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1月末、Fさんは当院に転院してきた。癌再発で余命わずかとの告知を受け、ホスピスで最期を過ごすことを希望したのだが、ホスピスは空きがなく、部屋が空くまで当院に入院することになったのだった。
Fさんに付き添っている女性は私が話をした「妻」ではなかった。私はFさんに以前妻と名乗る女性が話を聞きたいと言ってきて病状を話したけれどよかったのかと、ずっと気がかりになっていたことを聞いた。Fさんは「俺が先生に聞いて来いと言ったんだ」と答えた。養育費の支払いが滞っているのを病気のせいにしたが信用されなかったから、ということだった。
Fさんは自分の運命をしっかりと受け入れている様子だった。「死ぬのはこわくない。ただ、苦しいのだけは、苦しいのだけはごめんだ」そう言った。
ある日回診に行くと、Fさんは、病室で声も切れ切れに苦しそうに携帯電話で電話をしていた。Fさんは生命保険に入っているが、死んだら保険金は妻ではなく、付き添いの女性にあげたいのだと言った。名義変更の手続きのために保険会社に電話をしていたのだと言った。すると、傍にいた女性がわっと泣き出した。
「お金なんて、どうだっていいんだよ。お金なんて、私はいらないんだから・・・!!」
Fさんは自分の葬式費用がいくらなど、死亡保険金の用途を紙切れに箇条書きに書き出していた。お金にきちんとした人なのだ。だから医療費の前借りや踏み倒しやなどができず、ずっと治療や検査を拒否して、苦しいのを我慢してきたのだ・・・。
Fさんはとても優しい目をしていた。Fさんが入院してから初めて気づいたことだった。今までどうして気付かなかったのだろう。
数日後、ホスピスが空いたと連絡が来て、Fさんは転院した。転院の日、私はFさんと握手をしてお別れをした。とても温かい手だった。この手が近いうちに冷たくなってしまうのだ。そう思うと涙がにじんだ。
Fさんの訃報が届いたのはわずか3日後だった。こうしてFさんの壮絶な闘病は幕を閉じた。
Fさんは医療者の立場から見ると困った患者さんではあったが、その背景には経済的な問題があった。
当時と比べて現在の社会経済状況は悪化し、Fさんのように「お金がないから治療できない」という患者は確実に増えている。直面する医師としてはやり切れないものがある。
おわり
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8月から治療を再開したが、その後から気管支喘息の症状を伴うようになった。9月、Fさんが呼吸困難を訴えて受診した。気管支喘息重積発作の状態で、そのときの酸素飽和度は88%だった。入院を強く勧めたが、Fさんは「これ以上仕事を休んだらクビになってしまう」と頑なに拒否した。
外来のベッドで酸素吸入をしながら、ステロイドとテオフィリン製剤の点滴を行うと、Fさんは「楽になった」と言って帰宅した。その後しばらくの間、Fさんは受診せず、代理人の女性が薬だけ取りにくることが続いた。
ある日、Fさんの妻と名乗る女性と高校生くらいの娘が、病状を聞きたいと言って私を訪ねてきた。しかし、その女性はいつもFさんの受診に付き添ったり、代理で薬を取りに来たりしていた女性とは別人であった。Fさんには妻子があったが、それ以外の女性と暮らしているようだった。
私は困惑した。いくら妻や子であっても、個人情報保護法により、本人の承諾なしに患者情報を教えることはできない。
Fさんの承諾は得ているのかと聞くと、妻と名乗る女性はFさん自身が私の名前を出して病状を聞いて来いと言ったのだと答えた。私の名前を挙げることができるのは本人だけであることから信頼性があると判断し、Fさんの病状がかなり悪いことや、お金がないからという理由で治療を拒否してきたこと、通院は不規則で最近は受診していないことなどを話した。妻と娘は神妙な面持ちで病状を聞いていた。
Fさんはその後もほとんど受診しなかったが、H(XX+5)年元旦、気管支喘息重積発作で救急外来を受診した。かなり重篤な状態で、当直医はFさんを救急車で大学病院に搬送した。
一時人工呼吸器管理になったそうだが、すぐに離脱できた。
しかし、その後の気管支鏡検査で、なんと、肺癌の再発が発覚したのだった。
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5月の連休中、Fさんはあまりの辛さにまた大学病院の救命センターを受診したそうだ。救急で採血をしてもらい、CRPが11 mg/dLと上昇していたため、救急の医師から診療時間内に呼吸器科を受診するように言われ、連休が明けてから仕事を休んで呼吸器科を受診した。
しかし、Fさんの話によると呼吸器科担当医の外来は予約がいっぱいだったため他の医師に回されて、その医師から「わからない」と言われたそうだ。Fさんは「二度と大学病院にはかからない」と怒っていたが、Fさんの受診態度にも問題があるのは明らかだった。
Fさんは外来で待たされることが大嫌いだった。呼吸器科は待ち時間が長いためFさんは待ちきれず、他の医師の診察を希望したのだった。
Fさんの症状は悪化し、6月からは喀血も伴うようになった。胸痛も増悪していた。大学病院でFさんの担当だった呼吸器科医師に電話で連絡を取り、喀血に関しては止血剤か吸入ステロイドで様子をみるように指示をもらった。
しかし薬を増やすどころか、Fさんは抗真菌剤を「薬代が高いからやめたい」と言うのだった。それからは、Fさんは鎮痛剤と鎮咳剤、去痰剤だけを希望するようになり、根本的治療のための抗真菌剤も非定型抗酸菌の治療薬も拒否した。理由は薬代が高くて払えないからということだった。
Fさんの左肺上葉には空洞ができており、根本的治療をやめてから次第に大きくなっていった。咳、胸痛、血痰の症状も続いていた。呼吸器科受診を勧めると、Fさんは大学病院ではなく市民病院にかかりたいと言った。市民病院に紹介状を書き、Fさんが市民病院を受診したのは翌年H(XX+4)年の4月。市民病院からの返答は、抗真菌剤と抗菌剤のニューキノロンを併用して感染が改善されてから外科的手術で空洞を切除するのが望ましいということだった。しかし、Fさんは「今はお金がないから夏のボーナスが入ってから治療を始める」と言った。
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Fさんはしばらく抗生剤の点滴に通っていたが、炎症は持続し状態は悪化した。全身倦怠感が強くなり、H(XX+3)年1月、ついに断念して大学病院の呼吸器科へ入院した。入院後、気管支鏡検査を行い、気管支洗浄液からM.aviumという非定型抗酸菌が検出された。またアスペルギルス抗原(真菌の一種)が陽性であった。非定型抗酸菌症と肺アスペルギルス症の合併と診断がつき、その治療薬を開始したところ、症状は徐々に改善し、3月に退院した。そして三たび当院の外来に戻ってきたのだった。
さて、前置きが長かったが、私がFさんと関わるようになったのはこの後であった。Fさんはアスペルギルス症に対してイトリゾールという抗真菌薬を、非定型抗酸菌に対して3種の抗結核剤とクラリスロマイシン(600mg)を処方されていた。非定型抗酸菌症の薬は1、2年続けなければならないと言われていた。
困ったことに、退院後も微熱が続き、咳や胸の痛みは悪化した。更に困ったことに、Fさんは金銭的な問題を抱えていた。抗真菌剤や非定型抗酸菌の治療薬は高価で、後発品を使用しても調剤薬局での支払いが1ヶ月数万円になるのだった。
Fさんの症状は悪化していた。外来でも咳き込んで会話がろくに行えないような状況だった。胸痛や微熱も続いていた。そんな状態で仕事ができるのかと聞くと、仕事はしていると答えた。
所持金が少ないからという理由で検査はことごとく拒否された。
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ソセゴン中毒から解放はされたものの、Fさんの術後の疼痛は続いた。その後もずっと非ステロイド性消炎鎮痛剤(NSAIDS)の服薬を毎日続けていたFさんだったが、H(XX+2)年の夏から咳と発熱が見られるようになった。その年の8月、Fさんは大学病院の高次救命治療センターを受診した。
診療時間内の外来を受診せずにいつも救急外来を受診するのがFさんのいけないところであった。高次救命治療センターはその名の通り高度な救命治療を要する患者さんが運ばれるところである。Fさんのように数日前からの咳や発熱といった症状の患者が受診するところではない。このような患者さんが沢山詰め掛けたら、救急医療は破綻してしまう。
ともあれ、Fさんは救急で胸部CTと血液検査をしてもらい、左胸膜炎と診断された。炎症反応を示すCRPが14.5 mg/dLと高値を示したため入院治療を勧められたが、「仕事の都合でどうしても入院はできない」と断り、抗生剤の点滴を受けて帰宅した。その際、救急の医師から当院宛に「今後は貴院外来で抗生剤の点滴をお願いします」という紹介状も書いてもらっていた。
その後Fさんは数回当院外来で抗生剤の点滴を受け、CRPは3.50 mg/dLまで改善したものの、腺癌の腫瘍マーカーであるCEAが20.9ng/mL(正常値5以下)と高値を示したため、肺腺癌の再発の疑いで再び大学病院の呼吸器科へ紹介された。
同年12月、Fさんは紹介状と供に再び当院の外来へ戻ってきた。CEAは低下傾向で、再発の可能性は少ないだろうということだった。しかし、CRPは16.85mg/dLと再上昇し、左胸膜炎の再憎悪と考えられていた。紹介状にはこうあった。
「仕事の都合上どうしても入院治療は無理、貴院での外来点滴なら可能とのことです」
つづく
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ながらく更新していないにも関わらず、毎日多くの方にお越し頂いて恐縮です。
医者を困らせる患者にも色々なタイプがあるけれど、Fさんは『困った患者さん』の一人だった。Fさんが亡くなって2年以上が経つ。カルテを遡り、Fさんの「困ったぶり」を懐かしく思い出しながら綴ってみる。
平成XX年5月、49歳だったFさんは「1ヶ月くらい前から息を吸うときに『ブーブー』音がする」という主訴で外来を受診した。胸部レントゲンとCTで異常陰影を指摘され、大学病院の呼吸器科へ紹介となった。左上葉の肺腺癌の診断で、Fさんは同年7月に左上葉切除術を受けた。9月に退院し、『貴院にてCTのフォローアップをお願いします』という紹介状と供に、当院に戻ってきた。
しかし、Fさんが受診したのは深夜の救急外来。術後の疼痛を訴えるFさんに、当直医はソセゴンを注射した。その後も、夜遅くに受診しては「痛い。内服の鎮痛剤が効かない」と当直医に訴え、その都度ソセゴンの注射を繰り返されていた。非麻薬性鎮痛剤(オピオイド)の塩酸ペンタゾシン(ソセゴンまたはペンタジンなど)は連用すると依存症を起こしやすい。Fさんは俗に言う「ソセゴン中毒」になってしまっていた。
Fさんは術後疼痛のため手術した大学病院の外科から麻酔科へ紹介され、神経ブロックに通っていた。しかし、待ち時間の長い大学病院への通院を嫌がり、決まって休日か夜間の診療時間外に当院を受診し、ソセゴンの注射を要求するのだった。
カルテには、ある時から『この患者さんにソセゴンは注射しないでください』と記載された。それでもFさんがしつこく懇願するため断りきれずに打ってしまう医師もいたようだ。
カルテによると、平成XX年の9月末から11月末の2ヶ月間でFさんは合計12回ソセゴンの注射を受けた。注射の指示を出した医師は、ほとんどがその場限りのアルバイトの当直医だった。ある時、バイト医師の采配でソセゴンの注射は依存性を生じないメナミンに変えられた。4回メナミンの注射を受けた後、Fさんは注射の要求をしなくなり、「ソセゴン中毒」は終焉したようだった。「ソセゴン中毒」の患者さんは医師にとっては「困った患者」に当たるのだが、この様な依存症を作ってしまうのは医師自身であることを肝に銘じなければならない。
つづく
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