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 「ADHDの先延ばし」については、これまで何度か書いてきたが、「いわゆるADHDらしさがなくなる状態」として、自己診断をつける際にも考えておかなければならない除外すべき状況だ。

 どんなに明るくて天真爛漫でのびのびとしていたADHDも、ひとたび先延ばしの状態になると、とたんに「冴えない」状況に陥る。

 非常に重要で当たり前の「なすべきこと」に、「脳がそちらを向かないために」どうしても手をつけられず、「こんなことが何で出来ないのだろう」と自分自分に納得がいかなくなり、非常にADHDらしくない自己嫌悪や、気分の不安定、イライラ、抑うつなどを感じるようになる。

 その結果、典型的な現象は、「居留守」である。文字通りの寝たふりをして起きない居留守もあれば、電話を取らないとか、とにかく「知らん振り」「見ざる聞かざる」という形で露骨に逃げを打つ。

 いったん逃げたことで自分自身が許せず、その後は「嘘の上塗り状態」となり、「あのことを指摘されたら困る」という形でどんどん先延ばしする行動が膨れ上がっていく。

 極端な例は、社会に自立すること全体を先延ばしにする「引きこもり」になるケースと、「考えたくない」ために薬物やアルコール依存、時には食べ吐きやボーダー的な恋愛依存になることもある。

 ADHDにとって最大の問題は、「先延ばし状況では本来楽しめるはずの好きなことに集中できなくなる」ということだ。

 かくしてADHDは先延ばしの中ではおおよそ本来のADHDらしくないみっともない姿になる。正々堂々とするのの反対、正直率直の反対、終始現実的で前向きの反対等等。

 自分の借金の返済計画を先延ばししたり、近い家族の借金をはっきりさせることを先延ばししたり、大きな片付け自体を先延ばししたり、時には論文を先延ばししたり、そういう時期にADHDらしくない行動を自覚したら、先延ばしを疑おう。

 よく心療内科に「難治性のうつ状態」として受診するが、実は先延ばしさえ解決すれば、びっくりするほど簡単に回復する。 

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2007.02.27 23:40 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 7

ASに似たADHD③過集中

 ADHDは過集中している状況では、他者に要求することが非常に厳しくなる。例えば私は以前の病院勤務のときに、治療が難しい重症な入院患者さんの治療で、看護師さんをフォローできずに病棟で孤立したことがあった。

 ADHDはもともと「責任」や「プロ意識」に厳しく、「困っている人が居る以上、ベストを尽くすのは当たり前」 と考えるために、「普通の仕事以上」に看護師さんたちが「熱心に治療する私に特別に協力した」ことの意味が分からず、「給料もらっているのならそれくらい当たり前」くらい口を滑らせて私はよく失敗した。

 これは過集中の状況のなかで思考のゆとりを失い、認知と思考の視野が非常に狭くなった結果、「周囲の人が自分と同じ程度に集中していないと腹が立つ」という思考と感情のパターンとなっていると考える。

 この状態では、周囲の人が過集中している自分と同じ程度に熱心に取り組んでいないと言うだけで、「私がこんなに一生懸命やっているのに」とぶち切れて、攻撃したり、極端な行動に出たりする。表面上はACのときの疎外感とも似ており、また腹が立つ程度はASの予定が違ったときに近いと想像する。

 その結果、「非常に思い込みが激しく、周囲の人に過度の要求を強制し、思い通りにならないと激怒する」というパターンとなり、いつもは合理的で情に絡まないADHDが豹変するという印象を与えさえする。

 鑑別は容易で、「過集中しているかどうか」で分かる。その他のことで同じパターンがあるかどうかを見ればわかる。

 私は上記の考察の結果、「過集中は自分自身は一時的に気持ちが良いが、結局チームプレイを破壊する」ので、チームでの取り組みを要する仕事では、「過集中にならないテンションで、周囲をフォローするゆとりが残るくらいで動くのがベスト」と考えるようにしている。ADHDのコーチングの上級編である。     

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 ADHDのACについてはこれまで何度もここで書いてきたが、最近私はADHDのACは「幼少期のASまたは自己正当化型ADHD(による)被影響症候群」であると考えている。

 自己評価が極端に低く、見捨てられ不安と似た「世間から置いてきぼりにされる不安」の中で、周囲に異常に気を使っている自覚があるにもかかわらず、他者から見ると「天然」に見えるという状態であり、本人が努力してある程度修正しているのでADHDらしくも見えず、またACとしては他者から見た悲劇のヒロイン風の深刻さが欠けており、「考えすぎ」と言われてしまう。

 ADHDのACも自分の評価に関わる周囲の態度にはASの「関連付け」に近い過剰反応や思い込みがある。これは私は「AC的」と考えている。ASの関連付けとの違いは、「思い込み」に近いということで、断片的で首尾一貫性に乏しい。

 また人間関係も不安から異常に相手に執着したり、依存とよく似た状態になることもある。これも思い込みの激しい「AC的」に干渉したり、一見支配的になったりもするが、基本的に「自分を理解してもらう」ことが主であり、特定の相手が必要なASの愛着とは区別できると思う。

 予測についても、基本には「世間から置いてきぼりにされる不安」があるため、評価を(勝手に)過剰に気にする結果、「予測できなかった」失敗は不安であるので逆に極端に「完璧に」予定を立てたがったりする。

 ASとの区別は、ACの最中には容易ではないが、「気分によって急激に変わる」ような一貫性に欠ける印象を持たれる場合や、「天然」と評される場合はADHDのACと考えたほうが回復が早い。何故ならばADHDのACは「自分がもともとADHDである」ことに気付くだけで劇的に回復するからだ。 

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 ADHDが表面上ASに似た状態になるものの一つは、「AS被影響症候群状態のADHD」がある。

 ADHDが、主に接する親や配偶者にASがいる場合に、そのASの価値観や主義に合わせなければならないと思い込み、本来のADHDらしさを押さえて強迫的になる状態のことを私はAS被影響症候群と呼ぶ。

 実際のケースでは、強迫的に家事を必要以上にきちんとしたり、子供にも異常に厳しくなったりする。不安が強く、閉所恐怖症になったり、「車で何かを踏んだと思い何度も戻る」などの風変わりな確認強迫の症状が出たり、パニック障害様になったりする。

 ほとんどの場合はDVなどの経過で「離婚や別居してから驚くほどずぼらになった」という見かけとなり、その後はADHDらしい見かけになることで分かる。環境が変わらないと、診断自体がなかなかつけにくい。

 この状態のADHDは、ゆとりが無く、発想の自由さを失い、家族やパートナーのASの言うことが絶対のように考えるが、ASのような「関連付け」は目立たない。

 自分が強迫的になっているので子供にも支配的となり、また予定通りにならないことに恐怖感を持つので予定の変更にはパニックになる。

 このように見かけはASに似ているが、例えば結婚前の性格傾向や、子供の頃の情報があれば区別できる。また実際の経過の中で「急に変わる」ことがあればASと違うと考えたほうが良いだろう。

 ASに似たADHDの状態としては、この他に「ADHDのAC」、「過集中状態」、「先延ばし状態」などがある。順に論じていこう。 

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 私がASの人に一番「ASらしさ」を感じるところは、「人の存在が絶えず前提されている」ということだ。あるASの人から、「ASは人から干渉されると困るんですか?」と聞かれて、「あなたは全く干渉されないことが想定できますか?」と逆に聞き返したことがある。ASの人は干渉されないことが想定できないと思う。

 ADHDは逆にACやAS被影響症候群などの二次障害がひどい場合を除き、「干渉されないことが当たり前」という基本前提で考えると思う。 

 その他、「この人のおかげでたいそうひどい目に遭っている」と訴え続ける割に、「だったら距離を置いて関わらなければ良い」という発想が出来ない。とかの、ものの考え方の「結果」の部分よりも、「当たり前に想定している」部分によりASらしい、ADHDらしいとところが現れる。

 例えば計画で言えば、ADHDは第一感で長期計画を立てようという認知はない。現実生活の不適応のために二次的に世の中に適応するために長期計画の必要を感じるようになることはあるが、最初から当たり前に長期計画の形で認識するASとは違う。

 不適応の結果として、二次的に「困ったから努力して考えたりするようになった」ことはもともとの発達障害とはとりあえず分けて考えたほうが治療やコーチングの役に立つ。

 だからこの二つの合併があるかどうかを考える場合、それぞれ自分のものの考え方の前提となっている部分を見てみる努力をお願いしたい。

 「関連付け」、「デジタル認知」や、「バラバラの認知」は全て「何も考える前から当たり前にそうしているものの見方の基本形式」というあたりのもので、結果として似た状態になっているのと何とか区別したい。

 すこし考えてからそれぞれのコメントにお答えする予定です。 

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 前回の①への書き込みやメールは大変参考になります。ありがとうございます。今後ともよろしく。

 さて私が「ADHDのAC」という考え方を提案しているのは、実は実際の臨床の中で、片付けなど表面的にはとてもADHDには見えない人のなかに、ADHDと考えると治療やケアの方法が見えてきて、実際うまく行ったケースがたくさんあり、「表面上ADHDには見えない人の場合でも、ADHDを最初に疑ってみる必要があること」を理解してもらうために有効だからだ。

 他にも、「AS被影響症候群」のADHDの人は表面上はよく強迫的になり、逆に受動型ASの人は「どの相手にもきちんと合わせるがゆえに」結果として表面上場当たり的に見えたりする。

 ここで大事なポイントは、「もともとの認知と行動のパターン」と、現実の不適応の中で「二次的に身に着けてきたパターン」とを区別したいということだ。

 ADHDのACの人は、ACとして周囲に合わせる死に物狂いの努力の結果、ある程度はADHDらしい注意欠陥などは表面上目立たないようになっていることも多い。しかしうつ状態になったり強迫症状が出たり、パニック障害や離人症、SAD(社会不安障害)などの別の病気になったりする。

 こういったケースで、表面上に現れた問題を本当に治すために大事なことは、「元々はADHDだった」ことが分かることであり、診断はそういう意味で重要だと私は考える。

 だからそれぞれの当事者の方が自分自身を振り返る時にお願いしたいことは、「それぞれの特徴が元々のパターンであるのか二次的なパターンであるのか」を考えて欲しい。

 母親がASだったり、自己正当化型ADHDの場合のADHDのACの場合は5歳前までさかのぼることもあります。AS被影響症候群の場合はASと同居する前の自分自身はどうだったか? というようなことになります。その眼で自分を見つめた結果を教えてください。よろしくお願いします。

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2007.02.19 11:00 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

中間または合併①

 私は多くの発達障害の方と接してきて、ADHDとASについて考え続けている。その中で、「ADHDとASの中間または合併(両方)ということを考えるか」という問題は一番大きな問題だ。

 私は中間や合併の診断をしない。その理由は、「その人の困っている問題の解決やコーチングを行ううえで、両方ともいった診断が使いにくいから」だ。

 実際には当事者も多様であり、「注意欠陥だけでくくればADHDに分類するべきだが対人関係の特徴を見るとAS的」というような人(受動型AS)も居られ、逆に私がADHDのACやAS被影響症候群のADHDと呼んでいる人は表面上注意欠陥は目立たずADHDっぽくない。

 だからいっそのこと「パーツの組み合わせ」という考え方にして、「ここだけはADHDでここはAS」という表現も確かにある。

 しかし私が引っかかっているのは、例えばこれまで記述してきた、「バラバラの認知と関連付けすぎの認知」、「人に執着しないことと強い愛着」、「極端に予測可能な世界を好むことと極端に場当たり的」といったはっきり正反対になる部分がたくさん見られるからだ。

 また、表面的には同じ注意欠陥でも、受動型ASの人とADHDは良く見ると違うところもあり、「注意欠陥の意味が違う」というようにも思う。

 非常に本質的な問題であるので、何回か私なりの考えかたを書いてみるので、当事者の人の意見を聞いてみたい。

 まず私が「大分類」として「人への執着、愛着」を上げたのは、当事者の実際に困っている問題が対人関係であることが多いので、愛着のある人とない人を同じ症候群で呼ばないほうが良いと考えたからだ。

 微妙な位置づけとなるのは、私が「自己正当化型ADHD」、「受動型AS」と呼ぶ人々だと思う。次からこれらについて詳しく検討しながらこの問題を考えていくことにする。  

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 私はADHDとして、不確定が当たり前の世界を感じて生活し、未来や他者に関しては「想像や仮定しておく」しかない。

 例えば誰かに私が「厳しいことをはっきり言う」という場合、結果は当然「分からない」が、短期的に予想されることは「相手の感情を害する」「相手が反発する」というようなことで、通常は「はっきり言うのをやめよう」ということになる。

 しかしADHDである私は、「一時的には表面上対立となっても、長い目で見れば、深い相互理解につながる可能性があるのではないか?」と想像してあえてはっきり言うことを実行した。

 ASの人はADHDである私から見ると、「悲観的な可能性ばかり想定するのが得意」のように見える。「マイナスは少しもあってはいけない」のか、「ほんの少しでもマイナスがあったらおしまい」と感じるのか、と想像しているが。

 ADHD(である私)は毎日分からない世界に生きているので、「ラッキーなことと不運なことの確率は五分五分」と考える。悲観的な経過ももちろん想定できるが、そのぶん「思いも寄らないすばらしい発見」の可能性も想定できる。

 ここで例えば私が書いたことで、新たに認識を新たにする人が居られれば、それはその人から見れば、「喜ぶべき発見」であるのだが、ASの人の想定にはそういう(予想外の発見などの)ことがありうるという部分が少ないように感じる。

 「一時は対立しても、その後により深い相互理解が可能になる可能性」は実際ここで何名かの方のコメントの経過を見れば立派に実証されているように思う。

 ADHDである私は、あくまでもそのより深い相互理解の可能性を追い求め、一時的な表面上の対立や現実的な一歩後退を怖れず「はっきり言う」ことを続けようと思う。

 「少しのマイナスの後にもっと大きなプラスが生じる可能性」を想像することをASの人に提案してみたい。  

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 ここまでASの認知の特徴について考えてきたが、こういう認知の仕組みを持ち、しかも多くのASの人は「自分のものの見方が少数派でない」と考えていることが多い結果、現実の世界ではトラブルが起こる。

 そのトラブルの多くは「クレーマー」と呼ばれることになる。

 例えば官公署の公務員の対応など、「世間並み」の対応であっても、AS流の「原則論」「当たり前にこうあるべき」という高い基準から言えば、徹底的にけちをつけたくなるのは想像に難くない。  

 さてASが(実はこの部分はADHDも同じであるのだが)「ASから見て当たり前」に窓口に苦情を言うと、多数派の世界から見ると「とんでもない細かいことにけちをつける異常な人」とか、下手をすると「難癖をつけて脅している」という風に見られてしまう。これが「クレーマー」という言葉のニュアンスだ。

 まず表現が理屈っぽく厳密であり、記憶力が良く、法律なども勉強して理論武装しており、また強い口調や態度、特に怒っている感情のほうが伝わると、脅しているように見られるのだと思う。

 実は私自身も時々クレイマーとなる。ADHDも「プロ意識」には非常に厳密で、「国民の税金使っているのだから」とか「この仕事で給料もらっているのだから」とか考えるのはASの人と結果的には似ていると思う。

 私の場合は、「世間の中でADHDくらいが言わないと改善しないだろうから」という私なりの社会全体を見定めた一定の方針で行動している。何でもかんでもではなく、「現実がひどすぎるからそのクレームで現実的にも改善が必要で、多数派の人はそこまで言わないだろうから」とか、「社会的弱者やマイノリティーの権利に関すること」の場合は固執してクレームをつけることにしている。

 ASの人も、「自分の認知は少数派である」ことを前提として、その上で「どこまでクレームをつけるか」についての自分なりの方針を立てることをお勧めする。何でもかんでもクレームをつければ、自分の社会的立場が悪化するだけであるし、100パーセント世間の全ての窓口を変えることは出来ない以上、自分のエネルギーをどこまでその問題に費やすかのバランスを考えないといけない。

 発達障害は「クレーマー」となっても良いので、一定の方針の元に、起こりうる結果まである程度計算して行動しよう。    

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 ASのデジタルな認知に対して、毎回あいまいな表現をしないで「はっきり言う」とすると、実は結構厳しい話になる。

 AS 私のことを理解できますか? 

 答え あなたの想像するような100パーセントの理解は不可能です。私なりに出来る範囲で例えて言えば50パーセント、60パーセント程度の理解に向けて努力はします。

 AS 私の力になってくれますか?

 答え あなたの想像するような100パーセントの協力は不可能です。私なりに出来る範囲で協力はしますが、100パーセントは求めないでください。

 といったように、悉くの会話に、「あなたの想像するような100パーセントは不可能」、「100パーセントは求めないでください」と言語化することになる。

 こう言われて最初はがっかりするかもしれないが、周囲の人が全てこういう表現をするようになったら、過度に期待することも減って、現実の多くの場面で起こっているような誤解よりはマシな状況になるだろう。

 少なくとも、「出来るだけやってみます」のような回答はしないほうがいい。おそらくASの人の多くは「絶対にやってくれると約束した」くらいに受け取るだろうから。非常に誤解を招く表現と言うべきだろう。

 そういう意味では、ASの人は多数派の表現には大いに注意、警戒する必要があるだろう。上記のあいまいな「出来るだけやってみます」のような一見前向きで実は意味がはっきりしない答えを多数派は常套手段としているからだ。

 ASの人には、実は上記のように言葉ではっきりいわれなくても、現実の多くの場合で「100パーセントは不可能ですが」と「100パーセントは求めないでください」を頭の中で追加して理解することをお勧めする。

 なぜなら有限で不完全な人間にはそれしか出来ないからだ。 

 ASの人のパートナーのADHDの人は、意識して言葉に出すように努力しよう。ADHDにとっては言うほうにも意味がある。 

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