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2007.01.31 08:25 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

ADHDの脳に合った生き方

 多数派を観察することは、同時に多数派との比較の形で自分自身のADHDとしての脳の働きの特徴を具体的に理解することを意味することはこれまで書いてきてお分かりだと思う。

 実は多数派に対しての仮説が積み重なってくると、「とても合わせては居られないくらい違う」ということが分かる。私の場合はそうだった。そもそも求めていることが根本的に違い、「合わせる必要性があるのか」という疑問も生じてくるほどだ。

 その段階ではじめて、「(多数派を見据えた上での社会全体の中での)自分なりの生き方」の方針を決定することが可能となる。

 「多数派はこんな人たちで、自分はこういう脳の働きを持ち、こういう違いがある。だから自分はここまでは多数派に合わせて生きるが、ここから先はADHDらしく生きる」。という自分なりの生き方の方針を定めることが重要で、コーチングの短期的な目標となる。

 私はこれまで20年以上の観察結果から多数派について多くの仮説のストックを持ち、多数派の行動についてある程度の予測が出来る。だから多数派に合わせて生きようとすればある程度は出来るとは思うのだが、そうした場合のストレスが大きすぎて実際にはADHD丸出しの線で生きることにしている。

 私の「偏屈者宣言」はそういう意味での私自身の「ADHDの脳に合った生き方」である。

 http://www7.ocn.ne.jp/~k-goto/henkutu.htm  

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 これまで説明したように、ADHDもともとかなり「分からない」障害であるが、自分のことをある程度合理的に見ることは出来るため、自分の努力で一部は障害の部分を補うことが出来る。

 その中でも大事なことは、「多数派を観察する」作業だ。私もADHDであり、直感的に状況察知は出来ない。カミさんに教えてもらったり、自分自身と多数派を観察し推論した結果をここに書いている。

 具体的には、「周囲の人はなぜこういう行動をするのだろうか? 」ということを考え続け、とりあえずその人の行動を説明する仮説を自分なりに想像する。説明の仮説が当たっているかどうかは、現実に現れた行動を「予測できるかどうか」で決める。

 当たる確率の高い仮説であれば、「次はこうなるはず」という予測が可能で、とりあえず毎回予測をしておいて、実際に当たったかどうかを確かめる作業を全ての場合に続ける。

 そういうわけで、「すぐに反応しないほうが良い」と私は思う。特にすぐに感情的に反応すると、見当違いになる確率が高く、相互理解につながらないことが多い。感情的にならないためにも、「観察と予測」は大事なことだ。

 多数派の場合には、本人に「どうしてこういう行動をするか」を直接聞いても答えられないことも多い。その理由は、私の推測では、「思わず、当たり前として直感的に行動しているから、何故と聞かれても答えられない」のだと思う。

 多数派を観察し、一つ一つの多数派の行動に対して説明と予測を繰り返して、多数派の行動を説明する「仮説のストック」を作り上げれば、それを直感の代わりに使用することは可能だ。

 私が青年期以来25年くらい積み重ねてきた仮設をまとめることが出来れば役に立つかもしれない。今進めている作業がその「基礎編」にあたるのかもしれない。  

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2007.01.28 09:23 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

ADHDの幻想

 ADHDの説明に戻ろう。ADHDは自分の障害と二次障害のために、自分以外の多数派について、いくつか幻想を持つようになると私は思う。 

幻想1.多数派の人はお互いを言葉で説明しなくてもよく理解しあっている。

幻想2.多数派の人はお互いを傷つけないで平和的に人間関係を進めている。 

幻想3.多数派の人はお互いに配慮しあって、激しい意見の対立も無くスムーズに合意を形成し「調和」的な解決をしている 。

 以下はADHDとしての私の観察結果であり、私の「推測」「仮説」でしかないが、多数派を見るときのひとつの参考にしてほしい。 

1.まず「理解」の意味が違う。多数派にとっては「理解」は単に「表面上の対立が無い」というだけの意味しかなく、ADHDの求める真剣な話し合いの結果としての理解とは大きく異なる。

 だからADHD的に言えば、「多数派は理解しあっている振りをしているだけで、表面上話を合わせているだけに過ぎない」。 その証拠に、(ADHDから見れば)多数派は一対一の別の場面では別の考えを平気で言える。

2.よく観察すると、多数派は、ADHDに見えない水面下の表情や言い方のやり取りの中で、反感を示したり、無視したり、非常に「(ADHDから見ると)怖い」やりとりを頻繁にしている。「ねたみ」「そねみ」「あてこすり」「みせしめ」という用語は多数派の世界の用語であり、これはそういう現象が当たり前にあることの証拠だ。

 多数派はお互いに「見えないようにしながら激しく傷つけあう場面がしばしばある」

3.多数派の「表面上対立があることにしないようにしながら合意を形成する」というシステムは、「責任を明確にしない」という意味があるように私は思う。誰かが主張し、一人ひとりがそれに賛同し、合意を形成すれば、当然「賛成した責任」が生じる。

 上記のように多数派は他の場面では「あそこではああ言ったけど、実は***」と本心と違う「建前」の意思表示をしているので、当然の結果として責任を負えない。

 だから私は「調和」というのは責任をあいまいにする機能を持っているのではないかと推測している。   

 多数派はさもお互い分かりあい、お互い配慮しあい、平和的にスムーズに合意を形成しているように振舞っていて、ADHDが正直率直に発言すると、さも場の雰囲気を壊す乱暴で強引な行動であるかのような態度を示すが、これは言葉や態度の通りではなく、ただ「多数派流の表面上平和な振りをして責任をあいまいにしたいスタイルにとって都合が悪い」ということを表明しているに過ぎない。

 この幻想が元で自己評価を下げているADHDは真相を見極め、自己評価を修正しよう。多数派は発達障害に比べて全てがそんなにきれいで平和な人たちではないのだ。 

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2007.01.25 08:25 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

問題の自覚

 ADHDの認知とその結果の努力について事細かく説明してきたが、ここで理解して欲しい大事なポイントは、「問題の自覚」だ。

 ASの人のコメントの中に、「私も人間です」という表現があり、実は私は「うらやましい」と感じた。かつての私は、(自己正当化型ADHDからも)親からも繰り返し「変わっている」と言われ続け、「自分は変わっているのだから他の人と同じように楽しくなくても当たり前なんだ」と思い込んで思春期を過ごしていた。

 だから「自分もいつかは人間だと言える様になるのかなあ」というのが元々の私の自己評価で、始めから「人間です」と言えるのはうらやましいわけだ。私は極端かもしれないが、自己正当化型を除き、ほとんどのADHDは思春期に入る段階で自己評価が下がり、その代わりに「自分に問題があること」を自覚する。

 だからほとんどのADHDは「自分自身を変えなければならない」ことはすでに出発点から分かっているということをASの人に理解して欲しいと考える。多くのADHDが、診断されて「楽になった」というのは、自分ですでに自分の問題を自覚しているからだ。

 その立場からすると、「多数派と違って同じように問題があるのにそれを認めず、自分の問題を自覚しない」というASの当初の立場が非常に傲慢に見えると言う状況を想像してみて欲しい。 

 このブログで私がかなり「はっきり」書いてみた結果、ASの認知のゆがみに気付かれたASの人は、ADHDから見るとある意味で「やっと自分たちと同じスタートラインにたどり着いた」ということになる。

 問題の自覚が無ければ、診断が分かっても当然否認するだろう。しかし問題を自覚された方は、「自分こそが普通だと思い込んで独善的に問題を自覚することを拒む」状態が非常に不幸で、それこそ救いがたい状態であることは分かると思う。

 そのためには、誰かが一度は「はっきり」言うしかない。これは本人の前進のためにどうしても必要なことであり、辛くても乗り越えなければならないことである。

 それが分かっていて、「相手が辛いだろうから」という「理由で本当のことを言わないことを私は「配慮」とか「優しさ」と呼ぶべきではないと(個人的には)考える。  

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 「ADHDははっきり言おう」を書いた後で、はっきり言うことの中身の説明をする必要があると感じていたが、このブログへのコメント自体にこの問題が当てはまることが分かったので、ここで注記しておくことにする。

 基本は「脳の働き方の根本的な違いをお互いに理解する」ことであり、その意味は、「何を言った時に相手が傷つくか」とか、「どんな言葉が誹謗中傷になるか」が事前には分からないということだ。

 そういう中で、例えば「トラウマになっているので言わないでほしい」と言えば、事実上「何も言うな」という意味になり、相互理解は進まない。また、「最低限の配慮」と言っても、何が最低限でどんなことが配慮になるかは人により理解はまちまちで、結局「傷つける可能性の少しでもあることは言えない」という結果になるのが落ちだ。大事なことは、それでは相互理解が進まないということだ。

 だから、「これは言わないで」ということはなるべく書かないようにしよう。その代わりに、「あなたのその表現は、私には***の意味のように受け取られるけれどそう受け取っていいですか?」という質問をするのが生産的だと思う。

 ASもADHDのACも、断定が早すぎる。断定するまえに、「相手がどんな意味で言っているか?」について正確に確認する作業が必要で、これは相互理解に前向きな態度といえる。

 私が「はっきり言う」という意味で書いた意味は、「(ASの人に)それでは脅しに私には受け取れるけれどそのことが分かっていますか?」とか、「そういう言い方をすると相手は何も反論できなくなるということは想定していますか?」というようなことだ。

 そういうことははっきり言わなければ分からない。一般的に説明すれば、「あなたの言っていることの意味は私が見るとこういう意味に受け取れるのだけれど、その受け取り方でいいですか?」と毎回確認しなければならないほどADHDとASの間の違いは大きいということをまず理解してください。

 この説明で分かりましたか? 「発言する前に考えるのではなくて、指摘されてから改めるのでも努力や誠意とみなす」、「最初は分からなかったことで、後できちんと理解して改めれば、快く許す」ということをこのブログでの基本的なルールとしましょう。

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2007.01.22 12:25 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

ADHDの努力

 前回までは、「ADHDがもともとはどんな場所に居るか?」について詳しく説明した。この状態を出発点として、個々にいろいろな工夫をして現実生活に適応の努力をしている。(外から見て分かるADHDの姿は、もともとの状態にその後の努力を付け加えたものであり、理解のためには区別しておいたほうが良いと考えてあえて別に説明している)。

 さてADHDは(自己正当化型ADHDの一部の人を除き)幸いに「理論的にドライに合理的な見方で現実を認識する」ことが出来る。この認識の特徴は、これまで説明した認知の特徴から、「自分の利害に無関係」で、「特定の人の立場に関係なく非常に客観的で公平」という特徴を持つ。この部分は常に自分を中心とした形で世界を見ているASと大きく違うところであると思う。

 さてこの合理的認識で、自分の「出来ないこと」についてはみんな遅くとも思春期頃には理解して、「何とかしよう」と考える。その段階で自己評価は下がっている。初めから、ADHDにとっては「自分が変わらなければどうしようもない」ということは明らかだ。(ただ多数派については場の直感的な理解の部分は想像さえ難しく見当外れのイメージを持つことが多いが)。

 また、ADHDは「先入観にとらわれない想像力」を持つ。毎日が異文化理解で、見知らぬ町に来たばかりのような状況では、毎回いろいろな想像を廻らせながら生きるしかない。

 私は中学時代までは「他者からどう見えるか」を全く意識できず、情緒的には小学校低学年レベルの子供だったと思う。十代後半に自分が嫌われていることを意識しだしてから、周囲の人の行動を観察し、失敗しない行動の選択について試行錯誤を続けてきた。

 44歳になった現在でも「独占したくなる嫉妬」とか「言わぬが花」といった高度な情緒的な状況理解は出来ないため、情緒的には小学校高学年レベルに留まっているだろう。

 それでも想像して理論的に説明してみる試みの連続の結果、多数派の行動に関する説明の理論的な仮説の「ストック」が出来上がり、それでこの仕事をしているようなものだ。

 だからADHDは根本的に理論的な異文化理解に向いており、トレーニングによりASやADHDなどのマイノリティーと 多数派の「通訳」をすることが可能であるのだ。

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2007.01.20 22:25 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 5

ADHDの二次障害

 ADHDはもともと、認知全体が「これはこれ」、時間認識が「今しかない」、対人関係が「基本的に一人」という世界に生きている。

 当然であるが、これでは現実生活上不都合が多く、学校生活や職業にスムーズに適応できるわけが無い。親からも言われた通り出来なくて叱られ、学校生活でも忘れ物などで同級生と同じように出来ないことを思い知らされ、状況は分からなくても、言語的にはっきり否定されることが続き、ADHDは自己評価が極端に下がる。

 注意欠陥や多動傾向がある場合には、これらの問題行動でも自己評価が下がる。

 学童期を終えて思春期に入るころには、「周囲の人はお互いに言葉で説明しなくても全部分かり合っていて、自分だけが何もわからない状態でいる」と思い込むことが多い。私は内緒話でいじめられた記憶がある。

 思春期を迎えて初めて自分自身を自覚する時のADHDはこんな状況だ。ここがADHDの出発点で、ここからそれぞれ個別の経過をたどることになる。

 「自分は何も分からないぜんぜん駄目な人間だからとにかく周囲に合わせるしかない」と思い込むのが「ADHDのAC」で、ひたすら周囲の人から評価される、嫌われないことだけを目標に生きることになる。

 自己主張などは後回しにして、とにかく周囲の人の行動を観察し、表面だけでも周囲の真似をして、個人差はあるが「普通」に近い生き方を目指す。しかし多くは見当はずれな状況理解のために、評価に過剰反応をしたり、気を使っているつもりの割には場に合わない行動をしてからかわれたり、ますます自己評価を下げる経過になることが多い。

 ここまでが「何の対策も取らないでいるADHDの自然な経過」のイメージだ。

 私はパートナーや家族としてADHDに関わるASの方に理解してもらうことをひとつの目的に書いているので、出来れば「ASから見てどう見えるか」のコメントもお願いします。

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2007.01.18 08:25 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

ADHDの認知③ 他者の不在

 「これはこれ」「今しかない」という認知の世界に住んでいる結果として、当然対人関係にも多数派やASと大きく異なる認知が生じる。

 言ってみれば、「他者との関係を意識しない限り単独」、「あなたもこの”場”に加わっていると説明されなければ周囲に人がいても自分には関係ない」という、基本的に「ひとりが当たり前」なのだ。

 物理的空間的に会話するような近い距離に複数の人がいたとして、その複数の人同士が話をしていて、途中で自分に話を振られると、「急に言われてもわからない」、時には「私は話に入っていなかったはずじゃないの?」ということになる。

 つまり、「あなたも話に加わっているのよ」と説明されない限り、その「場」に参加していることにならないのだ。

 これは対人関係の全ての場合に当てはまる。「場の雰囲気」とか「状況」は、人から言葉で説明されるか、または自分で努力して客観的物理的な状況分析をしてそこから導き出された仮説という形で「想定」しない限り自覚されることは無い。

 これは「始めから非常に近い距離で他者が感じられ前提されているASの人や、直観的に場の中での重要性などの「位置関係」を感じ取って行動を決定する多数派と根本的に異なる人間関係の認知であり、ここからADHDの「理解不能」な言動が生じていると私は考える。

 ADHDのコーチングでは、この直観的に分からない状況理解を、意識して「状況分析」で補うトレーニングを行うことが主体になる。ADHDは当たり前にこの努力をしないと生きていけないのだが、現実の中では「一生懸命自分なりに合わせているつもりなのだが」結果は残念ながら見当外れになっていることが多い。

 ADHDからの努力は当たり前として、家族やパートナーには、「これくらい出来ないのだ」という出発点を理解してもらうことは相互理解のために有効だろう。

 この意味でも、ADHDは視覚障害や聴覚障害に近い「能力の欠損」であると思う。ただそういった障害と同じように、「逆に出来ないなりにやっていく方法もある」ことも言える。  

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2007.01.17 12:15 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 5

ADHDの認知② 「今しかない」

 ADHDの認知①で説明した様にADHDの認知は基本的に断片的で、いろいろな要素が関連付けられないでバラバラになっている。時間の流れも同様で、「他の人にはつながった映画のように見えることが、ADHDには断片的なスライドの集まり」としか映らない。

 言ってみれば、ADHDにとってあらゆる瞬間が「今この世に生まれたばかり」とか、「新しい町に引越して来たばかり」のように感じられているのだ。 

 つまりついさっき数分前のことについても、ADHDに見えている世界では、すでにぼんやりかすんでおり、極端な話「少しでも場所が変わったら一旦全部頭から消えてしまう」というのに近い。

 ADHDにとって「明らか」なのは今現在の一瞬に眼に見えている自分の周りのことだけだ。後は過去のことも「一生懸命に思い出す」しかない。未来のことはなおさら、一生懸命に努力して考えればかろうじて想定できる。

 だから手帳やカレンダーに書いておかない限り、頭から一旦消えた情報は数日後に想起するのは困難で、やりかけの仕事も「まだ机の上にある」からやりかけと分かるだけだ。

 このままでは日常生活でもほとんど生活出来ないので、必要に迫られてメモを取ったり、何とか覚えて置けるような工夫をみんなして生きていくことになる。

 文字や記号で書いて残せるものは辛うじて残せるが、そういう記録が出来ないものはADHDには「残す努力」も出来ない。だからこの部分はADHDで無い人に、何とか理解をお願いするしかないと私は考える。

 「透明でない引き出しに入れてしまった瞬間に脳から消える」、「移動した瞬間に脳から消える」という脳で生きているという状況を想像してみて欲しい。文字通りに「今しかない」「目の前のことが全て」であるのだ。 

 「差別や偏見にとらわれず誰にも平等」というのも実は、「差別や偏見を意識しながら無視していて」という立派なことではなく、「差別や偏見自体、時には危険でさえ想起されないから」というのが実際のところだと思う。

 こういう意味では私はADHDはかなり重い脳の障害であると言えると考えている。

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 前回までのASの分析と同じような作業をADHDについてもやってみようと思う。自分のことであるので、私も意識化することが少し難しいので、本人も家族も、ADHDについての素朴な疑問などの協力をお願いします。

 さてADHDの認知の一番大きな特徴は、「個々の行動や認識したことが相互に関連付けられない」ということだ。「これはこれ、あれはあれ」である。たとえば、今日のことと昨日のことは同じことでも「別」だったりする。

 特に時間的に前のことと今のことは別のことのように認識され、一貫性がない。一番極端な例は、「ギャンブルにお金を使うことと、借金の返済が遅れることは別」になったりする。

 時間認知はまた別に詳細に検討するとして、基本的に「現在の目の前にある状況」は一回限りの「いま、ここ」として認識され、同じ行動や同じ人、同じような状況などのポイントで「いま、ここ」以外の他の経験や事実と「比較」もされず、「関連付け」もされない。

 言ってみれば毎回「参考情報なしの初めての出会い」のようにいろいろなことを認知するという形になっている。目の前の誰かの行動の表面に現れない「目的」や「意図」、「結果として起こりうる状態」や「自分に有利かどうか」などとはまったく切り離されて、「ただ目の前のことに単純に反応する」という感じだ。

 この認知の結果として、「軽はずみ」、「場当たり的」「非計画的」「近視眼的」といった行動パターンとなる。

 他者との付き合いにおいても、極端な話「これまでの経過との関連をまったく考えないで」対人行動を決めるので、「全く意味が分からない」と思われることが多いだろう。

 逆に「利害や状況や世間の見方などに捉われないで正対して誰にでも平等に接する」という風に表れた場合はその状況に限って長所ともなりうる。未来の不確定性の多い状況や、新しいものを開発する状況、差別や偏見に捉われない必要性がある場面などはこのスタイルがプラスに働く。

 多数派もASもこのような極端な「関連付けない」発想はしないので、理解されるためには、ADHDも頭で状況の比較や関連付けを補ってみる必要があるだろう。

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