ASとACの関係は複雑で微妙だ。積極奇異型も受動型もどちらも「表面的には」AC的で、「ASのAC」というと、このもともとAC的なところと、二次障害として変わってACになったところとの区別が非常に難しくてかえって話が分かりにくくなるので、私は最近はあえてこの言葉を使わなかった。
それが、ASの「型」について考える際に、よく「途中である型から別の型へ変わった」と言われる人が多いところで、やはりASのACを考えるべきだと思えてきた。
私の相談に乗っているASの人の多くは、積極奇異型は積極奇異型、受動型は受動型で、私が見る限り「はじめから脳が違う」ように思える。とても相互に移行するようには見えない。
ただし、いくつか状況による行動の変化はある。例えば、「積極奇異型ASが、愛着の相手には尽くす形で非常に受動的になる」ということや、「受動型ASは受動型なので、もともと相手や環境によりいくつかの顔を使い分けている」「特に受動型ASは依存できそうな愛着の相手にはかなり絶対的な要求を突きつけ、出来ないと追窮する」(世間に対してと愛着の対象に対しての態度が積極奇異型と受動型で対照的)など。
だから「場面によって違う」「(親に対して等)相手によって違う」ことは普通にあるとして、本当にこれらを超えた「型」自体の移行があるのかどうかが根本的な問題だ。例えば中心志向の有無などははっきり違うように思える。
この問題を考える時、「積極奇異型ASがACになっていたのが、ACの部分が回復した」という風にACを考慮して考えたほうが説明として分かりやすいのではないかと思う。
上記の、「親に対して」とか、「愛着の対象に対して」という状況による態度の変化を除外して、それでも残る「型の移行」に見える現象は、結局「環境のために後天的にACになっていたのが回復した」と説明できるのかどうかを考えている。
例えば積極奇異型ASの人がボーダー(境界例)的になった場合、「行きずりの関係で不安を解消する」というもともとの積極奇異型にはあり得ない様な(受動型なら当たり前の)行動が、ASのACとして説明出来るように思う。
ASの方、ASの関係者の方の意見を聞きたいので、よろしくお願いします。
よく見るとASの教員もちょくちょく見かける。ADHDと同様「一般のビジネス社会よりは適応しやすい環境」で、「試験に受かればなれる」から、適職のひとつではあるだろう。
ASはもともと面倒見の良いところもあり、教師として立場上上に立つことも出来、発達障害的に正直なところは小学校3年生くらいまではかえってプラスに働く可能性もある。
一時的には非常に優れた先生と言われることもある。これはAS特有の「ノンバーバル(非言語的)にコントロールする」能力を使って、子供たちを良い意味では「乗せる」、悪い意味では「威圧する」形で子供たちをコントロールできるからだ。
(コントロールが一気に外れるので、直後に担当する次年度の先生が苦労することになる)。
思春期以降の生徒の場合には、キャラクターで「オタク」的に尊敬される場合を除き、不合理な面が目立ちすぎて生徒をコントロールすることは難しいだろう。
低学年では、合理的なADHDの子供などはうまく「乗せて」もらって非常に快適に過ごせる可能性もある。
問題はAS教師のノンバーバルなコントロールに反応する児童生徒がどうなるかだ。必発で起こるのは受動型ASの子供が過剰反応を起こし不登校となる。「学校を異常に怖がる」ようになり、頭痛や下痢などの身体症状が激しくなり行けなくなる。
ジャイアン生徒ははうまく依存して優等生になるか、反抗し続けるかどちらかになるだろう。ジャイアンの場合は、よほどAS教師が徹底して公平に振舞わないと、「生徒を贔屓する」ことに反発することもあるだろう。
時々校長になっているAS(受動型と積極奇異型と両方のパターンがある)も居られるが、積極奇異は専制的になり、受動型の場合責任を負い切れなくて苦労するようだ。
診療内科では校長としょっちゅう喧嘩して転勤を繰り返したり、不適応でうつになり休職になるケースもたまに見かける。
この場合もジャイアンと同様、自分の発達障害を理解して「井戸の中」に自分がいることをきちんと自覚して、理解不可能な生徒を抹殺しないように本人が努力することが重要だ。
「女王の教室」というドラマがあったが、あれはASかジャイアンか? どちらにも見える。
学校の先生になるには民間企業に比べれば実は社会性は比較的問われない。医師と同じく教育学部の入試と教員採用試験に受かればなれる。仕事についても相手は世代の違う子供であり、極端に言えば強引にでも「仕切れる」立場に居る。
もっとも同僚や上司との付き合いではこの同じ意味において(おそらく同じ発達障害仲間が多くいるので)一般社会よりも苦労するところがありはする。私は心療内科の臨床の場で休職中の教師もいくつかのケースの話を聞いてきた。
さてジャイアンの立場からすると、結果的には教師は適職の一つではある。権力により優位に立ち「仕切れる」立場が初めからあり、ADHDの合理的で公平な部分と、子供たちのために一生懸命になる特性をプラスに生かせば、ADHDであることを強みにすることまで可能である。
「一人の先生が超人的な取り組みで学校を変えた」というような話はおそらくジャイアンの先生が強迫的な行動力の末に引き起こしたのだろうと私は想像する。
ただし、明らかなことだがジャイアンは思い込みが激しく、しかも「表面的」なものの見方をしたり、ジーキルとハイドの相矛盾することを平気で言ったりする脳の働きの厳然とした傾向があり、エゴを振り回した場合に弱い子供を引きずりまわす可能性が常にある。
受動型ASはぶら下がるのでかえって安定するだろう(翌年不登校になる)が、積極奇異型ASの児童生徒がジャイアン教師と合わないで不登校になることが多いようだ。
学校にASの説明に出向いて「無理に登校を強制すると病気になる」ことを3時間も説明したのに、校長から「いかにもジャイアン」という感じの「はじめに登校ありき」という表面的な発想を繰り返されて絶望的な気持ちになったことがある。
だから、教師が適職となるには、ジャイアンは徹底した合理的な親の元で苦労して二次障害となり、一時病的になり、ACを自覚して低い自己評価の中で自分に常にブレーキをかける思考を身につけた場合のみということになる。
理想を言えばジャイアン型ADHDであることまで診断がつき、自分の発達障害を理解してマイノリティーの自覚をするまで行き、教師自身が通院して定期的なコーチングを受ける体制が確保されれば、ほぼ確実に「使える」教師になる。
私は学童期の発達障害のケースで、「不登校」の指示をすることがある。学校は基本的に「はじめに登校ありき」という発想をする事が多いので、主治医からの指示で学校からの無理な登校への働きかけをストップするためだ。下痢や腹痛、頭痛などの身体症状が激しいケースなどが多い。
ただ実際無理に登校しなくてOKとしたものの、登校し無くなったので、家で楽しそうに遊んでいたりすると、親は「これで本当に良いのか?」と悩む。私にもストレートにぶつけられて、私自身もこれしかないとは分かっているが、確信が持ちきれないで居た部分があった。
今回新学期にいろいろなパターンで昨年登校していなかった数ケースが登校し始める経過を見て、私なりの見通しが出来たので書いておこう。
「登校するか否かを本人に選ばせる形にしておくと、本人が自分で判断して行く様になる」と考えてOKだと私は思う。
小学校低学年でも私は本人に発達障害の説明をするが、周囲の人や家族を「あの人はAS、ADHD」等と本人が言い当てられるくらいまで理解が進むと、不思議と自分で選んで登校を始める。
先に引用した思春期のはじめのケースもそうだが、発達障害は自分で納得することが非常に大事なので、早くに本人に説明して、本人なりに発達障害を理解すると、その結果として「本人の納得した決断として」登校につながるということが起こっているのだろう。
受動型ASの場合はちょっと特殊だが、それなりに周囲の環境(友達など)との相互作用の成り行きで登校するパターンになることも多い。
親が「じっくり待つ」ことが出来るかどうかの問題だ。
ジャイアンの「責任」の観念は非常に厳しい。いかだで川を下っていて川下に滝があるのを誰も教えてくれなくても、落ちたのは自業自得で、逆にもしも「教えてもらう」と中心志向からの自己突っ込みがあるので「困る」面があるくらいだ。
同じ思考を他の人にも適応するので、他の人がひどい目にあっても、「自業自得」「人に助けてもらおうなんて思うな」と非常に冷たく考えることが多い。
弱みを見せて相談するなど、後から来る中心志向の自己突っ込みを想像すると恐ろしくてとてもできない。愚痴もはけない。
だからジャイアンに対して「親切にする」ことはどのようなことでも非常に微妙な意味になる。「偉そうに上からアドバイスなんぞしよって」「あんたは何様のつもりだ」という気持ちが片方では必ず生じるのだ。
ジャイアンの「不親切」にはこういう自分の中の事情があるのだ。世間では「助けるべき」場面でもジャイアンは「自業自得だろう」と助けることはせず、少なくとも私は「人に聞かなくても川を下るのなら滝があるかどうかくらい自分で調べるのが当たり前だろう」と人にも自分にも考える。
ジャイアンが責任逃れに汲々とするのは、ジャイアンの責任のコンセプトが非常に厳しい(問答無用の自業自得)ことを想定すると少し理解しやすいかもしれない。
ジャイアンの中心志向は絶対的な孤独を帰結するのだ。
受動型ASが相手からのアクション無しに動けないことの意味を最近考えている。私の印象では、「最初に依存できることを確認してからしか動けない」ように見える。
依存できることを確認すると、途端に完璧に「依存させる」ことを相手に要求する。というよりも、最初から「依存させるのが当たり前なんだからお前から動け」ということになる。
「受動型」というのはむしろ結果としての行動の特徴で、その前に対人関係の依存があり、それ以外に出来ないというのが受動型ASの根本的なあり方かもしれない。
その「依存」は、AS的な「最初から結果の完全な保証を求めないではいられない不安」から出てくるのだろう。この不安は積極奇異型にもあるが、積極奇異型よりもはるかに支配的、(愛着の対象への)要求が高いという特徴が、逆説的だが受動型ASの一番根本的な部分であるように思える。
誕生前の胎児の段階の母と自分の関係をそのままその後のすべての場合に求め続けているかのようだ。
ここでも時々目にする明らかに「誇大的」に見えるような部分が受動型ASの本性であり、それを出せる、要求出来る相手かどうかを確認するまでは本性を出さず、確認すると豹変して極端に依存的で当たり前の様に自分を依存させることを要求する「あつかましい」態度に出る。
「あなたが最初にこうしたから」「あなたが私を必要と言ったから」というのがすべての依存と過大な奉仕の要求の根拠になるのだ。
親は親であるから依存できるのが当たり前とも言える。外では大人しいのに家庭内暴力の形になるのはこういうケースだ。パートナーもパートナーであるから依存できるとなると要求と追求と自分が病気になることを繰り返すことになる。子供でさえ、当たり前に「この子しかいないから」という意味で依存対象になることも実際ある。
この意味では(表面的な社会適応とは裏腹に)脳のレベルでは一番重症な自閉症的特徴を持つという風にも思える。
根本的な解決は、薬物療法でも発達障害支援でも何でも使って、まず「一人で保証の無い世の中を生きて行く」という決意をすることだろう。
この意味では、依存がたまたま「楽だから都合が良いからするけれども実は本当は納得出来てはいないから身体症状などが出て、根本的には自立したほうが健康になる」というジャイアンとは根本的な立ち位置が違うということになる。
ジャイアンのお姫様症候群の本質の一部は「依存」である。
前のスレッドへのコメントの中に「受動型ASと親子関係のような安定的な恋愛をしながら、積極奇異型ASと刺激的な恋愛をする」という記述があったが、実際は私の印象では「受動型ASでどんなことになっても独りぼっちになって不安になることが無いように保険を掛けておいて、積極奇異型ASへの好奇心と一時的な服従させたい衝動でハンティング(服従させたら興味が無くなりかえってうざくなる)のようなことを続ける」ということではないだろうか?
恋愛であれば、不倫であろうと何であろうと私は本人の自己責任で「治療」の対象であるとは考えない。お姫様症候群が「治療」の対象となるのは、アルコールや薬物、摂食障害(食べ吐き行動)と同じような「依存症」(addiction)であるからだ。
その証拠と言えるかどうかは分からないが、ジャイアンはお姫様をしながらでも摂食障害が治らなかったり、「満足」ということが無く、不安に駆られ続けている。その本質は、「本来ならば自立自尊で生きるべきジャイアンの脳の働きを裏切って依存を続けることへの潜在的な自己突っ込み」である。
本当の解決は「依存をやめて自分の足で立つこと」だ。
だからお付き合いしているAS諸氏には、「ジャイアンを依存させることは本人のためにならない有害な共依存にしかならない」と考えていただいたほうが良いように私は思う。
ジャイアンの若い女性は、しばしば「お姫様症候群」と呼ばれうるような見掛けとなる。
依存型のジャイアンが「中心志向」の矛先を男性への依存や見かけの綺麗さで注目され続けることに求めた場合にこの形になる。摂食障害を伴うことも多い。
例えばAS男性を何名も振り回して服従させたり、どの場面でも特別扱いを求めて、相手に当たり前のように依存できることを求めるところが「お姫様的」だ。
ジャイアンのもともと持っている「自分に有利なことを見抜く直観」を武器に、異性に好かれる、可愛がられることだけを追求して、見掛けの綺麗さや異性を刺激する行動で男性を見事にコントロールする。
特に受動型ASの人などがお姫様に対する奴隷のように尽くしている様をよく見かける。
当たり前であるが、若いときはいいが、見掛けだけで勝負するのは年齢を重ねると厳しくなる。
治療は他のジャイアンと同じで、本人が勉強して技術を身につけるとか努力して評価されるというまともなスタイルをお姫様像の代わりに再インストールできるように環境調整を粘り強く行うということになる。
「人格障害」に似てもいるが、「あんまり公然とお姫様扱いを要求するので、かえって自己中であることがばれてしまうことが分からない意味でKY」というところがジャイアン的であり、憎めないところでもある。
前二つのスレッドは、結果としてADHDの自己突っ込みへの理解が深まればと思って書いたものだ。コメントの中で「愚痴」というキーワードを頂いたので、もう一歩突っ込んで書いておこう。
ADHDの多くの人は、自分が「ある人への不満を、その人には直接伝えないで居て、なおかつ別の人の前で口に出した」ということをしたら、必ず「自分はなんて卑怯な奴なんだ」という自己突っ込みをする。ジャイアン、少なくとも私はこうなる。
最初の相手に言えなかったことにどのような理由があろうと、この自己突っ込みは変わらない。「陰で言っている」ことに違いは無いからだ。そこまでADHDの自己突っ込みは厳密で徹底的であるということを理解する必要がある。
ADHDは自分の目の前でASの人が他の人の不満を言っている時、ほとんど必ず、「この人は自分のことも知らない他の人の前で同じように悪く言っているのだろうな」と思いながら聞いている。
ADHDは基本的に誰に対しても平等であり、人を差別しないので、相手が自分に対してすることは、当然他の人に対しても同じようにするに違いないという前提で受け取るのだ。
ASの人は毎回そう思われていると知ったらどう感じるだろうか?
逆に言えば、ADHDは当の相手に直接言えなかったことを、他の人に言おうとは思わない。言うメリットが無い。言うと自分は陰口を聞いている、卑怯なまねをしているという自己突っ込みが生じるからだ。
例えば自分が相手の居ない場所で口にした不満をこっそり全て録音されていて、密かに録音した人が不満の主に聞かせて、完全に「バレた」とする。その場合でもADHDは自己突っ込みのレベルではバラした人を責めることはできない。「自分が言ったことだから仕方が無い」のだ。
(もちろんジャイアンは表面上は責任逃れのためにバラした相手を必ず攻撃するのではあるが)
こういう意味で、ADHDは愚痴を言えない。合理的なADHDは「愚痴を言う意味が無い」し、ジャイアンは「愚痴を言っている自分が情けない」という自己突っ込みが生じて言えない。
逆に言えば人に愚痴を聞いてもらっても何も良いことが無い。だから自分に愚痴を言って聞かせる人の気持ちが理解できない。
ほとんど全ての場合、聞く立場に立つ限りADHDにとっては愚痴と陰口は同じものなのだ。
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