私が「偏屈者宣言」をHP上に載せたのは5月だった。その後もクリニックでASやADHDの当事者の人たちと対話を続けながら、メール相談の返事を書き続けてきた。
7月にこのブログをはじめ、10月にテレビ取材があり、11月に全国放送でカミングアウトという話になり、最近は地方紙にADHDの原稿を載せる相談をしている。
この5月と現在を比べても、私自身の発達障害への理解は日々発見の連続だ。特にASの人との語り合いは、異文化交流であり、別の思考の枠組みを想像する努力の連続で、非常に楽しい作業だ。
私自身、かつて相談された人を発達障害と診断し切れなかったことが多くあり、それと疑わないと発達障害と診断することは非常に難しいことを痛感している。
11月になり、「自己診断」の必要性を痛感して、「自己診断ガイド」を簡単に作成した。自己コーチングガイドのほうはまだまとめている最中であるが、「自分で見立てをつけ自分でコーチングする」、「支援センターのケースワーカーの援助でコーチングを進める」という形へ向けてガイドとなる資料を作る作業は続けて行きたい。
来年は少し今まで引き受けすぎた仕事を減らすことを考えよう。より思春期以降の発達障害に焦点を絞り、人に任せられることはできるだけ任せて、自分の限られた時間を有効に使うための努力に時間を使いたい。
このブログは役に立つ資料を当事者の方と共同作業で作っていこうという試みだが、ここでもいくつかの出会いがあり、私自身かなり勉強させていただいた。
ブログの書き込みで私の作業に協力していただいた皆さん、来年もどうぞよろしく。
ASにとっては「分からない」「見通しが立たない」ことは非常な不安であり、そのために強引にこじつけてでも見通しを立てたり後付けの理論を組み立てたりする思考が当たり前となっている。
自分自身の予知不能で不確実な未来自体が、(よほど安定した環境に恵まれない限り)、非常なストレスを感じることになるのは当然とはいえASにとっては「生きているだけで困難」となる理由のひとつだ。
予知不能なものは未来のほかに「他者」がある。他者の「本心」も当然だが完全に正確に知ることは出来ず、それどころか現実の生活の中での必要な情報さえうまく伝わることは難しいのが現実だ。
他者の「現在の真意」でさえ理解不可能であり、当然「他者の未来の見通し」はなおさら確実に知ることは不可能だ。
これはASの人にとっても曲げることの出来ない当たり前の「事実」「現実」であり、このことを弁えるのが「支配の断念」である。
具体的には、「他者は永遠に未知である」ことを現実として弁え、他者について現在の本心についていかなることでも「断定」したり、無理やりに見通しを立てたりすること自体を断念する。
「何が出て来るか分からないブラックボックス」というイメージがある。これはASの人にとっては非常な不安の原因となるものである。しかし驚きやわくわくするような可能性もこのブラックボックス無しには不可能である。
不安の反対側には、「不安は無い代わりに創造や驚きも無い平和だが退屈で無味乾燥な時間」があるだけである。もしもそちらを望むのであれば、人と関わること全体を断念するしかない。
これがASの目の前にある本当の「現実」「真実」だ。と同時に、自らこの事実を受け入れ、相手を支配することを断念することで、人と関わる豊かな可能性が目の前に広がってくることの「確実な」保障でもある。
ASの対人関係の原則は実は「全ての相手をADHDのように扱うこと」ということになるのは面白い。
ASがADHDに何故惹かれるのか考えていて、「理解できない」「支配できない」ことの意味に思い当たった。
最近までテレビ放映していた「のだめ」のようにADHDは徹底的に場当たり的で、ASから見たら「問題外」と映るような理解不能な相手になるはずだ。
しかしADHDにはどんどん変化していく「面白さ」「可能性」がある。もちろんASは「可能性」が生じるや否や自分の理論に取り込むべく「理解」(AS的にはASを不安にする不確定性を無くした形の説明をこじつけであっても立てる)しようとするが、その理解よりも早くADHDは変化していくので、「永遠に理解しきれない、自分に不安を起こさせ続ける相手」であるのだ。
この問題を「相手が多数派や受動型ASであった場合」と比較して考えると分かりやすい。多数派も受動型ASも、ASからすれば反応を「計算できる」。だからどうでもして「コントロールできる」相手である。
コントロールできるとなるとコントロール(支配)するしかない。結果は「うまく行っていたのに、突然相手の態度が変わり、関係を切られる」ということになると私は想像する。
もともと自由意志を持った人を支配しようとするのが間違っているから、当たり前の結果であるのだが、ASの場合認知と思考自体の幅の狭さから支配的な傾向が生じているので、よほど努力しないと支配的でなくなることは難しい。
だからADHDが「支配できない」(それ以前に「理解できない」)ことがASにとって意味があるのだ。この相手には対等となることも時には可能であり、何よりも長期に持続する関係を維持できる可能性がある。
だからAS-ADHDカップルには意味がある。ただし下記の前提つきで。
1.ASはADHDの「可能性」を享受する代わりに、「支配」を一切断念し、不確定の極度の不安に耐える決意をする。
2.ADHDはASを理解はするが、現実の生活ではASの態度に巻き込まれること無く、ADHDらしく自由にきままに行動する。
ASはADHDの「可能性」を享受しながら、「支配」もしようとするという理不尽なことさえしなければいい。ADHDもそれに応じる必要は無い。これがAS-ADHDカップルの成立条件だ。
私自身最近気づいたことだが、ASの人と近く接し続けると、(多くはADHDの場合に)「認知と思考がASのようになって意欲が低下する」という現象があり、仮にAS被影響症候群と名づけた。
ASの人の認知と思考の重大な特徴として、「あらゆることに可能性が一つしかない(もしくは無い)ように考える」という面があり、よく「想像力の欠如」と表現されるのもこの特徴だろう。お金に困った場合などには特に激しくなるようだ。
ADHDから見ると、「どこへ行っても袋小路で、あらゆる可能性が閉ざされて出口がない」という話ばかり聞くことになり、著しくADHDの活力を削がれる状況になる。実はそれだけでなく、「本人を救いたいという気持ちを逆手に取られて脅されている」に近い状況も出現する。
私自身もこの状況に陥っていて、最近回復したのだが、必要なことは、「これはAS的なゆがんだ認知の結果でしかない」、「現実の可能性は依然として無限に広がっており、努力は必要だが意志の自由は何も無くなっていない」ことを確認することだ。
だから私は、少々厳しいことを承知の上で、ASの人に「変わろうという意志が無いということか?」と聞くことにした。他の可能性を見なかったことは本人の自己責任で、誰のせいにするべきでもない。
ASの人の袋小路の言葉を本気で聴くのを止めよう。これはASの思考法でしかなく、そこから脱出する責任は(少なくとも診断とコーチングを受けている場合には)AS自身にある。
ASの人から袋小路の言葉が出てきたら、「あなたがそう思っている限り誰もサポートは出来ないよ」と言うしかない。
ASの人はそう言われる理由をきちんと理解して、自分の言葉が周囲でサポートする相手に及ぼす影響について自覚する努力をするべきだと私は思う。
このところカップルや親子の相性など、実はよく見られる発達障害の現象について説明して来た。
ADHDは思い込みが激しく、ASは想像力が乏しいので、このあたりでこういう「事実」をどう捉えるかについて再び注意しておこう。
「こういう風な経過をたどる人が多くいる」ことは、「こういう経過しかない」ということとは全く違うことであり、また現実の一人ひとりの人生は、「意志」に基づく部分もあり、説明のとおりに行くはずが無い。
ここでの説明は、「何が起こっているかについての理解に役に立つ」参考資料でしかなく、逆にここで私がこう書いたことを根拠に前向きに努力することを放棄している人がいれば、全く持って迷惑な話だ。私は逃げ口上の根拠を提示したくてこのブログを書いているわけではない。
「何が起こっているか」について、理解するところはあくまでも出発点であって、どんなに困難でもその先にはさまざまな経過の可能性があるというのが「事実」だ。
ASは(殊に将来の豊かな可能性に関する)想像力に乏しいので、もともといろいろなことを必然であるかの様な表現をするが、これは「こじつけのゆがんだ認知の結果」であり、「事実」でもなんでもない。
またADHDのACは思い込みが激しく、「こうなる」と書いてあると「そうなのか」と思い込んでいまう傾向があり、それも「もっと自分の頭で考えなさい」というべきところだ。
当たり前のことだが、「生きたいように生きれば良い」。その代わりその責任を人に擦り付けることはやめよう。
私は「意志」の力を信じる。発達障害には特別に困難な問題もあるが、一途な意志の力もある。同じ思い込むのであれば、「出来るはず」「何か方法はあるはず」と前向きに思い込もう。
ここまで夫婦や親子の組み合わせについて書いてきたが、私が接するケースで、ADHDやASが家族の中で「単独」というケースは実は少ない。むしろ大半が発達障害で、多数派が家族の中では少数派になるというケースがよくみられ、「この人だけは多数派」と見えていた人もよくよく見れば発達障害であったという場合も多い。
だから私は家族の発達障害疑いのことでメールで相談されるケースに、「ご家族にもいる可能性があります」と指摘することにしている。
実際、二次障害の起こり方を理解するためにも、また家族がそうだるということは本人の診断の何よりも大きな根拠になりうるので、先に家族が自分自身の発達障害に気付き、理解することは大事なことだ。
特に自己正当化型ADHDや二次障害の重いASの場合、本人に告知する方法には非常に慎重になる必要があり、その場合に、「まず家族の話として発達障害の情報を共有する」という方法は有効だ。
また、告知する場合にも、容易に想像できるように、私自身がADHDであることは非常に有利に使える。「私もそうだが」と言えるからだ。自己正当化型でよほどの(ADHDから言うのも何であるが)無神経でない限り、当事者を目の前にして否認するわけには行かないだろう。
子供が自閉症とか、相手がASやADHDとかを疑う場合、自分自身について自己診断をしてみることは非常に有益だ。
母親がADHDのACの場合
ADHDのACは二次障害のため基本的に自信がなく、また多数派に合わせるために(本人の感じ方としては)「こんなに自分は頑張っているのに」という追い詰められた状況に生きているため、結果として「身近の人に支配的になる」ことがある。
またADHDとして三者関係が分からない部分はそのままであり、子供が思春期に差し掛かると、親の不安定なところを見て、「親として頼りにすることができない」ということになることもある。
思い込みが激しく、時には非常に強迫的な教育ママになることもある。(積極奇異型ASのパートナーに合わせて生活した場合には実はよく見られる。この場合は強迫的に完璧に家事をこなしたりするためにADHDには見えず、パニック障害やうつ病で表面化することが多い)。
自己正当化型ADHDのACの場合は夫や他の人を悪く言い続けて自分が被害者になっているように子供に言いつづけることがあり、子供が合理的なADHDの場合でも非言語的な操作によりコントロールされてしまうことも時々見られる。
子供もADHDの場合思春期になると激しく母親に反抗したり、不登校などの問題行動をすることがあり、こういう現実に直面して、ADHDのACはACから回復するきっかけとなる。
自分がACであると理解してAC関係の本を読むだけでも、ADHDのACは急速に回復することがあり、その後は思春期の子供の良き相談相手となるという展開となる。
自己正当化型ADHDとは、もともとは私の母親を分類するために考えたカテゴリーだ。あまりに表面的で不合理な学歴偏重の認知や、自分の非を認めない特徴がありながら、その他は明らかにADHDであり、私は自分の仲間と認めるのにかなり抵抗があった。
親が自己正当化型ADHDの場合、支配的で愛着の強いASよりも事態は深刻だ。なぜなら自己正当化型ADHDは「価値観を押し付けるだけで、相手は見えていない」からだ。ASは支配的だがちゃんと人間として認知している。自己正当化型ADHDはそれさえしない。傍からみると「自分しか見えていない」という印象だ。
その結果、子供がどのタイプであれADHDの場合は、「話を聞かない」「不合理で理不尽な押し付けをずっと繰り返す」というADHDに対して最悪の結果となり、子供は十中八九ACになる。思春期になって家出したり非行に走ったりして逃げ出せるケースはまだ健康なほうだ。
また子供がASの場合で、愛着が無ければせいぜい家庭内暴力くらいの問題でとどまるだろうが、その母親に愛着を持った場合は、「表面的で自分を見ていない態度に服従し続ける」こととなり、思春期以降にうつ病になるケースが多いと思う。子供が受動型ASの場合でも、場の読めない母親に合わせ続けるために絶えず周囲をうかがい続けるという認知と行動のパターンを身に着けざるを得ないだろう。
ASの親は、多くが子供に愛着を持つが、時に「妻だけに愛着を持ち、子供は無視」であたり、子供にASとADHDの両方がいる場合などに愛着のある子供だけをかわいがるということが見られる。
他方ASの子供も、愛着を持った親に絶対服従し、どんなにひどい仕打ちを受けてもその親からの愛着をひたすら求め続ける。
私は思春期以降「死のうとし続ける」という経過をたどったASの人を数名知っているが、良く話を聞くと、「愛着の対象の親ASの愛着の対象にならなかった」というケースだった。
ASで、しかも愛着の対象である親から無視され、しかもその親は自分以外に母親であったり兄弟に愛着を持つ状況を目の当たりにするという体験はASの子供には辛すぎる。
小さい頃からそういう状況に置かれたら、「死ぬしかない」と思いながら生きることになることは想像できる。
結局、ASの親子の場合は、「愛着のミスマッチ」ということが起こると非常に不幸な経過となる。
3類型では、いずれかが積極奇異で相手が受動型の場合はある程度うまく行く。積極奇異同士はぶつかることが多い。孤立型の場合は相手が孤立を尊重する限り大丈夫だ。
いずれにしても、親子の診断をつけることで分かること、改善できることは非常に大きい。
ADHDの子供を育てるのは難しくない。もともと情緒的に「自立」しており、情緒的な影響を受けにくいので、ACになりさえしなければ良い。要は「本人の話を聞き、言語的に否定しなければ良い」と言うことに尽きる。
しかるにASの親は多くの場合「支配的」となる。もともと対人関係も積極奇異型の場合全体に支配的であるのに加え、子供が愛着・執着の対象であると、完全な支配を続けることもある。
もうひとつ、AS親の特徴として、「試着・執着により子供を差別する」ということが加わると、ADHDは完全に混乱してしまう。
理不尽な支配はADHDの子供にはもっとも好ましくない環境だ。まずADHDには一番大事な「話を聞いてもらう」機会が少なく、また言語的に支配されることで自分に自由が無いと思い込む。「ADHDのAC」になりやすい。
特に思春期に自己主張をはじめたADHD子に対して、なおAS親が支配を続けようとすると、ADHDは家出するか、非行に走るか、またうつ病や解離性同一性障害にになるかする可能性が高い。
子供が思春期になる前に、親か子(もちろん出来れば両方)の診断がつくことが大きな分かれ目となる。
心療内科でACやボーダーとして来院するADHDの人の一群がAS親を持つことは注意してみれば分かる。
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