりも相手のダメージは大きい。徹頭徹尾自己中心的だ。
また自己正当化型ADHDは、「ADHDでありながら、自分の要求を通すためのノンバーバルな表現(表情や「言い方」などの感情表現)jを部分的に使える。繰り返し何度もしつこく言い続けたり、強い口調ですごんだりするのは、おそらく幼少期に「これは使える」と学習するのだろう。文字通り「ジャイアン」だ。ADHDのACや受動型のASなどはイチコロである。
だから子供がADHDで、また思春期前後からADHDのACになると、ほとんど「家来」「下僕」状態で逆らえないということも起こる。ASの子供の場合にはその親に愛着を持った場合は同様だ。大人になってまで服従し続ける。
ケアは、親(やモラハラの加害者)の正体と、自分自身の反応であることを客観的に理解することだ。何が起こっていたか、まず冷静に理解することから回復は始まる。
自己正当化型ADHD当事者の立場を想定すると、「人をたいそう威圧して、情緒的に押さえつける」ことを実際に行動しながら、そのことに気づきもせず、相手の被害の重大さを全く自覚しないという意味で、「結局一度はみんなから完全に見放されるしか救いはない」という風に私は思う。
私自身はそういう経過をたどって生きてきたので、今思えば自業自得、かえって嫌われるのが思春期前でよかったとも思う。
自己正当化型ADHDケース③パニック障害様
年配女性に多いパターン。本人の主訴はパニック障害様の身体症状と軽度のうつ状態で、毎回カウンセラーにDVの被害や、セクハラ、夫や子供の愚痴、結婚前の別の男性への思い等をひとしきり話し、周囲の人のせいで自分はどれだけストレスがあるか、そのせいでいろいろな症状に苦しんでいることを訴えていく。「更年期かしら」という感じで心療内科に受診する。
こちらからの何かの助言を求めるわけでもない。話を肯定して聞かないと立腹してドクターショッピングのように通院先を変える。
ひとしきり話せば満足して、それ以上の治療は求めない。薬は抵抗がないが、自分の勝手な好みで薬を要求し、副作用を大げさに訴えるので薬剤調整は難しい。
通常は「社会不安障害」とか「パニック障害」という診断名で、重症の精神科的病名を嫌う。自分には問題はなく、周囲の人が問題であるので自分は被害者被害者としてストレスで病気になっているという自己理解だ。
親族の情報をつぶさに聞くと、親や子供、夫などに発達障害がいることが多く、また親族からの客観的な情報を取れると診断しやすい。親族から聞く情報と内容はずれることが多い。
通常のDV被害の人と違うところは、「そのたびにストレスの原因となっている相手の人が変わったりする」ということだ。子供が落ちつけば夫、夫の件が落ちつくと母親に対する愚痴に変わったりする。
一見発達障害っぽく見えない人が多く、家事が出来ないことも、うまくうつ状態のせいにしているので、ADHDらしく見えないことも多い。
私は自己正当化型ADHDをこれまで主に大人のケースでモラハラ加害者の「ジャイアン」になっているケースと、人格障害に酷似した「自己正当化型ADHDのAC」として捉えてきたが、最近は「もともとは同じ素因を持っていて、後に合理的に成長しているケースもかなりある」という風に考えるようになった。
自己正当化型ADHDはADHDとして状況はわからないのだが、「自分が不利にならないための悪知恵」という領域の知恵は小さいころから結構働く。また親への執着は(ASとはまったく違う形で)あり、幼少期弟や妹をいじめることが多い。
もうひとつ、「ACが非常に幼少期に形成される」という特徴があると考えている。自分に対する評価を感じることが出来、ADHDとしての二次障害は非常に小さいころから受ける。だからACの治療としてはかなり集中的にしっかり治す体制が必要になる。
普通のADHDとの違いは、直感的な表現を使えば「特有の派手さ」がある。カリスマ性というか、アピールの強さと、自分が正しいと信じて疑わない確信のようなものがあり、AS(特に受動型)の人はここに惹かれるのではないかと思う。
幼少期の環境によって、重症のACになるか、ジャイアンになるかが分かれるが、成人後の経過としては、一度徹底して二次障害となって重症のACとなったほうがかえって合理的となる可能性が大きく、逆説的だが本人には幸いだ。
逆に甘やかされたケースは治療が難しい。カウンセリングでも、最初は「思い込みの激しさがひどい」と思っていたADHDのACの人が、回復してきてみると自己正当化型であったということも多く、その場合はもう一ラウンド別の治療をするということになる。
私の考えでは、ADHDに依存はできない。ADHDにとって一番大事なのは「自律」であり、自分が納得がいくように生きることであり、また基本的に他人に執着がないので、他人に「全部任せる」といったことは本来非常に苦手なことだと思う。
私はカミさんと同居して、自宅新築などの共同の大きな問題について、「随時相談」ということができない。全部仕切るか、全面委任するかのどちらかだ。全面委任した場合は後で文句を言うことはないが、それは「自分が任せると決めた」からだ。頼るというのとはかなり違う。
ADHDにとっては本来は「基本的にお互いが個人として自律していて時々時間を一緒にすごす」というような生活がもっとも楽で、同居の時間が長い場合には、「ここまでは任せる、ここからは自分でする」と初めからはっきり境界線(守備範囲)を決めてしまうのが楽だ。
だから精神的に、「この人がサポートしてくれる、認めてくれるから」といった「依存」はもともとADHDにとっては大事な本来の生き方を裏切る側面があると思う。
逆に、同居をはじめてから確認強迫症状(ガスの元栓、運転中に車で何かを踏んだ等)がひどくなる人も居て、これは私は「譲ること、任せることに慣れていないせい」であると考えている。
だからADHDは依存で一時しのぎをして不安なりを紛らしても、根本的にはもっと大事な「自律できていない」という意味で自分を責めることになり、またこれを自覚できない場合、身体症状(頭痛、吐き気、ふらつき、動悸、下痢、強迫症状等)が悪化することになる。
ADHDであると分かったら、自律したネコ科の動物の誇りを取り戻そう。表面的な甘い「是認」よりも、「対決」や直面化の中から時折可能になる厳しい「理解」を求めよう。これがADHDらしい生き方であり、頑なといわれてもそれしかできないのがADHDだ。
前回のスレッドに質問があったので、具体的に書いてみる。(プライバシー上の問題があるので状況は改変)
ケース1.ASの夫から家事などの問題を指摘され子供を残して一人追い出され、離婚調停も不成立となり、夫からの離婚訴訟の「訴状」が来て初めて問題の深刻さを理解して、家事コーチングなどにまじめに乗るようになった。訴状の前には「不利なことには耳を貸さない」状態であったが、その後は現実的となりスタッフからの説明が「通じる」ようになった。電話などの受け答えなどにも、「前と違って考えてから返事をするようになった」と本人も自覚している。
ケース2.若い女性のケースで、もともとボーダー(境界例)かと考えてきたケースだったのが、AC的な認知の部分が回復してみると非常に正直、率直な性格で、発達障害の家族歴もあり、自己正当化型ADHDであった。一度は治療終結としていたが、「現実的な相談」の形で再び治療に導入し、「ちやほやしてくれるAS男性(複数)への依存を続けることは楽ではあるが、それではあなたの人生のためにプラスにはならないだろう」と直面化するタイミングを待っている。
いずれにしても、「現実にかなり追い詰められた状況とならなければ治療の糸口すらない」ということが重要だ。
粘り強く話を聞きながら本人が追い詰められるまでタイミングを待ち、本人が直面化できそうな場面で本当のことをずばり言う。
それまでの間は、現実の相談の形で、本人を取り巻く現実の状況の話を丹念に聞きながら本人の辛さを是認して話を聞いて行くことになる。
自己正当化型ADHDの詳しい説明については下記を参照。http://www.geocities.jp/yanbaru5555/mrhrADHD.htm
http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/adhdNH.htm
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