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冬のヴェネチアに続く、気分はもう冬シリーズの第二弾、冬のローマ。
夕方、ヴェネチアから列車に乗って、ローマへ行く。
欧米で列車に乗ったのは久しぶりだ。
イタリアでは泥棒も多いので、日本と違って誰も列車の中では寝ない、と何かに書いてあった気がするが、見渡す限り外人全員が爆睡している。
翌日は2011年の元旦。
ヴァチカン宮殿に行くと新年のミサが執り行われていた。
世界中からミサのためにサン・ピエトロ大聖堂に信者や教会関係者が集まっている。
教会発行の証明書を手にしているもののみがミサに参加できる。我々は入場させて貰えずに帰る。
広場にはクリスマスツリーが立っている。
カトリックの総本山にしては、かなり質素なものである。
広場に青いバルーンがたくさん浮かんでいるが、拡大するとハトの絵が描いてある。どうやらこれはハトの代わりらしい。
後日、上の写真右に見えるサン・ピエトロ大聖堂に登る。
エレベーターに乗ったので上まで行くかと思ったら、途中までしかなく、あとは狭い階段を延々と昇るのであった。
ヴェネチアもそうだが、大聖堂に入る前に見たヴァチカン美術館もいたるところ段差だらけであり、イタリアにはバリアフリーなどという言葉は存在しないものと思われる。
階段を頂上のドームまで昇って屋上に出る。
わりと大きな土産物屋があったりして屋上は広い。
ドーム頂上から見たサン・ピエトロ大聖堂前の広場。
建物がやたらと大きくて広くて距離感がつかめないが、この広場はかなり広いのだ。
屋上からはひたすら階段を下りる。
大聖堂内部は、さすがに荘厳である。
この囲われた通路の奥が、聖ペトロの司教座なのだろう。
ローマ観光でコロッセオは定番だが、とにかく巨大である。
子供の頃から、何度も写真やテレビで見て知っていたつもりだったが、このスケール感は実感してみないと判らない。
コロッセオの内部を見学するだけでも時間はかなりかかる。

西暦80年に完成したコロッセオの近くに、西暦315年建造のコンスタンティヌスの凱旋門がある。
イタリアに攻め込んだナポレオンが、これを見て気に入り、後にパリにも凱旋門が作られた。
それが、エトワールの凱旋門だ。
コロッセオから少し歩くと、約1000年にわたり、ローマ帝国の中心として栄えたフォロ・ロマーナがある。
歴代の皇帝達が権威を誇示するために巨大建造物を建てたのが、約2000年後の今に残るところがローマの凄さである。
ここからローマ市庁舎を越えてかなり歩き、これも定番の真実の口へ。
今まで嘘をつきすぎた報いか、なかなか手が抜けない。
年末年始は世界中どこでもそうなのか、ローマは観光客だらけで、タクシーは全くつかまらず、ひたすら歩く。
真実の口からホテルに戻るにもタクシーは拾えず、地下鉄で帰る。

駅の券売機が、なぜか紙幣を受け付けてくれず非常にあせるが、小銭をかき集めて乗車券を買い、ローマ駅に戻る。
ヴェネチア・ローマと楽しい旅であったが、私としては中学生のときに読みふけったカエサルの「ガリア戦記」に関連した旅ができなかったのが少し心残りだった。
もっとも家族は、「ガリア戦記」などには、おそらくなんの興味も示さないだろうが。
この反省をふまえてパリ旅行で実行したのが、家族がホテルで朝食をとっている間に、一人で巡る「パリ医学散歩」だ。
もっとも、せっかくガリア(フランス)に行ったのに、なぜガリア巡りをしなかったのか、と問われると弁解のしようがないが。
真夏の今の時期になぜ、冬のヴェネチアなのかと訝る方も多いだろう。
でも、もう旅行会社は年末年始の予約を受け付けており、人気のコースはキャンセル待ちも受け付けない時期なのである。
というわけで、昨冬に行ったヴェネチア・ローマを忘れないうちにまとめておこう。
このブログの目的のひとつは備忘録としてなので。
ヴェネチアといえば運河なので、イタリア到着の翌日から早速水上バスに乗って運河巡り。
なるほど、絵はがきのような光景が広がっている。どの建物も絵になるのはさすがイタリア。
海上からサン・マルコ広場の鐘楼を眺める。
手前が水上バスの船着き場だ。
この鐘楼に登ってナポレオンが「世界一美しい空間」と断言したサン・マルコ広場を見下ろす。

この広場が、世界一と言われても納得できない気がするが、ナポレオンは非常にワンマンな将軍なので部下は誰一人反論できなかっただろう。
ナポレオンは軍人として世に出る前に小説を書いていたこともあるらしい。
フランス革命以前の世の中では、政治は王と貴族が行い、軍事も身分制度の縛りが強く、才能のあるものが身を立てるには、小説などの芸術方面に向かうしかなかった。
そこで有能な若者は皆、小説を書いたのだという。
この広場の端にはサン・マルコ寺院があるが、残念ながら工事中だ。
鐘楼の上で、反対の方向を振り向くとヴェネチア総督の邸宅兼政庁である大きなドゥカーレ宮殿がある。
鐘楼を降りて路地を歩くと仮面舞踏会の本場らしく仮面の専門店がある。
思わず仮面を買ってしまったが、まだ今のところ日本で使う機会は訪れない。
しかし、仮面舞踏会のお誘いがあれば、準備は万端であることをお伝えしておく。
ヴェネチアだから、もちろんゴンドラにも乗らなければならない。
少し値段が高めだが、ここまできたら目をつぶって乗るしかない。
水上バスと違い、裏道みたいな細い運河を通過していくのもいい雰囲気である。
大運河に出て、向こうに見えるのはリアルト橋。橋の上も土産物屋がひしめいている。
そういえば、ヴェネチアでは病院を見かけなかった。
パリと違って「ヴェネチア医学散歩」などという本も、もちろん無い。ヴェネチアに留学したという医師を聞いたこともないが、少し住んでみたくなる街である。
なお急な病気になると、救急車ではなく救急艇が駆けつけるのだとガイドから聞いたが、どこへ運ばれていくのだろうか?
神経内科医であれば、パリに来たからにはサルペトリエール病院を訪れないわけにはいかない。
ネットで病院のサイトを見るがアクセスがよく判らない。
どうやっても地図がみつからない、フランス人は地図を見ないのだろうか。
地図がないので文章を見るが、フランス語と英語は全く違うんだな、という至極当たり前の感想を抱く。
「パリ医学散歩」や他の情報を見るとパリ13区の植物園の近くにあるようだ。
でかい敷地の病院のようだから近くに行けばなんとかなるだろうと気楽に考え、植物園に隣接した国立自然史博物館までタクシーで行く。
しかし、降りても病院らしいものは見当たらない。
仕方ないのでしばらく歩き回るが全く見当がつかず、戻って博物館の職員に聞くと、なんかずっとあっちのほう、と言ってる感じ。
オステルリッツの駅まで出て、今度は広い通りを西に少し歩くと精神科領域では有名な内科医ピネルの像を発見した。
その奥に小型の凱旋門みたいな病院の門がある。
門にはサルペトリエール病院と書いてある、間違いない、やっと神経内科発祥の地にたどりつく。

門を入ると庭があり、向こうに大きな礼拝堂が見える。

病院内部への入り口が判らないので、礼拝堂の中に入り、別のドアから出ると知らないうちに中庭に出た。
しかし今度は、広い敷地に様々な建物がたくさん建っているため、どれが何だか判らない。
仕方がないので、病院敷地内の略図を見て、シャルコーとかババンスキーとか書いてある建物を探す。
残念ながら、シャルコー講堂はだいぶ前に建て直されており、パリには珍しいなんの風情もない講堂となってしまい写真を撮る気にもなれなかった。
代わりにシャルコーの火曜講義の絵を使ったパネルが誇らしげに立っている。
神経内科の創始者シャルコーとか書いてあるのだろう、たぶん。
ババンスキーのユニットは急性期の神経疾患なども診るユニットのようで、外見は日本の病院とあまり変わらない。
中にも入ったが、外来の待合は静かなものであった。
しかし筋疾患のユニットは別の入り口があったような気がするし、離れて全く別の場所にも神経系のユニットがあったりする。
なんだか日本でいえば、昔の療養所系の病院がそのまま大きくなったような印象を受ける。
脳血管障害はババンスキーのユニットで診るのだろうが、循環器疾患のユニットは遠く離れた場所にあり連携などは難しいのではないかしら。
敷地が広く、歩きまわって喉が渇いたので、病院の中の売店でコーラを買って飲む。
コーラはパリで飲んでもコーラの味だ、当たり前だけど。
フランス風のサンドイッチなども売っているが、見た目はさほどおいしそうでもないのでスルー。お値段も高めだし。

サルペトリエール病院を訪れたことで、自分としてはパリ観光の目的をほぼ達成し満足してタクシーでホテルまで帰って家族と合流した。
なお、毎日タクシーに乗っていて思ったのだが、やはりフランス人はあまり地図を見ないのではないだろうか。
一度目的の場所を通り過ぎたときにタクシーの運転手がやっと地図を出してきたが、この地図というのが非常におおざっぱなものであり、日本から持ってきたガイドブックと同じレベルであった。
この地図を見て私は即座にタクシーを降りることを決断したのだった。
本当にどうでもいいことだが、冬になり外来に感冒の患者が増えると思い出すのが、
このフレーズ 「ガムテープで風邪が治る」。
もちろん医学的には「ガムテープ」と「風邪」には何の関係もありません。
でも『水戸浩一遺書詩集 ガムテープで風邪が治る』 の題名を最初に目にしたときの衝撃は大きかった。
『現代詩手帖』に投稿をくりかえしていた水戸浩一は、誕生日の前日である四月一日に、ガムテープで口をふさいだ状態で発見される。
その水戸浩一の遺稿を特殊歌人・枡野浩一がまとめる形で刊行した本だ、
という枡野の解説を十数年前に雑誌で読んで興味を持ったのだ。
だが、しばらくしてから真相を知ることになる。
元特殊歌人 枡野浩一氏。
彼は20歳頃、水戸浩一という筆名で
『現代詩手帖』に投稿をくりかえしていた。
当時の投稿選者は、今ではテレビタレントみたいだが本職は詩人の「ねじめ正一」であって、
枡野が投稿した詩は全て掲載されたのだという。
『水戸浩一遺書詩集 ガムテープで風邪が治る』は、現代詩手帖に掲載された枡野浩一の作品を
「水戸浩一の追悼作品集」としてまとめあげたものだったのだ。
その後、枡野浩一氏はNHKの番組などに頻回に出演し、
近年の「ケータイ短歌」「ネット短歌」と呼ばれる動きの礎を築きあげた。
しかし、いまだに私にとっては
「枡野浩一」= 「ガムテープで風邪が治る」
のままだ。
いずれにせよ、「ガムテープで○○が治る」というのは
インパクトが高いコピーである。
神経内科医としてはぜひ、
「ガムテープでパーキンソン病が治る」
とか
「ガムテープで脳梗塞が治る」
とかの題名で本を出してみたい誘惑にかられるが、
多分学会からは専門医の返上を求められることであろう。
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「駆けてきて ふいにとまれば われをこえてゆく 風たちの 時を呼ぶこえ」
寺山修司の告別式のあいさつ状に、葬儀委員長の谷川俊太郎が選んだのが、寺山のこの歌である。
中学、高校と学校では仕方なく、多くの短歌を習わされてきたが、素敵だと思ったのは、寺山修司くらいのものだ。
青森に生まれた寺山は、若くからネフローゼを患い入院生活を繰り返したが、「チエホフ祭」 で、その短歌が注目され、後には演劇・映画・エッセイと多方面に活躍した。
ネフローゼの治療に使用した血液製剤から肝炎に感染したのか、肝硬変に苦しみ、最後は腹膜炎による敗血症で1983年5月に47歳の若さで亡くなった。
もっとも、彼の言葉に従えば
「ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかゝって
完全な死体となる」
ということになるが。
いつの間にか、何かを為すこともなく寺山よりも自分が歳をとってしまったことに気づき愕然としてしまう。
私は 「起こらなかったことも 歴史の裡である」
などの寺山の生み出す言葉の力に感動して、中学生の頃から寺山のファンであった。
ファンとしては、彼が生まれ育った青森県を一度はみるべきであると思っていた。
だが、青森では神経内科の大きな学会などは開かれないため、残念ながら今まで訪れる機会がなかった。
しかし、現代美術作家の奈良美智も青森出身であることを知り、これはもう行くしかないと、4月に盛岡まで行ったついでに青森県立美術館に出撃した。
上の写真は、青森県立美術に鎮座する奈良美智の「あおもり犬」。
犬を見に行くのに、一度館内を登ってからいったん外に抜け出て、非常階段みたいなところを駆け降りてたどり着く。バリアフリーに逆行するような展示である。
で、青森はどうだったかといえば、青森県立美術でさえ内容が豊富すぎて一度行ったくらいでは消化しきれていない。
青森県恐るべし。
再度の挑戦を誓って、帰宅したのである。
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上の写真は、少し前の科学少年なら、その名を聞いたことがあるはずのペンシルロケットである。
ペンシルロケットは、日本初の実験用ロケットであり、東京大学生産技術研究所において開発が進められて、1955年に糸川英夫博士により初めての飛行実験がなされている。
さて、1970年代に中学生となった私は、化学部に入っていた。
何をする部かというと、好きな実験を好きなようにするという部であり、現在の病院業務のように何かするたびに倫理規定がどうのこうのとかいうことは無くて、全く自由な部活動だった。
とはいえ、中学校の文化祭では何か出し物を求められた。
その秋は、例年どおり花火を作ることになっていた。
中学生の実験なので、打ち上げ花火ではなく、鉄のパイプを使った噴出花火(筒から火花を噴水のように吹き上げるもの)である。
理科室にある薬剤を入れると、様々な色の花火ができるが、何か物足りない。
もう少し、大きな物、派手なものが作りたいと欲が出てくる。
そのころ読んだのが、ペンシルロケットの組成である。
「ああ、これなら理科室にある」
私は、迷わずペンシルロケットの組成を参考にして、新しい花火を作り上げた。
屋上で、他の部員とともに実験に臨んだ。
薬物を詰め込んだ鉄パイプを屋上に置き、火をつける。
シュバシュバと音をたてて、鉄パイプの先から火花が吹き出す。
で、終わりだった。
火花が巨大になることもなく、色も単純で全くおもしろみのない花火だった。
見学していた部員が、「なーんだ」という感じで鉄パイプを足で横に倒した。
とたんにすさまじい爆発音が炸裂し、私は倒れた。
「びっくりしたなあ」 と思って、つぎに立ち上がろうとしたのに、なぜか立てない。
自分の右足から血が出ているようだが、痛いのか痛くないのかよく判らないし、なぜ血が出ているのかも判らなかった。
爆発により、花火の筒に使った鉄パイプが飛んで右足に当たり、右足の腓骨を骨折していたのだ。
しかし、あまりに一瞬のことだったので、怪我をした当人にも何が起こったのか理解できなかった。
この日、生まれて初めて救急車に乗り、初めての手術を経験し、初めての入院生活を送ることとなった。
このように、ペンシルロケットには忘れられない思い出がある。
まあ、ロケットを参考にして作ったのだから、花火ではなくロケットができたのは、当たり前だったのかもしれない。
ロケットを作ってしまった私だが、実物のペンシルロケットは見たことが無かった。
しかし、ある日、子供を地方の科学館に連れて行くと、たまたま展示されていた。
それが、上の写真である。
もう一枚、ペンシルロケットの横に立って、にっこり笑った写真も撮って貰った。
でも、その写真を見ても糸川英夫博士は、なぜ私が笑っているかは、判ることはないであろう。
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夜中に腹痛が出現した。今までに、経験したことがないような痛みである。ただごとではなさそうだ。
勤務先の病院は遠いので、そこまでの移動は体がもちそうにない。
疲れた当直医には申し訳ないが、朝5時すぎに近くの基幹病院の救急を受診した。
前日に水様性の下痢もあったため、診察医には診察のみで腸炎だと診断されたが、あまりに痛いので、自分も医師であることを伝えて、 採血とCTをお願いした。
検査結果が出るまで、点滴室という部屋で維持輸液を受けていたときに、目についたのが上の写真。
赤い非常電源につながれた電気蚊取りである。
なぜ、これが気になるかといえば、勤務先で個室に入って呼吸器がついている患者の電気系統の異常を経験したことがあるからだ。
その原因は患者の持ち込みのラジオだった。
ラジオの電源を非常電源からとっており、ラジオが水に濡れてショートしたのだ。
たぶん患者にとっては、呼吸器と同じくらい生命維持のために必要なラジオだったので非常電源につながれていたに違いない。
ただ、もう勤務先ではラジオは非常電源につながれてはいないはずである。
今日は仕事を休んだので、勤務先で電気蚊取りをつないでないかどうかは、明日行って確かめてみるしかない。
なお、腹痛の原因は尿管結石であることが後に判った。
一晩当直をして明け方にバイタルサインに問題のなさそうな患者を診るのはつらいものである。
非典型的な症状の場合は、やはり検査を詳しくするしかないが、自分が当直のときを考えても、そこまでする元気がなかなか出ないのが実情である。
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NHKの大河ドラマの影響は強力であり、高知はまたもや坂本龍馬が大ブームとなって、5月のゴールデンウイークはホテルをとるのも一苦労であった。
その、高知に着いて、最初に見に行った観光地は沢田マンション。
上の写真が沢田マンション全景であるが、屋上に赤いクレーンが載っているなど、少し不審な点はあるにせよ遠目には普通のマンションである。
なぜ、沢田マンションが、観光スポットとなり得るのかというと、これが素人が独力独学で建てた鉄筋コンクリート造の建築物であるからだ。
Wikipediaによれば、沢田マンションは、高知県高知市に建設された、集合住宅である。鉄筋コンクリート住宅を専門職として手掛けたことのない者が、夫婦二人で造りあげた、手作りのマンション。
現況は、鉄骨鉄筋コンクリート構造、敷地550坪地下1階地上5階建て(一部6階)、入居戸数約70世帯、約100人居住となかなか立派な規模である。
1971年、沢田嘉農が44歳の時、高知市薊野(あぞうの)に土地を買い求め、マンションの建設に取り掛かる。
素人がマンションを造るにあたり、建築確認は取らないままであり、役所の対応も「強度に文句は言わないが、手数料の用意が出来たら許可は取ってくれ」という程度の、非常に大らかなものだったという。
その後増築を重ね、2002年に6階部分にペントハウス様のリビングを備えて、今の形になったそうだ。
マンション内に入ると、入り組んだ階段、部屋の中が丸見えの通路、継ぎ足しを隠そうともしない工事のあと、などであふれており、手作り感が満杯である。
屋上には、赤い巨大なクレーンが鎮座するだけでなく、鶏小屋や畑もある。5階にはウサギ小屋もあるが、これはペットなのであろうか?
高知には20年ほど前に、二年ほど住んだことがあり、日本とは異質の世界であるとは思っていた。
しかし、このあたりは街はずれの、田んぼ以外何も無いところであり、このような巨大なモニュメントが建設途中であることなど全く知るよしもなかった。
今では、独力建築の巨人として沢田は雑誌やテレビで紹介されて有名になり、私のように他県からの見学者も多いようである(ガイドがついた見学ツアーみたいなグループもいた)。

上の写真は、普通の畑に見えるかもしれないが、沢田マンションの屋上である。反対の方向を向けば、ヤマダ電機が間近に見える。
高知には、坂本龍馬だけでなく、沢田嘉農のように日本の枠には、はまりきらない巨人がごろごろといるのだと思われる。
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(軍艦島の総合事務所跡、廃墟写真の典型として雑誌やテレビなどでおなじみ)
先日、長崎大学に会議で行ったときのことである。
長崎の観光といえば、今の旬は軍艦島だ。
さて、会議が終了して、軍艦島上陸ツアーの船会社に電話すると、ちょうどキャンセルが出ましたということで、慌ててタクシーに乗り込み長崎港に向かった。
軍艦島は炭坑跡のまるごと廃墟の島である。昭和30年代を経て石炭から石油へのエネルギー革命が起こったことで、炭坑はその存在意義が薄れ、昭和49年には閉山となり、島から住民はすべて立ち去った。
あとには、大正5年に日本初のコンクリート造りとして建てられた高層アパートや工場、学校がそのまま残され、朽ち果てるままであったのが、近年では産業遺産として観光の目玉となってきたのだ。
最近までは、船から島を眺めるだけの観光だったのが、やっと上陸ツアーが許可されるようになったため人気がさらに出てきた。
長崎港から船で一時間ほどで小さな島が見えてきた。

コンクリートで覆われた人工物の塊みたいな島だ。
廃墟もこれだけ大きいと迫力がある。しかし、船に乗ったときから気になることがあった。
乗客に変な格好をした客が二人ほどいるのだ。

上の写真を見てお判りであろうか?神主と巫女が乗船していたのだ。
彼らは他の客より先に降りると、日本酒の一升瓶を持ったおじさんとともに、あちこちのポイントで何かをしている。
おじさんは、日本酒をふりまき、巫女は紅白のまんじゅうを廃墟に投げ込み、神主はなにか「ごにょごにょ」と念じているようである。
軍艦島には墓はない。そこで亡くなった人は、全て他の島に運ばれて火葬された。しかし、炭坑であるからには、事故は頻回に生じたことであろう。その怨念はまだ残っているのであろうか。
軍艦島自体は、ガイドブックに載っていた写真と同じであったが、巫女と神主付きのツアーというのは、初めての経験であった。
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入院患者が重症である場合は、普通の温度板にバイタルサインを記入するのではなく、重症記録(病院によって名称はことなるだろうが)に患者の二時間毎とかの血圧や心拍数、SpO2などが記録されることが普通であろう。
さて、この重症記録にはNsにより、患者の輸液量や尿量のinとoutが数時間毎に計算して記録してあるが、どうもこれに間違いが多い気がする。
ざっと眺めるだけなので、100や200mlの違いは判らないが、どうみても500mlくらい違うのではないかと思うときが、ままある。
別にどこの病棟が間違いが多いとかいうこともなく、今までの経験では、大学病院でも基幹病院でも、つまりどこの病院でもまんべんなく間違いはある(もちろんICUとかはあまり無いようだが)。
単純な足し算だが、業務量が多すぎてそこまで手がまわらないのであろうか。
これで思い出すのは、大学生の時にしていたバイトだ。
大学時代は、映画研究部に入っていた。
映画館を借りて、年に2回映研で自主上映を行うために、その映画館の土曜日のオールナイトの間は、切符のもぎりを兼ねた売店の売り子を映研のメンバーで受け持つことが、先輩からの慣習となっていた。
土曜の夜は、バイトに入る前に、映画館の従業員から、おつり用の小銭を貰い、売店の中に陣取る。
売るのはパンフレットやお菓子類であり、高いものは無く、まあ気楽なバイトだ。バイト代は安いが、何人かでやれば、ただで映画も見れる。
映画が終われば、売り上げの確認である。
100円、200円のものを売り、おつりを出すだけの単純作業である。レジスターなどは無いが筆算で十分な仕事量である。でも、なぜか売った品物と残った現金が合わない。多くは数百円程度の違いであるが、ぴたっと合うことがない。
結局。在学中に、金額が合ったことはただの一度も無かった。これは、部長である私だけでなく、他の部員がバイトをしたときも常に合わなかったのである。
いくらなんでも国立大学の医学部の学生が、揃いも揃って足し算引き算ができないことはありえないはずであるが、とにかく合わないのである。
以後、スーパーのレジ打ちのおばさんを尊敬するようになった。きっと、彼女らはものすごい金額を売り上げながら、間違いなどはありえないのであろう。
映画館でのバイトで判ったことはもう一つある。ヤクザ映画はヤクザが見に来る、ということだ。
平和な映画館だったが、ヤクザ映画を上映した土曜の夜の客層は普通の週とは全く違い、服装や言葉が特殊な方々が集まったのである。
当然、バイトの我々もびびりまくり、売店の売り上げも大きかったのだが、決算での合わない金額も最高値をたたき出したのである。
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