ADHDの認知とその結果の努力について事細かく説明してきたが、ここで理解して欲しい大事なポイントは、「問題の自覚」だ。
ASの人のコメントの中に、「私も人間です」という表現があり、実は私は「うらやましい」と感じた。かつての私は、(自己正当化型ADHDからも)親からも繰り返し「変わっている」と言われ続け、「自分は変わっているのだから他の人と同じように楽しくなくても当たり前なんだ」と思い込んで思春期を過ごしていた。
だから「自分もいつかは人間だと言える様になるのかなあ」というのが元々の私の自己評価で、始めから「人間です」と言えるのはうらやましいわけだ。私は極端かもしれないが、自己正当化型を除き、ほとんどのADHDは思春期に入る段階で自己評価が下がり、その代わりに「自分に問題があること」を自覚する。
だからほとんどのADHDは「自分自身を変えなければならない」ことはすでに出発点から分かっているということをASの人に理解して欲しいと考える。多くのADHDが、診断されて「楽になった」というのは、自分ですでに自分の問題を自覚しているからだ。
その立場からすると、「多数派と違って同じように問題があるのにそれを認めず、自分の問題を自覚しない」というASの当初の立場が非常に傲慢に見えると言う状況を想像してみて欲しい。
このブログで私がかなり「はっきり」書いてみた結果、ASの認知のゆがみに気付かれたASの人は、ADHDから見るとある意味で「やっと自分たちと同じスタートラインにたどり着いた」ということになる。
問題の自覚が無ければ、診断が分かっても当然否認するだろう。しかし問題を自覚された方は、「自分こそが普通だと思い込んで独善的に問題を自覚することを拒む」状態が非常に不幸で、それこそ救いがたい状態であることは分かると思う。
そのためには、誰かが一度は「はっきり」言うしかない。これは本人の前進のためにどうしても必要なことであり、辛くても乗り越えなければならないことである。
それが分かっていて、「相手が辛いだろうから」という「理由で本当のことを言わないことを私は「配慮」とか「優しさ」と呼ぶべきではないと(個人的には)考える。
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「それとも、私はADHD???」
私の場合は親に口うるさく言われた経験は無いのですが、小学校の先生から徹底的に嫌われたことでかなり自己評価が落ちました。幼児期にも友達との遊びの中で、たった二文字「ダメ」が言えなくて苦しみました。学校生活の殆どは地獄のイメージがあります。
ずる休みもしました。
離人症の体験もしました。
自分だけが透明な風船に入っている感覚。
集団登校で、自分だけがランドセルを背負ってなかったり(忘れて)靴も、うっかりお父さんのサンダルだったり・・。
「PTAには、必ずお母さんに来てもらってください!」と念を押されてPTAの出欠の紙を出すことが恐怖でした。
担任の先生は脅しのつもりだったと思いますが、私はクラスみんなの前で「特殊学級に行きなさい」と言われた経験があります。
「私は人間じゃない」「犬に生まれてくれば良かった」
自己評価はドブの底。
だから、この記事を読んで「あれ?」と。
私がASであるならば、「ASだって低い自己評価に苦しめられて生きてきたのです」と言いたいのですが・・。
他のASの方のご意見も伺いたいです。
大変な幼少期でしたね…。
「受動型ASとADHDの区別」については、YANBARU先生が(このブログではなく)ホームページの雑感に書いておられます。昨年10月14日の分です。
ホームページの自己診断ガイドの中でも繰り返し触れられていますので、お読みになってはいかがでしょう。
人間関係には確かに苦労して来ました。高校時代まで友人は極端に少なかったですし、彼らとの付き合いは今は途絶えています。イジメやトラブルも経験しました。今、2度目の離婚の危機に瀕しております(離婚よりもパートナーに辛い思いをさせて来た事自体が悲しいです)。それでも「コミュニケーション方法が多数派と違うから、多数派に合わせる事で上手くコミュニケーションを取れるようになりたい」と思うだけで、自分が普通とは違うことが分かっても、自分に問題があるという自覚は強くありません。いや、自分に何か問題があると気付いて調べ始め、その際ちょっと自己評価が下がったものの、原因(ASであること)が分かっただけで回復したような気がします。
自己評価は、個別の性格や、育った環境、親、関わった先生によっても違いが出そうですが、総じてASは強い(自己評価が下がりにくい)のかと思っていました。そして私は、幸い(?)自己評価を余り下げることなく大人になりました。
私は中学の頃、忘れ物と遅刻の常習犯で先生からしょっちゅう注意されました。忘れ物は気をつけているつもりなのにやってしまって、そのたびに『今度こそ』と決意する。しかし何故か翌日も何か一つは忘れ物をする。そういうことを何度も繰り返すたびに『私は救いようがないくらい頭が悪い』と思うようになりました。対人関係も下手でいつも取り残される。さらに自分はダメだと思いこんでいく。はっきりと自己評価が下がったと自覚のある記憶は、中学に入る前後からです。
ただ、よく気をつけて記憶をたどると幼稚園の頃、担任が厳しく、よく注意されたり叱られたりしていました。
果たして幼稚園のころに『自分の問題に気がついていたか?』というと微妙ですが、一番印象に残ってる記憶は、途中で家に帰りたくなって、友達に『おうちに帰るから』と告げて帰ろうとしたとき。先生が何人か追いかけてきて、なんだか必死に訴えるのを見て『これはしてはいけないことらしい』と気が付き、『そういえば友達はみんなダメだと言ってくれた、それなのに私は言う事をきかなかった』とぼんやり考えていたような記憶があります。同じ時期に、人前で叱られたり、登園拒否の記憶も鮮明に残っているので、私の自己評価はすでにこのあたりから少し下がったかと思います。
さてここしばらくASの人のコメントを読んできましたが、私から見るとASの人の自己評価は下がっていないように見えます。でもASの人にだって辛い体験がないわけじゃない。辛い体験と自己評価は必ずしも一致しないのでしょうか?だとするとそれはどうしてだろう、と考えこんでしまいました。
しかしながら、「認知の歪み」は簡単には矯正できない厄介な部分です。
この「認知の歪み」には「はっきり」言っていただくことによって「目が覚める」効果が私にはあります。
しかしながら、ほとんどの認知がこうまで「歪んでいる」「現実」はASにとって「絶望」に近いものがあります。
今はスモールステップで時々息を抜きながら「認知の修正」に心がけています。
常に自分をコントロールしている状態ではありますが・・・。
私はASの人が「苦しんだ体験を持っていない」とか、「自己評価が下がっていない」ということを理解してほしいのではありません。「そのことが人のせいではなくて自分のせいで、自分の問題でこうなっているのだ」という問題の自覚がADHDの場合に出発点からあることが多いということを理解してほしいだけです。
自己評価が下がった後で、「自分が変わらなければならない」「自分を変えなければならない」と考えることは前向きなことで、非常に大事な気付きです。ここがコーチングの出発点として非常に重要であるということを理解してください。
私の言いたいのはそれだけです。それ以上の意味を付け加えて理解しないでください。
コメントありがとうございました。
(パソコンのキーボードの調子が悪く、アルファベットの小文字が打てません。ニックネームが大文字でごめんなさい。)
コメントを読んで、涙が流れてしまいました。
私の辛い体験を、受け止めてくださってありがとうございます。
もう一度、YANBARU先生のホームページに戻って、自分に忠実に自己診断から見直してみます。
ありがとうございます。
ポイントは『問題の自覚』でしたね。
どんなに悩もうと、担任の先生を恨もうとも、最終的には『自業自得』にたどり着くのでした。
確かに「自分が変わらなければならない」「変えなければならない」と決意した日があります。それは、青年期だったと思います。
ただ私の場合、幼稚園の頃から『他の子なら絶対しないようなことをやる子ども』だったために注意を受けることが人より多く、自分の実感として『自分が思ったことをしようとするといつも叱られる』と感じていたのだと想像します。だから幼稚園年長のあたりから『叱られない行動』を考えて実行するようになった。でもそれは本当の意味で『問題を自覚して』ではなかった。ただ、AC人生の第一歩であったというだけです。
思春期に自覚していた問題も恐らくAC的に、という意味での気付きであったと思います。忘れ物をする→だから私はダメだ、頭が悪い、という短絡的な発想。本当の問題はそれではなく、『忘れ物をしやすい自分の脳の働き』に気が付くべきだった。自己評価が下がったのは、『問題に気が付いてはいたけど、本質的な問題には気が付かないでいたため』だったのではないかと、自分なりに考えました。
(これは自分のための分析です。それ以上の意味はありません。)
しかし、「AS」と「自覚」してから、もっと自己評価が下がりました。
とゆうことは、それまでの自己評価は実はそんなに低くなく今は落ちるところまで落ちた・・・とゆう感じです。
確かに自己評価がどん底まで落ちることは、とても辛い事ですが、そこから這い上がろうとする自分がいます。
「自分を知る事」は嫌でも現実に目を向けなくてはならない作業です。
今までの私はその「現実」から目をそむけながら生きてきたので仕方ないと感じています。
「歪んだ認知」を「現実」と照らし合わせて一つ一つ確認していくしかありません。
「AS」と自覚して主人とは全く喧嘩をしていません。(仲がいいとは言えませんが・・・)
「ADHD]であろう主人とスタートが並んだからなのでしょうか?
今は主人の風変わりな所も「見てみぬふり」ができるようになりました。
それまでは、問い詰めたり、見下したりしていましたから。
スタートが並んだ事で、「お互い様」とゆう気持ちになれたようです。
先生の仰る「スタート」と意味合いが違っていたらごめんなさい。私の勘違いかもしれません。
これも私自身の確認のための書きこみなので、その旨お断りします。
本当に問題として自覚したのは、昨年夏頃だと思います。真面目に『変わらないと』と考えました。それまで何度も『変わらないと』と考えていながら、全く進歩が無い自分に行き詰まってしまったのだと思います。
辛かったのは『本当の自分の姿』を見つけることでした。思えば幼稚園の脱走未遂事件以来、『周囲にあわせる』ことだけ考えて生きてきたから。自分の好みさえ、人に合わせていたくらいですから『好きなこと』を見つけるのも『楽しい』と感じることを見つけるのも『果たしてこれは、本当の自分が望むことなのだろうか?』と常に問いかけながらでした。
やっと本当の自分を見つけた今、今までの辛い経験がきれいに流れてしまったかのような気持ちです。
これからは、自分がいいと感じること、大切に思うことを最優先に生きていきたいと思います。
私が考える『自己評価』というのは微妙に違って、文字通り『自分という人間の価値への評価』というような意味です。具体的に言葉にすると『自分はダメな人間だから』というようなことです。私が前のコメントで『ASの人は自己評価が下がっていない』と書いたのは、ここでのAS方のコメントを読む限りでは『自分はだめな人間だ』ということを殆ど感じることがなかったからです。言葉でどう表現していても『それでも私は悪くない』という雰囲気やオーラ?を感じていたのです。それが私の率直な印象です・・・あくまで『印象』ですけれど。
(だからASの人は辛くないと言ってるのではありません。)
何故だろう・・・。
私は言葉が厳密ではないので、何て表現したらいいのか難しいですね。
確かに「自己評価がさがる」ことは「プライドが傷つく」ことです。そして、「自己嫌悪」に繋がるのですが。
私は最近ここに来たばかりで、急激に発達障害についての情報が入ってきて、少々混乱してます。
正直、まだ自分が何者なのかも、どちらに属するのかもよくわかってないです。
ASとADHD・・・。
どちらも当てはまるのですが・・。
『愛着』で決めるとしても、発達障害を持って生まれてきた子供を特別に手をかけざるを得ない状況下では「私が守らずに誰が守る?」という気持ちが根底にあったので、もしも私が多数派だとしても(ありえないけど)特別な関係になってしまうのではないか?と思ったり。
私は『プライド』が高いのかな?
marioさん、私って、どう見えますか?
もし読んでたら正直に言ってください。おてやわらかに!
自己診断で迷われているようですので、私の印象を書きますね。YANBARU先生、もし私の印象に関してご意見ありましたら指摘してください。
私がHIKARIさんを見た印象は『積極奇異型AS』です。ご自身はどうお感じなのかわかりませんが、特定の人に対して(私から見ると)かなり強い愛着を感じます。愛着というのは、私的には『愛情とは微妙に違うけれども本質的には同じ』です。その感情の中には『この人にはわかってもらいたい』と強く願うことも含まれると思います。
私の本質はADHDです。私は特定の人に対して『この人に』わかってもらいたいとはあんまり思いません。もちろん、わかってもらえたら嬉しいけれども、所詮違う人間なのだから完全に分かり合えないのは当たり前だというのが基本的にあります。
それとプライドが高いことが問題、というよりも『自分にもどこか問題がなかったか』と思えるか、思えないかです。自分に問題がないという考え方が根本にあると、自己評価が下がらないのかもしれませんが、別の意味で自分を辛くさせます。
極端な話ですが、たとえば、です。『自分はまったく悪くないのに、人から辛くされる』と思うことが逆に自分を苦しめる、ということなのですが、これがどういうことを意味するのかが、わかりますか?
医者になって・・・医大生の時代から
「俺ってADHDかもなぁ」
と、思っていたことがあります。一応診断基準に照らし合わせると違うことになるのですが・・。
自分自身、今何かで困っていることも無いのですけど・・・ふと時間があったので覗いて読んでいました。非常に面白かったです。
一応、僕の小学生のころですけど・・・よく、問題出されても一瞬集中して、解いたあとは人にちょっかいをかける。これはちなみに予備校時代まで変わっていないと思います。露骨でないだけで・・・。
先生のHP見ました。非常に面白かったです。僕に当てはまるところもありましたが、全面的には当てはまらないと思っています。「同時並行でいろいろ考えている閃き派」な自分ですが、たぶん学生時代に4つの長をやっていたので、協調性はあるほうだと思っているのですけど・・・。
いや、本当に勉強になりました。また、時々見に来ます。では、失礼いたします
そういえば確か「わかってもらいたい人は限られてる。配偶者であったり、精神科医であっらり・・」というコメントを記したことを覚えています。
今、冷静に考えると、限られてなかったような気がしてきました。yurinさんでも、YANBARU先生でも、話を聞いてくれる人、話を聞いてくれそうな人を求めたと思います。
不用意で安易な発言をお許しください。
それから、
「それとプライドが高いことが問題、というよりも『自分にもどこか問題がなかったか』と思えるか思えないかです。自分に問題がないという考え方が根本にあると、自己評価が下がらないかもしれませんが(ここまでは、意味解ります)別の意味で自分を辛くさせます。(ここから最後の部分が解りにくいです)」
たとえ話で説明を加えてくださっていますが、解りにくいです。ここで言う「自分」とは私のことでしょうか?
yurinさんが、どういう考え方をお持ちなのかわからないままなんとなく、あなたのブログを読み、心が動き、友達になりたいと思いました。正直な気持ちです。
私から見たyurinさんは、良い意味で『とても強い女性』です。かなり誠実な方だろうことが分かります。
だから、私の『不誠実』ととれるコメントが許せなかったのでしょう。
私の問題は、この『不誠実さ』だと思います。
『自分と向き合う』ということは辛い作業ですね。
自分の弱さ、欠点ばかりが見えてきます。
自分は何らかの発達障害であることの自覚はできても、今はまだ「あなたはASです」とか「あなたはADHDです」と診断を下されるのは正直、怖いです。自分で思ったとしても、自分以外の方からはっきり診断されるのは怖いです。
今は急激にASとADHDの違いの情報が入ってきて、こう見えてもかなり混乱してます。
今後ともどうかお手柔らかにお願いします。
今、『積極奇異型AS』をじっくり読んでいます。
やっぱり、当てはまるかもしれません・・。
迷うところもありますが・・。
あなたのご指摘、真摯に受け取ります。
ありがとうございました。
こちらの書きこみに気がつかなくて、ごめんなさい。
>別の意味で自分を辛くさせます。(ここから最後の部分が解りにくいです)」
問題点に気がつくことは、確かに辛いし、いろんな苦しみも伴います。だけど問題点がわかるということは、その解決策も見つけられる、というふうに私は考えます。逆に問題点に気が付けないと、解決策も見つからず、現状に踏みとどまったまま何も変わらない。辛い現状は辛いまま、ということです。
自己診断についてですが、迷われていたようなので、あくまで参考までにと私の印象を率直に書きました。診断を決めるのはもちろんHIKARIさんご自身です。自分が納得するのが一番大事です。
私の自己診断の一番の決め手(ポイント)は、YANBARU先生の基準『愛着の有無』という点で書きました。ADHDとASは一見非常に似通って見えますが、違うのは実はこの点だけだからです。
私はADHDという診断は比較的すんなり受け入れたものの、『やっぱり努力が足りないだけかも』とか、『もっと頑張れば普通になれるかも』という形の否認に苦労しました。認めたいのに認められない、という状況です。
人間、問題点は違っていても、実は誰でも持っているものです。ただ気が付くか、つかないかの違いです。
私はあなたを不誠実だとは、全く感じていませんよ。ただ、ちょっと『驚かされた』ように感じたことはありましたけど、それは『少しだけ』あなたを理解できたので、今は納得しています。
>話を聞いてくれる人、話を聞いてくれそうな人を求めたと思います。
私は話を聞いてくれそうな人・・・というふうに求めることはもともとの思考にないのですよ、実は。もちろん、今でこそ話を聞いてもらいたいときは、聞いてくれそうな人かどうか?考えるようになったけれど、もっと昔の小学生の頃や、あるいは中学高校あたりでも、そんなことは考えようとあまりしませんでした。
『話すときは話題によって相手を選ぶ』とか『聞いてくれそうな人を選ぶ』ことを考えたり、それをどうにか実行できるようになったのは、社会に出て何年もたってからだったと思います。失敗もたくさんして、嫌な思いもいっぱいして、もろもろの荒波をこえて、やっとできるようになった、というのが実感です。
ADHDは、もともとはそういう障害なんです。不足している能力をみんながそれぞれの努力でおぎなって、どうにか生きているというのが正直なところです。
>問題点にきがつくことは、確かに辛いし、いろんな苦しみを伴います。だけど、問題点がわかるということは、その解決策をみつけられる・・・。
そうなんですよ。先日いただいたコメントの
「別の意味で辛くさせます・・・」
の意味を解釈するのに時間がかかりましたが、yurinさんのこの言葉で、私は『目が覚めた』と思います。
そういえば、表面的にしか自分は「反省してなかった」ような気がします。言葉で「反省」とか「自己嫌悪」とか口にするのは簡単なことでしたが、本当の意味で、自分自身が心の芯まで打ちのめされるような気持ちは感じてなかったことがわかりました。
それは、心の底に「私は悪くないから大丈夫」「私は間違っていないから大丈夫」という変な自信があって、(これが歪んだ認知なのでしょうけど)この気持ちが私自身の『自己評価を下げるはなかった』ことに気が付いたのです。
これに気が付いたとき、やっとADHDの方と同じスタートラインに立てたと思いました。
やっと、自分を客観的に見れたのです。
yurinさんが言いたかった真意がわかったとき、生まれ変わったような気持ちになれました。
産みの苦しみを乗り越えた・・逃げなくて良かった、向き合って良かった。
やっと、始まる・・・。
そんな気持ちです。
mario様
自己正当化型ADHDの問題は別に詳しく検討する予定です。自己正当化型ADHDの人の場合には問題を自覚することは合理的でないだけ、ASの人よりもなお困難な感じがします。
HIKARI様
最初のあなたのコメントと2回目のコメントの印象がかなり違います。これは表面的な印象ですが、感情的な反応と取られるような(最初の)コメントはかなり相手に圧迫感があります。私の受け取り方の問題でもありますが。あくまで表面的な印象で、2回目のコメントを見れば思いすごしであったことが分かります。
みい子様
自己評価が「下がる」というのも、あなたがあなた自身に厳しすぎるハードルを設定しているからではないですか?
人間はみんな有限で、完全ではありません。ぼちぼち生きましょう。
アンフェタミン様
私も時々拝見しています。今後ともよろしく。
yurin様、HIKARI様
ここのやり取りは非常に重要で、お二人ともよく頑張りました。そのうれしさはお二人が一番よく感じていると思いますが。これはこのブログの上で「理解が成立した」という事実の証明です!。
コメントありがとうございました。
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