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オテル・ディユーを後にしてシテ島から橋を渡りセーヌ川左岸に出る。
サン・ミッシュエルの噴水から南に下り、サン・ジェルマン大通りに出るとパリ大学医学部の旧校舎?があるパリ第5大学が見える。
大通りからは入り口が見えないので裏の医学校通りに廻るとイオニア式の円柱に支えられた門があった。

これをくぐって中に入ると胸で腕を組んだビシャーの像が待っている。
ビシャーという名前になじみは無かったが、彼の研究は解剖学、生理学、病理学に及び「偉大なフランス医学はビシャーの仕事から生れたものである」と評されるほどの人物らしい。
ズボンの太ももがピチピチなのが少し気になるが、憂いを帯びた表情も腕を組んだポーズもなかなかよろしい。

医学校通りの途中に階段に向かう横道がある。
ここにシャルコーの同僚で、彼と共同で多発性硬化症とパーキンソン病の臨床像を確立したビュルピアンの像が建っている。

この ビュルピアンの弟子の一人がサルペトリエール病院神経病クリニック第三代目主任教授となるデジェリンである。
彼の業績は膨大であったが、現在サルペトリエール病院には彼を偲ばせるものは残っていない。
第四代目主任教授 となったマリーはデジェリンと仲が悪く、マリーが主任教授となって最初にした仕事が、デジェリンが関係したものを捨てることだったからだという。
まあこれは日本の医学部でもよく聞く話で、私も教授が替わったあとは、しばらく大学医局の掃除をさせられて、なんでもかんでも捨てました。
観光でパリに来れば、必ずシテ島のノートルダム大聖堂を訪れることでしょう。

この写真の左側、まだ8月なのに色付いた街路樹の向こうにパリ市民病院があります。
西暦650年、メロヴィンガ朝のクロヴィス二世の時代にパリをペストが襲ったとき、小さな教会に隣接した建物に患者を収容したのが、オテル・ディユー(原意は神の家 今は市民病院を指すらしい)の始まりという。
中世の記録では、この病院は「貧しさと悲惨さ」 をもつ患者は全て受け入れ、一つのベッドに何人もの患者が寝ているのが日常であった。
一床一人の原則が確立したのはボナパルトの時代になってからだと「パリ医学散歩」は述べている。
歴史がある病院なので中庭を巡る回廊にはずらりと中世のころの絵の複製やレリーフが飾られている。

病院を訪れたのがパリを出発して日本に帰る日。
ホテルのチェックアウトが9時40分までだったので、朝8時にオテル・ディユーを訪問するとまだ病院の建物は暗く、ぽつぽつと灯りがともる程度。

サマータイムでの朝8時のせいかまだ暗い中庭中段。
出勤してくる人がぱらぱらとみえる。
それにしても、この豪華さはなんなのだろう?
今はパリ市が管理しているらしいが、庭の管理費だけでも相当なものだろう。日本で自治体病院がこんなことをしたら納税者が黙っていないだろう。
写真奥の中央に見えるのが青鬼?
今日パリから帰った。
初めてのパリ。
ガイドブックとともに東京女子医大名誉教授の岩田誠先生の書かれた本「パリ医学散歩」を持って行った。
神経内科はパリが発祥の地であり、教科書に出てくるような有名な先生がごろごろと出た場所である。
神経内科専門医であるからには創始者であるシャルコーの居たサルペトリエール病院にも顔を出さないといけない。
神経内科には関係ないが、最近ではパリ中心部で交通事故にあったダイアナ元皇太子妃は、なぜか近くの病院には収容されずに、この遠く離れたサルペトリエール病院に運ばれて亡くなっている。
本そのものは1991年の出版でもう絶版なのだろう。
当時買った本が家の中で見つからず、古本をアマゾンで買って持って行く。
まず目につくのは、シテ島のノートルダム大聖堂の前の広場のすぐ横にあるパリ最古の病院「オテル・ディユー つまりパリ市民病院」だ。

これが入り口
外見はくすんでいるが、趣のある美しい建物である。
せっかく、ここまで来たので中に入ってみた。
待合を通り抜けると中庭に出る。
この中庭が広い、これは病院というより美術館ではないか。
でも回廊には手術部とかの表示もあるようだし、やっぱり病院なのだろう。
中庭を登っていくと青鬼がいた。

いったいこれは何かしら?
パリ市民病院は「フランス外科学の父」といわれるパレとか内科のトゥルーソーなどをはじめとして著明な医師を輩出しているが、この青く塗られた彫像は謎である。
有名な医師の像なのか、それともただのモダンアートなのでしょうか?
どなたか、この像が何者かご存じのかたがおられたらご教示願いたい。
精神科の事務をされている方から
コメントを頂いたので(下のコメントを参照)
写真を追加します。
まずは、サルペトリエール病院の前(ずいぶんと前ですが)に置かれたフィリップ・ピネルの像。
精神病の患者を閉鎖病棟から解放したことで精神科領域では有名な医師ですね。
次が サルペトリエール病院の中のBabinskiユニット
にある売店。
ガラスケースの中、サンドイッチもでかいけど、巨大マカロンも迫力があります。

本当にどうでもいいことだが、冬になり外来に感冒の患者が増えると思い出すのが、
このフレーズ 「ガムテープで風邪が治る」。
もちろん医学的には「ガムテープ」と「風邪」には何の関係もありません。
でも『水戸浩一遺書詩集 ガムテープで風邪が治る』 の題名を最初に目にしたときの衝撃は大きかった。
『現代詩手帖』に投稿をくりかえしていた水戸浩一は、誕生日の前日である四月一日に、ガムテープで口をふさいだ状態で発見される。
その水戸浩一の遺稿を特殊歌人・枡野浩一がまとめる形で刊行した本だ、
という枡野の解説を十数年前に雑誌で読んで興味を持ったのだ。
だが、しばらくしてから真相を知ることになる。
元特殊歌人 枡野浩一氏。
彼は20歳頃、水戸浩一という筆名で
『現代詩手帖』に投稿をくりかえしていた。
当時の投稿選者は、今ではテレビタレントみたいだが本職は詩人の「ねじめ正一」であって、
枡野が投稿した詩は全て掲載されたのだという。
『水戸浩一遺書詩集 ガムテープで風邪が治る』は、現代詩手帖に掲載された枡野浩一の作品を
「水戸浩一の追悼作品集」としてまとめあげたものだったのだ。
その後、枡野浩一氏はNHKの番組などに頻回に出演し、
近年の「ケータイ短歌」「ネット短歌」と呼ばれる動きの礎を築きあげた。
しかし、いまだに私にとっては
「枡野浩一」= 「ガムテープで風邪が治る」
のままだ。
いずれにせよ、「ガムテープで○○が治る」というのは
インパクトが高いコピーである。
神経内科医としてはぜひ、
「ガムテープでパーキンソン病が治る」
とか
「ガムテープで脳梗塞が治る」
とかの題名で本を出してみたい誘惑にかられるが、
多分学会からは専門医の返上を求められることであろう。
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「駆けてきて ふいにとまれば われをこえてゆく 風たちの 時を呼ぶこえ」
寺山修司の告別式のあいさつ状に、葬儀委員長の谷川俊太郎が選んだのが、寺山のこの歌である。
中学、高校と学校では仕方なく、多くの短歌を習わされてきたが、素敵だと思ったのは、寺山修司くらいのものだ。
青森に生まれた寺山は、若くからネフローゼを患い入院生活を繰り返したが、「チエホフ祭」 で、その短歌が注目され、後には演劇・映画・エッセイと多方面に活躍した。
ネフローゼの治療に使用した血液製剤から肝炎に感染したのか、肝硬変に苦しみ、最後は腹膜炎による敗血症で1983年5月に47歳の若さで亡くなった。
もっとも、彼の言葉に従えば
「ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となる」
ということになるが。
いつの間にか、何かを為すこともなく寺山よりも自分が歳をとってしまったことに気づき愕然としてしまう。
私は 「起こらなかったことも 歴史の裡である」
などの寺山の生み出す言葉の力に感動して、中学生の頃から寺山のファンであった。
ファンとしては、彼が生まれ育った青森県を一度はみるべきであると思っていた。
だが、青森では神経内科の大きな学会などは開かれないため、残念ながら今まで訪れる機会がなかった。
しかし、現代美術作家の奈良美智も青森出身であることを知り、これはもう行くしかないと、4月に盛岡まで行ったついでに青森県立美術館に出撃した。
上の写真は、青森県立美術に鎮座する奈良美智の「あおもり犬」。
犬を見に行くのに、一度館内を登ってからいったん外に抜け出て、非常階段みたいなところを駆け降りてたどり着く。バリアフリーに逆行するような展示である。
で、青森はどうだったかといえば、青森県立美術でさえ内容が豊富すぎて一度行ったくらいでは消化しきれていない。
青森県恐るべし。
再度の挑戦を誓って、帰宅したのである。
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入院患者が重症である場合は、普通の温度板にバイタルサインを記入するのではなく、重症記録(病院によって名称はことなるだろうが)に患者の二時間毎とかの血圧や心拍数、SpO2などが記録されることが普通であろう。
さて、この重症記録にはNsにより、患者の輸液量や尿量のinとoutが数時間毎に計算して記録してあるが、どうもこれに間違いが多い気がする。
ざっと眺めるだけなので、100や200mlの違いは判らないが、どうみても500mlくらい違うのではないかと思うときが、ままある。
別にどこの病棟が間違いが多いとかいうこともなく、今までの経験では、大学病院でも基幹病院でも、つまりどこの病院でもまんべんなく間違いはある(もちろんICUとかはあまり無いようだが)。
単純な足し算だが、業務量が多すぎてそこまで手がまわらないのであろうか。
これで思い出すのは、大学生の時にしていたバイトだ。
大学時代は、映画研究部に入っていた。
映画館を借りて、年に2回映研で自主上映を行うために、その映画館の土曜日のオールナイトの間は、切符のもぎりを兼ねた売店の売り子を映研のメンバーで受け持つことが、先輩からの慣習となっていた。
土曜の夜は、バイトに入る前に、映画館の従業員から、おつり用の小銭を貰い、売店の中に陣取る。
売るのはパンフレットやお菓子類であり、高いものは無く、まあ気楽なバイトだ。バイト代は安いが、何人かでやれば、ただで映画も見れる。
映画が終われば、売り上げの確認である。
100円、200円のものを売り、おつりを出すだけの単純作業である。レジスターなどは無いが筆算で十分な仕事量である。でも、なぜか売った品物と残った現金が合わない。多くは数百円程度の違いであるが、ぴたっと合うことがない。
結局。在学中に、金額が合ったことはただの一度も無かった。これは、部長である私だけでなく、他の部員がバイトをしたときも常に合わなかったのである。
いくらなんでも国立大学の医学部の学生が、揃いも揃って足し算引き算ができないことはありえないはずであるが、とにかく合わないのである。
以後、スーパーのレジ打ちのおばさんを尊敬するようになった。きっと、彼女らはものすごい金額を売り上げながら、間違いなどはありえないのであろう。
映画館でのバイトで判ったことはもう一つある。ヤクザ映画はヤクザが見に来る、ということだ。
平和な映画館だったが、ヤクザ映画を上映した土曜の夜の客層は普通の週とは全く違い、服装や言葉が特殊な方々が集まったのである。
当然、バイトの我々もびびりまくり、売店の売り上げも大きかったのだが、決算での合わない金額も最高値をたたき出したのである。
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「ルビコン川を渡る」という言葉は非常に重大な決定や行動をすることの例えとして,現在でもよく使われている.
共和制末期の古代ローマにおいて,ルビコン川は本国である「イタリア」と属州ガリア・キサルピナの境界線の役割を果たしていた.
軍団が武装を解かずにこの川を越え南下することは法により禁じられており,その南下行為はすなわち共和国に対する反逆とみなされていた.
しかし,ローマ共和国元老院と反目したカエサルは,自派の護民官がローマを追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川を越え,ローマに向かおうとした.
そして,紀元前49年1月10日,カエサルは第13軍団と共にルビコン川を渡った.川を渡れば,カエサルのみならず兵士も反乱者として扱われるというのに.
カエサルのローマ進軍により,ローマ共和国は,カエサル対ポンペイウスおよび元老院派との内戦に突入することとなる.
また,川を渡る際にカエサルが「賽は投げられた」と檄を飛ばしたことでも有名である.今では誰もがカエサルのことなどは意識せずに,普通に使われる語句となっているが.
さて,このように世界的に有名なルビコン川だが,子供の頃ガリア戦記を読みふけっていた私はどんな大河なのであろうか,と想像していた.
しかし,実際は水の流れている川幅が3-4mほどしかない,小川に毛が生えたような川であり,その歴史的な存在感と川の大きさの間にはかなりのギャップがある.
このくらいの川なら気がつかないうちに渡ってしまいそうである.境界線でもなければ,こんな小さな川の前で渡ろうか,渡るまいか悩むこともないだろう.
日本にも,小さな川が境界線となっている場所がある.今の岡山県南部にある備前の国と備中の国は,吉備の中山を流れる細谷川によって分けられていた.
古今集にも,「まかね吹く吉備の中山、帯にせる細谷川の音のさやけさ」と歌われるほどの細谷川だが,国境を示す川にしてはひどく小さな川である.
もちろん.ルビコン川より小さい.現在,水の流れている幅は大きめに見積もって20cmくらいであろうか.水が流れていない乾いた部分を入れても1.5mくらいである.
昭和になって,石碑も建てられ,備前の国と備中の国を渡す橋には,両国橋と名前もつけられたが,こんな小さな川の前では,たとえカエサルでも悩みはすまい.

(この道路にかかる小さな橋が両国橋,下を流れるのが細谷川.左に石碑)
日本の医療が、外国の医療と異なることはよく指摘される。
そのひとつに、長期臥床患者(いわゆる寝たきり)に対する態度があるように思われる。
神経内科領域では、長期臥床患者は多い。
欧米では、経口摂取ができなくなったら、それまでよ、と判断されるためクロイツフェルト・ヤコブ病 はすぐ亡くなる。
日本では、この病気が回復する可能性がないのを、患者の家族も十分判っていながら、経鼻胃管を入れて、ぎりぎりまで引っ張る。
脊髄小脳変性症も多系統萎縮症も胃瘻を増設して、患者とコンタクトが全くとれなくなっても、最後まで引っ張る。
ALSは、日本では1/3くらいの患者が気切して呼吸器をつけるが、欧米ではそもそも一部の大金持ちのみにしか呼吸器をつけて生きるという選択肢が存在しない。
なぜ、ここまで寝たきりに対する態度が違うのか、以前から疑問に思っていました。日本人は格別に優しいのでしょうか?
ふと想い出したのが、寝たきりのスーパースター、正岡子規だ。
結核で脊椎カリエスとなり、病床に伏せながら、俳句・短歌の改革のみならず、日本語散文を変革した男だ。
文学だけでなく野球を日本に紹介したことでも知られ、野球殿堂にも入った。国語や社会の教科書にも必ず出てくる名前である。
寝たきりになっても、これだけの仕事ができることを示した功績は大きく、日本人は寝たきりになった人間に対しても、それまでと変わらぬ態度を取るのではないかと、根拠の弱い仮説を立ててみました。
(写真は伊丹十三記念館の喫茶から中庭を写す。ケーキ小さいな)
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今でこそ、「のんびり、まったり、気が向くままに」などと言ってるが、以前は急性期病院の神経内科で脳血管障害を中心に診療した時期があり、その頃は忙しすぎて心も体もぼろぼろという感じであった。
毎晩のように病院からは呼び出され、家に帰ってもCCU(そのころはSCUが無かったのでCCUに重症の脳疾患患者も入れていた。)の看護師は、尿崩症になった患者のin outを、親切にも電話で一時間毎に朝まで報告してくる(まあ、指示を書いていても、一時間で1000mlも出たりすると電話したくなるのであろう)。
この頃、想い出したのが子供の頃読んだ、オスカー・ワイルドの「幸福な王子」 だ。町の中心部にそびえ立つ金箔の王子像が、ツバメに頼んで、苦労や悲しみの中にある人々のために、自分の体を覆っている金箔を分け与えていくという物語だ。
自分の医療行為は、少しは世間の役にたったのかもしれないが、わずかな金箔はどんどんはがれていき、そのうちに、ただ命を削って自分の生活費を稼いでいるだけのような気がしてきた。
現在の日本の医療は自己犠牲の精神に溢れる「幸福な王子」達によって支えられているように思われる。
みすぼらしい姿になった王子の像は取り外されて溶鉱炉で溶かされ、死んだツバメと一緒にゴミ溜めに捨てられた。
神に命じられた天使は、王子の鉛の心臓と死んだツバメを天国に持ち帰り、王子とツバメは永遠に幸福となったという。
さて、今の日本では誰が「王子の鉛の心臓」を拾ってくれるのであろうか。
日本では、やはり大江戸捜査網の「隠密同心 心得の条 我が命我が物と思わず 武門の儀、あくまで陰にて 己の器量伏し、ご下命いかにても果すべし なお 死して屍拾う者なし」なのかな。
(写真は金沢21世紀美術館の屋上にある「雲を測る男」)
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このブログを読まれている皆様は、「白猫黒猫論」とは、後に中華人民共和国の最高権力者となる鄧小平が1962年に述べた指針で、「白猫であれ黒猫であれ、鼠を捕るのが良い猫である」という四川省の古くからの諺でもあることをご存じであろう。
観念論をしりぞけ、物事を実際的に処理する鄧小平の個性をよく表す言葉になっている。
さて、この一週間ブログを書き、気づいたのは、どうも自分の書く記事は実務とか、実際的とかいうものから、かけはなれた位置にあるということだ。
ネズミを捕らない猫ばかり出てくる。ここまでくれば、徹頭徹尾、役に立たない猫の話を続けるしかないと覚悟を決めたところである。
猫と言えば、ヘミングウェイの猫好きが有名だ。
没後50年近く過ぎた現在も、フロリダ州の最南端キーウエストにあるヘミングウェイ博物館には、彼が飼っていた猫の子孫が60匹近くいて、全員に名前があり、高級エサが与えられている。
十数年前、マイアミの学会に出席したときに、私はわざわざその猫の写真を撮りに行った。
夕方で 博物館はもう入場させてくれなかったが、外から猫の写真だけは撮れたので満足していた。
しかし、ここで重要なのは、猫の指の数であった。
ヘミングウェイは迷信深く、6本指の猫は幸運を呼ぶと信じて知己の船長から6本指の猫2匹を譲り受けており、現在も博物館にいる猫たちの約半数は、6本指だという。
せっかくキーウエストまで行って撮った写真だけど、猫の指なんて写ってない。「猫の手も借りたい」という言葉はあるが、普通誰が、猫の手のことを気にするだろうか。
もし、また訪れる機会があれば、必ず猫の指を撮るつもりだ。ヘミングウェイの猫がネズミを捕るのかどうかは、残念ながら知らない。

(港町の,何の変哲もない猫.寝ていると,猫の手は見えない.隠すほど大切なものなのか)
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