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2012.05.27 01:57 |  診療  |  研究  |  その他(一般)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 0

のび太とジャイアン1

 私はこれまで「ADHDとASはどこが違うのか?」を中心テーマとして考え続けてきた。

 私自身ADHDとして、自身の他者への無関心さ、自己中心性、「上から目線」への過剰とも言える反応(怒り)、その結果としての中心志向の自己突っ込み(ジャイアン的な諸特徴)に私自身苦しみ抜いてきた。

 また私の母に見られる救いがたい浅薄な表面的認知、「世間体」と自己正当化にしか関心がない特徴も同じADHDの一つの特徴として考え続けてきた。

 私が「ジャイアン」と呼んできたものはこれらの情緒的な自己中心性、常に相手より優位を保とうとする行動特性、または常に自分に大多数の関心を引き続けることへの強迫性を併せ持つADHDの姿であった。
 
 これらの一見情緒的で「他者との関係に強迫的になるように見える」認知と行動の特性がASとどこが違うのだろうか、という関心がこれまでの私の中心であった。

 今やこの問題の答えは、「ASは個体同士の一対一の個別の対人関係であるのに対しADHDは個体認識が出来ない抽象的な(平等、一般的な人間対人間としての)対人関係である」という結論に達した。

 もう一つ、私が「中心志向」と呼んだ優位を求める特徴や表面的な認知などの「ジャイアン」特有の諸特徴が「一次的」な
ものであるのか二次的なものであるのかという問題も私自身の問題として考え続けてきた。

 今やこの問いにも結論を得た。これらの特徴は二次的な能力と環境との相互作用で生じるものである。

 ここに至って「ADHDは本来一つのもので、能力や経過によりノビ太になったりジャイアンになったりする」という認識に到達した。

 のび太とは、「自分に何が有利なのかを見抜く状況察知能力が非常に乏しい」ADHDである。極端には「無視されてもそれに気付かない」。
 「天然」と呼ばれる人たちに近い。
 
 WISCⅢやWAISⅢでは「動作性IQ」が低く、特に「完成」や「配列」などが低くなるような能力のプロフィールとなる。直観的、視覚的な状況察知が出来ず、「空気が読めない」といわれるケースだ。

 ここで注記するべきことは、「ジャイアンACの情緒障害重症」との区別である。私は小学校で無視されても気付かなかった。

 これはジャイアンAC、情緒障害の結果として離人症的に状況察知が出来なくなった結果であったと考えている。その証拠に精神分析のゼミなどで回復した後はジャイアン的な攻撃性が復活してに悩み苦しむ結果になった。

 これに伴い一部「ジャイアン」と呼ぶものの範囲を変更することにしたが、それは別に詳しく説明する予定。

 またジャイアンがいかにして攻撃性を抜くことが出来るかも別に詳しく説明する。

 のび太とは情緒障害(二次障害)の結果ではなく一次障害としてKYな人たちのことである。

 対人関係での非言語的なやり取りに反応することが少なく生育でき、また自分で考えるしかない状況に置かれるので、自分なりの合理的な思考を自然に成長させることが可能だ。

 学童期の二次障害を回避することさえ出来れば、思春期にオタク仲間の友達に恵まれた場合などは特に診断をつけなくても自分の好きな道を発見してオタク的な生き方で立派に生きて行ける。
 (学童期にいじめのターゲットになるなどを回避できれば)ジャイアン的な対人関係の問題を経験しないで行けるので成人後の社会適応も結婚、子育ての適応もジャイアンよりもずっと容易である。

 これらを分かりやすく図示したADHDの一覧図を製作中であるが、まとまり次第こちらで説明する予定。

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2012.04.30 16:46 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

受動型ASの普通へのこだわり

 「普通」、多数派の形成している「空気」に合わせていて自然な状態となる受動型ASは、結果として「普通」にこだわる人が多い。
 直感的には当然の結果のように思える。「特に友達にASをカミングアウトする」ことは非常に大きな困難を伴うようだ。  
 このブログでも過去に受動型ASと思われる常連のコメント氏が居られ、誇大的ともいえる態度で私をはじめ多くのジャイアン氏の怒りを買ったことは記憶されている方も居られるだろう。   

 ここまで書いてきた受動型ASの「特定の人への異常な愛着」と「普通へのこだわり」は、二つの平衡点とも言うべきもので、この間に山型にストレスの高い状態があり、「普通から遠ざかりすぎると特定の人への依存に行く」という関係になっていると私は想像する。

 受動型ASの普通へのこだわりの大きな特徴は、少しでも普通であることを否定された場合に限り、「自分が普通だ」「自分が正しい」と死に物狂いに自己正当化する行動である。
 その結果診断自体も否認するケースもある。

 ほとんど人の話も聞かなくなる(この点では躁うつ病の躁状態に似ても居る)ので、この状態になると周囲の人が心配してケアしようにも手がつけられない。

 ちなみに積極奇異型ASの場合も、結果として誇大的に周囲に自分の主張を押し付けようとする行動は見られ、表面上は似ているが、「積極奇異型ASは孤立を恐れず自分のこだわりを優先する」ところが違いといえるだろう。
 受動型ASは「媚びへつらう」ような行動をしても表面的な普通にしがみつくので、明確に区別できると私は考える。

 実はこの「普通へのこだわり」自体が最もAS的な特徴であるのだ。「自分こそが普通中の普通で、ほんの少しも偏ったところは無い」と異常に自己正当化し続ける。世間の全てが自分の主張を当たり前に受け入れるべきであり、その根拠は「自分が普通であるから」というわけだ。  

 本当の多数派の「普通」は、(私もADHDなので表面上の行動からの想像や実際聞いてみた結果からだが)こういう極端なものでは無く、全体を包む「空気」の中に、50パーセントから前後10パーセント程度の広がりを持ったものとして「普通」があり、しかも「変わっている」「異常」との境界は連続的で、「少し変わっている」「大いに変わっている」というのがあるだけである。  
 だから「自分が普通」と死に物狂いに力説することは多数派の「普通」の話ではなく、発達障害の問題そのものなのだ。

 ちなみに私の知っているいくつかのケースは、現実の世界でこの「普通」に乗り切れなくなると、「うつ状態や躁状態に入り、全く現実否認することで辛うじて不安を回避している」という形になっている。

 下手に社会的地位があったりすると、無責任に(たぶん面白がって)おだててはやし立て、けしかける周囲の「取り巻きども」がいるせいで、この異常な状態が長期間続き、一番近い家族などがひどい目に遭い続ける結果になる。

 「本当はあなたが変なのだ」と本当のことを忠告しようものなら極端に逆切れしてその忠告した相手を執拗に攻撃し続ける。

 答えは前回書いた「有限性の中の不安に自分ひとりで(誰にも丸投げしないで)耐え続ける」もしくは「あっさりしたADHDとの関係の中に妥協した安定を見出す」ことしかない。    

 これが受動型ASが本当に直視するべき真実だ。

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2012.04.25 19:18 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 1

受動型ASの根本問題

 最近の考察を受動型ASの本人から見た場合で考えてみた。

 受動型ASの本人が理解するべきことは、以下の通り。

1.「誰かが本人を理解することも、本人を大事にすることも、100パーセントを求めることは出来ない」という単純な当たり前の真実を認める。

2.親でも。親友でも、パートナーでも同じである。「100パーセントを目指して努力し続ける」ことは出来るが、結果として「100パーセントの理解が成立した」と感じるとすればそれは「錯覚」であり、「勘違い」である。

3.当たり前に100パーセントの理解や100パーセントの受け入れを要求した場合、関係が長持ちすることは不可能である。これも考えれば当たり前であるが、現実的には「4、5歳までの幼児期に親が一見それに近い状態になれる」か、または「胎児期の母親は100パーセントの庇護をすると言えるが、その母親に胎児が現実的に要求することは出来ない」と考える。

4.だから受動型ASの人には究極の選択が必要である。「100パーセントを求め続けて孤立する」結果を選ぶか、「100パーセントを断念して50パーセント、70パーセントで納得するようにして(妥協によって)実際のパートナーを得る」かである。

5.受動型ASの人が求める「相手からの無条件の必要」も現実的には「幻想」である。当たり前であるが、相手の誠意を試し続け、痛めつけ続ければ遅かれ早かれ相手は去って行く結果になる。「どんなに痛めつけても見捨てない根拠になる必要」などあり得ない。親でも人間であるから限界があり、私は主治医として「児童養護施設に預けて親子が離れる」宣告をしたケースも実際ある。

6.有限の世界の中で生きた人間に可能なことは、「努力」「決意」でしかない。努力は求めても、結果の要求をしている時点で関係が長く継続することは諦めるべきである。

7.「選択の結果としての必要」は求めることが出来る。必要の結果としての選択ではなく、選択の結果としての必要であれば、現実の有限な世界の人間に可能な行動である。当たり前であるが、選択は永続的である保障は無く、努力をし続け選択をし続けることが出来るだけである。

8.「相手に100パーセントを要求出来ない」ということは、「全てのことで一部は自分の責任で行動するしかない」ということである。うまく行かない結果も当然一部は自分自身の責任であり、何かを実現したいと望むのであれば一部は自分で努力するしかない。
  
9.胎児の状態で無い限り、自分の身体と人生のコントロールの責任は自分にある。本人に不安や苦しみがある場合、親は他者として本人の不安や苦しみを軽減することに協力する努力は出来るが、親が本人の不安そのものを消したり肩代わりすることは出来ない。

10.上記の意味では、人間はみんな「孤立」していることを認めるしかない。誰も誰にも100パーセントの依存をすることは出来ない。

 これは原理的には全く「当たり前」のことであるが、受動型ASの人にはこの説明が実際必要であり、またこの説明を見ても「頭では分かっても納得出来ない」と言う受動型ASの人が実はほとんどであろう。

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2012.04.16 03:20 |  診療  |  研究  |  その他(一般)  |  ADHD関連  |  AC、人格障害関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 2

受動型ASの真実

 受動型ASの特徴は、「登校してしまえばストレスが逆に減る」という相手や状況への「受動性」と「順応能力」とも言うべき行動特性である。

 そのため、「自分から動く」ことが出来ず、思考も行動も「100パーセントの依存」を求める結果になる。
 現実的には「外面が非常に良いが家ではとんでもないわがままを言う」という極端な行動パターンとして現れる。  

 この依存性は乳幼児期から成人後までずっと継続し、本人の現実世界への適応に大きな問題となる。
 思春期には愛着の対象となっている親に対し、また成人後にはパートナーに対し、100パーセントの理解と一方的なサポートを要求し、99パーセントでも不足として愛着の相手を攻撃する。攻撃しない場合も情動不安定になったり、うつ状態や身体症状が出て現実への著しい不適応を来たす。

 だから受動型ASに幼少期から満足できる依存関係を提供すると、思春期や成人後も同じ依存の立場を愛着の対象には要求し続けるため、不適応は必至である。これが受動型ASの第一の真実である。  

 ではどうすれば良いか? 受動型ASを養育する段階で、「100パーセントの依存は不可能である」とどこかの段階であきらめさせることが必要であり、思春期前に合理的な衝動統制を身に着けさせることで可能となる。  

 例えば受動型(積極奇異型も同じだが)ASの子供が好む非言語的なアピールを無視して、あえて本人に言語化させ、言語的に説明させて理解する形を取る。これをもしも親が非言語的に「察して理解する」と、その後は毎回言語的な説明抜きで察することを要求するようになってしまう。  

 また、本人の要求の一部を冷たく合理的に退けない限り、「愛着の対象である親などは自分の要求を全て受け入れる」と前提して行動するようになる。根拠無く退けると、「意図的にいじめている」「情緒的に虐待している」と情緒的な文脈で受け取るため、そうでは無い合理的な基準を毎回徹底しておく必要があるのだ。  

 具体的には、例えば受動型AS児が泣いていても、情緒的にフォローする前に、「何故泣いているか」を冷静に尋ね、泣く理由が合理的に妥当すればそれを説明しながらフォローするか、または「泣くようなことでは無い」と合理的に否定する。多数派の人が見れば非常に冷たい対応になる。

 これは実は「天然」のADHDの親の場合に実際に見られる対応で、とりもなおさず「ADHDが空気を読めない」ことの結果として出てくる。だから「天然で空気が読めないADHDの親に育てられた受動型ASは結果として社会適応がしやすい大人に成長する」という第二の真実を帰結する。

 ところで受動型AS本人にはこの育てられ方は当然情緒的には不満足であり、その意味で一種の(ACに近い)情緒的な障害となることもある。うつ、強迫症状、消化器症状や頭痛などの身体症状となることも多い。

 これは発達障害のもっと根本的な真実「不適応と二次障害のいずれかは起こる」ということの一部でもあるが、ADHDや積極奇異型ASのように「社会の多数派」への適応とは異なり、特定の愛着(依存)の対象の個人に対して起こるところが少し違う。

 表面的な「世間」の多数派にはむしろストレス少なく適応できるからだ。

 ちなみに成人後にも「天然」のADHDをパートナーとすると(AS的に求める依存は出来ないが)社会的には適応して人生を送ることが可能となる。
 「天然」のADHDとは依存関係を作ることが出来ず、その結果「長期の共存が可能となる」からである。

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受動型ASのイメージがやっと明確になったことで、やっと発達障害全体の問題を考える段階に来た。
 この段階で「発達障害の根本問題」をまとめておこう。

 発達障害の根本問題(2012年3月)

 ADHDの本質は衝動統制の障害、ASの本質は対人関係の愛着の障害である。
 いずれも多数派に見られる様に「空気」で適度に制限・制御されることが無いため、ADHDは甘やかされれば(実は管理されすぎても)自分で衝動コントロールが出来ない大人に成長し、ASは甘やかされれば愛着対象に100%の要求をするようになり、いずれも思春期以降に深刻な不適応を来たす結果になる。

 診断とケア上の最大の問題は、「ADHDで依存的になっている例とASを区別すること」である。
 なぜなら、本来ADHDには依存は脳の働き上は極めて不自然なあり方で、完全に依存関係を取り去っても不健康になることは無いのに対し、ASにとっては依存はむしろ本来のあり方で、依存を完全に取り去ると病的な反応が予想されるからである。

 ADHDは幼少期の経過から「衝動コントロールを他者に委ねる」意味での「丸投げ依存」を主なスタイルとすることがありうる。
 しかしこの本来の脳のあり方に背くスタイルは思春期以降に社会的に破綻するのみならず、難治性のうつ状態をはじめとするさまざまな(身体を含む)疾患の根本原因となり、唯一の回復は依存から脱することにある。

 ASは本来名前のある個人同士の一対一の対人関係を基本とするため、「対等」「平等」という形の一般化は根本的に困難である。
 特定の相手が受け入れる限り要求は果てしなくエスカレートする。ただタイプの異なる(ADHDなどの)親との関係で思春期以前に「要求を部分的に諦めるしかない」ことを学習することは可能で、その場合のほうが予後(思春期以降の社会適応)が良い。

 思春期以前の養育の方針としては、ADHDでもASでも、「甘やかす」(先回りして困難を解決したり失敗の現実的な尻拭いをする)ことが最も思春期以降の本人を苦しめることになる。
 上記のようにADHDでは衝動統制を親に丸投げし、ASでは過度の依存を当たり前と思い込む結果になるからである。

 「空気」で衝動や愛着をコントロール出来ない以上、発達障害のケアの基本方針は、「言語的な説明と納得、合理的な行動のコントロールを体得させる」こと以外に無い。
 思春期以前に、「ダメなものは例外なくダメであり、その理由は合理的根拠があるから」という認知と行動のシステムを親を中心とする環境から体得させることで、思春期以降の不適応を最低限にすることが出来る。

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 受動型ASの人は現実的な想像力が苦手である。自分の「夢」はあっても、それを実現する具体的現実的な道筋をイメージすることが非常に困難なようだ。

 その結果(か原因かはまだ私は考察中であるが)、「実際どう行動するか」については受身となり、周囲からのアクションに応じてリアクションとして行動するパターンとなる。

 そこで私は受動型ASのケアとして、「パッケージ方式」を考案した。
 すなわち「目標とそこに至る具体的な道筋を含んだパッケージをワンセットにして選んでもらう」という方法である。

 実際に本人といくつか検討してみた。意外に使えそうで、イメージをここに書いてみよう。

パッケージA 「多数派と同じ普通」。
 普通に登校し普通に高校や大学に行き普通に仕事をする。

パッケージB 「友達と同じ」。
 友達の多くが選ぶ進路と同じ方向に行く。

パッケージZ 「引きこもり」。
 ダラダラと登校も勉強もせず昼夜逆転生活でゲームばかりして18歳まで過ごし、その後親に追い出されて途方にくれる。 
 あるいは親に依存したパラサイトとしてずっと引きこもり続け、50歳過ぎて親がついにダウンした段階で途方にくれる。

 BとZとの間に、「本人のこだわり、好きなものをゲットするために努力する」ようなパッケージを具体的に考えて並べて行けばよい。
 
 何名かと検討してみて分かったのであるが、受動型ASの人は実は「本当は普通から離れる不安が非常に大きい」。また、「好きで引きこもりの道に入っている訳ではない」。
 
 このあたりもADHD(や積極奇異型AS)からの類推が当てはまらないから注意が必要だ。
 言葉としては同じようでも、ジャイアンや積極奇異型の言う「普通」とは意味していることが全く違う。
 ジャイアン型ADHDや積極奇異型ASの場合は「多数派に合わせた普通」はよほどのストレスを覚悟してはじめて選択肢になりうるが、受動型ASでは逆に楽な選択肢であるという根本的な違いがある。

 パッケージZも有効なようだ。受動型ASの人は、(将来を考えることまで愛着の対象たる親に丸投げするから?)今現在の親に依存した生活と将来の現実的な問題を具体的に結びつけての想像が非常に困難なようだからだ。

 実際にこう並べてみてはじめてイメージできるようなのだが、受動型ASの本人も「AかBが一番楽でストレスが少ない」という根本的な事実にたどり着けるのだ。

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2012.03.04 02:06 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  YANBARU  | 推薦数 : 4

受動型ASの理解

 受動型ASの人の中で起こっていることを想像することは非常に難しい。特にADHDとは正反対であり、見当違いの推測をしないことが重要である。

 このことを理解するのに非常に参考になるあるケースの話を書いておこう。
 朝登校する前に腹痛や下痢になる思春期の発達障害の人は多いだろう。そのまま登校の時間が過ぎると腹痛や下痢は治る。表面的には仮病と誤解されることもあるが、ストレスによる身体症状だ。

 ところがここから先が根本的に違う。受動型ASの場合は、「登校したら腹痛は治る」ということが起こるのだ。
 厳密には痛みがあるのは、登校の途中までの間、愛着の親などと一緒に居る間だけで、学校の敷地に入った後は、驚くことに腹痛は無いのだ。
 
 別のケースでも、「送る車が学校の駐車場の敷地の境界線を横切るとそれまで運転する母親に怒号を浴びせていたのが急にすました顔になり行って来ますと降りていく」ということは聞いていた。

 この仕組みは、「学校に行くと学校モードの自分に切り替わる」ということで、学校モード即ち外向きのスタイルで学校で過ごすことは大きなストレスにならないのだ。   
 
 然るにそのことを依存できる家の環境で愛着の対象である母に話すときには、「家のモードで学校に行くことを考える」のでストレスになり、出かける前と家で学校のことを思い出す場合にストレスの状況になる。

 母から聞く限り、「学校でも大変なストレスの中で頑張って過ごして帰ってきた」という風に見えるが、実はぜんぜん違うのだ。  

 ストレスを位置エネルギーのイメージに図式化すると、例えばADHDの場合には「多数派に合わせた普通」と「本人のマイペースに合わせた特別」の関係は、当然「普通」が一番ストレスが高くて、「マイペース」がストレスが低い一方向の坂の図になる。

 受動型ASの場合は、全く違う形になる。「普通」と「マイペース」はいずれもストレスが非常に低くて、その中間に山があるという形だ。

 即ち、「普通」に近いところでは「普通」に行くほうがストレスは少なくなり、ある程度「普通」から離れてしまうと、今度は極端にマイペースになるほうがストレスが少なくなる。

 通常の特別支援教育などでは、「普通」のストレスを考慮して発達障害への「理解と配慮」という形で普通から引き離すが、これがある程度より進んでしまうと極端な引きこもりの方向にしか行かないパターンに陥ってしまうことを意味する。  

 私自身、ADHDの一方的な坂のイメージでサポートしてきた受動型のケースで結局引きこもりの方向から脱出できない状況になっているケアが何例かあり、ずっと悩み続けてきたのだが、やっとケアのイメージがはっきりした。

 受動型ASの人には、結局「多数派に合わせた普通」が一番楽なのだ。一番ストレスが少ないのだ。別の言い方をすれば、「普通」から離れるストレスのほうが大きいのだ。   

 この意味で、表面的には一貫性が見えづらくADHDに似ている受動型ASを正確に診断することは決定的に重要である。

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 子供の問題行動や衝動性などがあると、良く「愛情不足」という言葉が出てくる。  

 私はそれを見るたびに「安易に言うな!」と腹立たしく思う。

 この表面的な見方の根本には、「ある程度満足するまで愛情を親などから与えれば正常化して問題行動は治まる」という非常に根拠の無い前提が存在し、実際この前提まで含めて世間の多くの人は説得力があると認識しているようだ。  

 発達障害支援の現場で、親などの相手が根負けして折れるまで激しい反抗を続けるジャイアン型ADHDの子供や、愛着の相手に100パーセントを当たり前に要求する受動型ASのケースを見ていたら、「子供はある程度愛情を受けたら満足して自立する」等という前提は全く意味を成さないことがすぐに分かる。  
 
 実際ジャイアンの子供を「よしよし」となだめたら、どんな悪さをしていても、「その前に叱られたことは完全に忘れ去られる」と考えるべきであり、また、受動型ASの子供は母親が「察して合わせる」ことをすればするほどとめどなく母親に理不尽とも見える要求をするようになって行く。  
 
 激しい衝動性、非常に表面的には親などに「かまってほしい」と解釈が可能な行動を、無理に多数派的に理解、説明しようとした場合にこういう「表面的」な想像が出てくるのだろうが、もともと多数派の世界には「そういう過剰な要求はしない」から理解が困難なのだろう。   
 
 私の理解はこうだ。もともと多数派の世界では衝動統制は「ビルトイン」された「空気」によって行われる。幼児でもどこまで駄々をこねたら良いか「周り」を見ていることが多い。  

 多数派の親は「無下に無視するのは冷たいので」しばらくは駄々をこねる子供の相手をするが、ある程度相手をした後まで子供の要求がしつこいと、言い方や顔の表情などの非言語的な部分で「これ以上は聞かないよ」というメッセージを伝える。  

 子供はその非言語的なメッセージを察知して、最初は何度か失敗しながら、実際にひどく叱られる場合と要求が通る場合と、引っ込めたほうが良い場合の学習をする。  

 こういう多数派の「空気による調節」による衝動統制を前提にすれば、大人の側がある程度面倒を見れば、「いろいろな空気による調節と同様に」子供の側も状況を察知して、それ以上の要求をしなくなる。  

 そのことを「愛情に満足する」とまた表面的に解釈するのだが、実際は「これ以上は難しいと折り合いをつけて諦める」というのに近いだろう。  
 愛情は不足してもいないし、満足しているわけでもない。

 表面的にそういう見かけになる現象はあるにはあるが、そういう説明をしても何も解決しない。  

 特に発達障害のケースには、「180度誤った見立てと助言となる」ということが重要だ。

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 ある受動型ASの経過で、非常に厳しい環境で1年過ごした後で、WAISⅢの不得意項目が明らかに上がっていたケースがあり、考えさせられた。

 受動型ASは本人からの動きが少ない。「好きなこと、自分のこだわりのことだけはちゃっかりゲットするが、興味の無いこと、どうでも良いことは世話を焼いてくれる愛着の対象に丸投げして全然考えない」様に周囲からは見える。

 例えば高校受験やいじめによる不登校などの場合でも、「本人のペースで」というケアをすると全く勉強もしない、登校さえしない、どんどん引きこもりのほうに向かっていく。

 このケースは遠いこだわりの目標実現のために非常に厳しい道を選び、途中こだわり上は絶対やりたくない勉強を状況から強制的にさせられるという立場にあり、その結果、IQの形が変わった。
 IQの変化は、確かに「厳しい状況でトレーニングした分だけ上がった」と理解できるものであった。

 発達障害は興味の無いことは「出来ない」。実際多数派の人の数倍の抵抗があり、相当の意識的努力をしないと遂行できない。私は「脳が向かない」という風に説明することにしている。ADHDの場合は、コンサータやストラテラの力を借り、ASの場合は何とか頭の中で最終目標と関連付けてモチベーションを工夫する。

 当然の帰結として、「嫌いなことは伸びない」という事実はあるだろう。私が今回目にしたのは、「嫌いなことでもそれを押し切って努力した場合は伸びることがある」ということである。

 また受動型の特徴は、「友達関係などの周囲の雰囲気では動けることも多い」ということで、現実的には例えば受験ならば塾に入れたりといった方法は有効である。

 ではケアはどうすべきなのだろうか? 親の立場に立てば、本人のために強制してでも実力は伸ばす努力をさせたい。
 他方で「発達障害への理解」の観点からは興味の無いことを強いると二次障害が悪化して二次的な精神疾患などになる可能性が想定できる。
 
 私がHPに掲げている「発達障害ケアの基本原則」では、「思春期以降に本人に選ばせる」ということにしているが、受動型の場合、「本人が自己責任で選ぶ」形を作りにくいことがさらに困難となる。
 例えば積極奇異型の場合は本人から強い社会参加の希望が出てくることが多いので、「それと引き換えに妥協」という形で考えることが出来る。

 受動型の人は希望を聞かれれば比較的明確に答えるが、「それを叶えるために自分がどう動くか」を考えることはしないことが多い。通常周囲に丸投げになる。
 だから上記の「自己選択」を迫ることも困難となり、ケアする立場は悩むことになる。

 私は今のところ、「パッケージになった環境を丸ごと選ばせる」という方法しかないかと考えている。個々に選べるオプションがあれば、興味のあることしか選ばないに決まっている。それでは結果として引きこもりになるしかなくなってしまうだろう。
 受験の際の「塾」もそうだが、自分の興味で選ぶのはある「場」であり、その「場」で要求されることはするしかない。この形であれば雰囲気で動く受動型の人も受け入れやすいだろう。

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2012.01.01 01:06 |  診療  |  研究  |  その他(医療関連)  |  ADHD関連  |  AS(アスペルガー)関連  |  AC、人格障害関連  |  その他  |  YANBARU  | 推薦数 : 3

2012年頭

謹賀新年

 2012年の年頭所感

 面接に長時間を要する診療スタイルがいよいよ限界に来て、一年の間に3度も異動することになった。
 3月まではノーブルメディカルセンターで医師数が少ないための外来や当直、指定医不足などの過重負担で自分から契約を切り上げた。
 4月から勤務するはずだったまるクリニックが一年目の集団的個別指導で致命的な指摘を受けたことで急遽閉院になり、新規開院まではモモクリニックで3ヶ月勤務、7月にまえはら心療内科で外来を再スタートした。モモクリニックもまえはら心療内科もモモクリニック院長と「会長」なる人が仕切っていて人事などは院長もコントロール不能の状態であった。
 精神科訪問看護で無料の弁当をサービスで持参したり、訪問看護で看護師がプラセンタの注射を無料で打ったりするという「会長」様の「経営」方針に従わなかったために、早くも8月に契約時からクリニックの上に借りていた部屋に関係する強引な「追い出し」が始まり、部屋の件の話が突然モモクリニック院長から「経営をどうするか」という質問が来て、結果として帳尻を合わせる計画を提示、それが達成できなければ私が退任するという約束をする羽目になった。
 その段階では3月までは勤務するつもりで居たが、もっと早く異動するようにという「圧力」もあり、私自身もこの「会長」さんとやって行く自信がなくなったので求職活動をしていると、以前勤務していたうるま記念病院で精神科医が急死されたという話で急遽1月より異動、正月休みも引越しでつぶれる結果になった。
 結局「偏屈に生きているので居場所が無くなる」という発達障害の必然的な経過を自らなぞることになっている。
 「医師不足につけ込んで自分の好き勝手をやり続けているので、良質な環境に巡り会える訳が無い」という目新しくも無い事実を繰り返しているだけである。
 まあ最初から保険診療で成り立たないことを確信犯でやっていることなので仕方が無い。
 年末は29日に自殺企図を繰り返している発達障害の中学生がやっと母への依存が限界となって「児童相談所に行ってみる」と言い出したので県の児童相談所と交渉、警察に本人を保護してもらい児童相談所に通告する方法で何とか深夜23時を過ぎて一時保護になった。
 警察でも一時保護所についてからも何度も自傷や自殺企図が続き、結局処方を持参した30日も昼から夕方まで一時保護所で過ごし、出勤した児童相談所の所長と処遇を協議した。自殺企図があるために精神科病院に移すことを検討したが、一時保護は切れてしまい、中学生では親権が強いために虐待している(と本人が言う)親が同意しないと入院も治療も出来ない。
 結局児童相談所の所長の涙が出るほどありがたい配慮で引き続き児童相談所で看ることになり、それで私はいつでも一時保護所に向かえる体制で正月休みを過ごすことになった。
 年末30日と31日がこのケースの関係でほとんどつぶれたために単身赴任の居室と診察室の機材の引越しが間に合わず、正月は開けたが3日まで休みなしになりそうな状況。
 
 今年は休みを減らすことにした。
 こんな立場で「自分の時間」を要求するのは明らかに分不相応で、仕事が続けられるだけでありがたい立場なので、二つの大きな知的障害の嘱託医の業務と、那覇少年鑑別所の診察は休みだった月曜に回した。
 もうローンが終わるまでのあと数年は、休みは身体的な最低限の休養と、家族のために過ごすだけにして、その残りは「全部働き続ける」モードで行こうと今は考えている。
 
 うるま記念病院(火水木金)は午前が病棟と入院時診察、認知症の外来など。午後が発達障害などの外来。土曜は那覇市のクリニックでどうしてもうるま市まで来られない生活保護世帯の7、8名を「一日2人は外来を診させていただく、残りは関連施設の認知症のケアをする」条件で非常勤勤務。
 
 うるま記念病院も6月までの契約(更新は出来るというが)、那覇市のクリニックも1月は「試用」の状態で、まだまだ安心はとても出来ない。

 と言うわけで、土曜に来院されていた学生さんなどには大変申し訳ない。平日は午前の診察も出来ません。新患は那覇市は枠が決まっているのでうるま記念病院のみ。これまでと同じく私にメールで相談の概要を伝えてもらい私自身が「振り分け」を行います。

 メールの方法は、下記の私のHPの「メール相談」をクリックするとメールソフトが開きます。ここに書き込んでも、誰か分からないので、診察希望の方は必ずメールで名前を書いて下さい。
 また携帯から書く人は、「パソコンからの返事が届かない」ことが良くありますので、必ず「返事が届く」設定にして下さい。(返事が届かない人は設定のせいのことがあります)。

 まあこんな風に私は生きています。これから先も綱渡りで行けるところまで行きます。
 
 本年もよろしく。

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