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いつか、新聞を読んでいると経済的に自立した女性は、結婚に対してもリスクがとれる、という意見が載っていた。
どういうことかというと、収入が無い女性は安定した稼ぎのある男性を結婚相手として捜さないといけない。
しかし、自分が働いて、ある程度の収入があれば、結婚相手の男性は無職であってもかまわず、選択範囲が広がるという論理だ。
自分のまわりの看護師さんが、つきあっている男性が、個人的な感想ではあるが、社会通念的には問題のある男性も多いように感じていた。
簡単に言えば、20代後半で無職とか、仕事を短期間で辞めるのを繰り返したりする男達である。もちろん恋愛は経済問題ではないのだから、そういう男がだめとは言わない。
ある看護師さんの彼は、20代後半で無職であり、職業訓練校の試験を先日受けたそうだ。
試験問題に、簡単なかけ算が出たが、彼は難しい問題と思い、とばして次の問題に進んだ。合否はまだ判明してないが、その報告を受けて、さすがの看護師さんも、力が抜けたようだった。
今後の展開としては、看護師は経済的に自立しており、結婚に対してもリスクがとれるという実例になるのかもしれない。
医療界の今後が不透明な中、私もいつ無職になるかもしれず、私を養ってくれるようなリスクがとれる女性が増えることを切望している。
(写真はバリ島のコンラッドホテルの教会)
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小さい頃から妻の母が面倒をよくみてくれているので、うちの子供達は、おばあちゃんが大好きだ。
おばあちゃんも孫と遊べて、とても楽しそうである。
私自身は祖母とは、距離的にも非常に離れていたため、何年かに一度しか会わなかったので、これといった思い出はあまりない。
子供をみていると、おばあちゃんの影響だろうな、と思うときがままある。
これは、絶対そうだろうな、と思ったのは上の男の子が小学校四年生のときに学校で書かされた、将来の目標 。
うちの子が書いたのは「長生き」 。普通、小学生は目標にはしないだろう。おばあちゃんの口癖なのかな。
(写真はハワイのシーライフパーク。この後、飼育員が全部の亀の甲羅を洗っていた。亀の甲より、年の功)
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不随意運動を表現するのに、アテトーゼとかジストニアとか神経内科医に言われたうえに、ジストニアは運動ではなくて姿勢の異常だからと訳の分からない説明をされて、神経内科医を殴ってやろうかと思った医師は少なくないだろう。
不随意運動の名前なんか聞きたくない医師がほとんどだ。
しかし、名前をつけることで、そのものがより明確に、イメージできるようになることがあるのも事実だ。
私が、某国立大学教育学部附属の小学校の低学年だったとき、図画を教えてくれたのは確かS先生だった。
小太りで、少し色のついたメガネをかけ、頭にパンチパーマをあてた先生の風貌はテレビでみるヤクザに似ていた。
でも普段の言葉はやさしくて、生徒を呼ぶのには「○○ちゃん」と猫撫で声で話しかけ、おしりをフリフリ内股で歩き、いつも白いレースのハンカチを持ち「オホホ」と笑った。
しかし、怒ると無茶苦茶に怖かった。白いレースのハンカチを噛み「キーッ」と言ったかと思うと「てめえら、どうなってもいいんだな」と小学生に向かって凄んでみせた。
僕らは、あの先生は変だ、と思っていた。でも、そのころの小学生は、どう変なのか、それを何と表現すればよいのかを知らなかった。
学習を重ね、数々の試験をクリアしてきた今は、的確に表現できる。
「おかまは怒ると怖い」
(上の写真は、国立新美術館。「新」て、安易なネーミング。新ジストニアとか新ミオクローヌスとか、あってもいいかも)
(下の写真は国立新美術館内のオブジェ,新落花生?)
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餃子が好きで、このようなタイトルにしたのではない。人生は、なかなか思ったようにはならないものだ、という意味で餃子は大きな教訓となるのである。
私の家族は、私を除いて餃子が好きであった。
子供の頃、夕食に餃子はどうかと、母が皆に尋ねるときには、私は常に反対した。しかし、尋ねる母も餃子好きなので結果は明らかであった。私は、家にいる間、ずっと敗北を続けた。
大学に入り、一人暮らしをすることで、餃子を食べずに済むようになったが、好きでもない餃子を食べ続けなければならなかった理不尽さはいつまでも記憶に残った。
そのため結婚を考えるとき、私の考えたあるべき家庭の条件とは餃子を食べなくても済む家庭、という非常にゆるいと思われる条件のみであり、伴侶選びには苦労をしないと考えられた。
ある女性と交際し、何度も中華料理を一緒に食べ、旅行も何回もした。その間、彼女は餃子を注文することは一度もなく、私は安心した。
結婚して、しばらくたち、彼女が無類の餃子好きであることを知った。
餃子好き達は、なぜか皆、私が餃子が嫌いだというと、おいしい餃子があるからと言って食べさせてくれる。
嫌いだと言うのに、家に招き手作りの餃子を食べさせてくれた先生もいる。私も、妻にいろいろと食べさせられてきたが、宗旨替えを決意するような餃子には出会わず、私はいまだに焼売党である。
餃子によって、私は、たったひとつの、非常にゆるい条件でさえ全うできない人間であることを知った。
結婚生活が、幸福であるとか不幸であるとかいう問題ではない。人生は、思ったようにはならない、ということを知ったのである。
(写真は宇都宮みんみんの餃子。学会で宇都宮に行ったときには、毎日いろんな店の餃子食べたけどね。)
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