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みなさん、おひさしぶりです。
長い間ブログ放棄していました。ご心配いただいた方もいらして、申し訳ないです。
元気ですよー。
というわけで、久々の更新です。先日、ある雑誌に載せた原稿そのままコピペですが・・。
字が小さくて読み辛いかな
「天皇陛下のような治療をしてください」
15年も前のことであるが、Kさんの息子さんが言われた言葉はとても印象に残っている。
Kさんは会社を経営していたが、脳梗塞で倒れ、半身不随になった。リハビリ目的で転院してこられ、転院後に胆嚢炎を併発した。胆嚢炎は重症化し、右の肺にまで炎症が波及し、胸水がたまった。外科的治療で命を取り留めた。しかし、その後肺炎を引き起こした。かなりの重症肺炎であった。さらに、Kさんは、いつ破裂してもおかしくない脳動脈瘤と、腹部大動脈瘤も持っていた。
重症肺炎で危篤に近いKさんの病状を聞くために、東京と大阪から長男と次男がかけつけていた。Kさんは80歳。高齢で合併症が多く、かなり厳しい状況であった。その説明の最中に、次男が言ったのが「天皇陛下のような治療を」という言葉だった。
天皇陛下のような治療とはどういうことだろう・・私が返答に困っていると、今度は長男が言った。「父のことを、ご自分のお父さんだと思って治療して下さい」それを聞いてほっとしたのを覚えている。それならば実現は可能であろう。次男はこう言いたかったのかも知れない。<父は特別な人間なのだから、特別な治療をしてくれ>と。
特別な治療をしようがしまいが、人の命の長さは神様によって既に決められているのではないだろうか。Kさんやその周囲の人々のその後の生き様、死に様を見てきた今、振り返るとそう思えてならないのだ。
Kさんには人工呼吸器が装着されたが、濃厚治療の結果、肺炎は回復した。1週間で人工呼吸器からも離脱でき、気管切開も行わずに済んだ。しかし、炎症による消耗性貧血のため輸血を行ったところ、副作用で全身の皮膚が真っ赤にただれてしまった。致死率90%以上と言われる輸血後GVHD(移植片対宿主病) と思われたが、肝障害は軽度にとどまり、重篤なのは皮膚症状のみであった。皮膚の赤みは次第に退いていき、やがて、色素沈着して全身の皮膚が今度は真っ黒になった。元々色白であったKさんの皮膚の変化を、奥さんは嘆いていたが、やがてKさんの黒くなった皮膚はボロボロと剥け始め、その下から元来の白い肌が顔をだした。まるで、蛇の脱皮のように全身の皮膚が剥け落ちると、Kさんの肌は生まれたての柔らかな白い肌に変わった。80歳にして目を瞠る再生能力であった。死の淵から甦ったKさんだが、残念なことに認知症は進んでしまっていた。
その後しばらくリハビリ入院を行っていたKさんは自宅へ戻ることになった。訪問診療、訪問看護、訪問リハビリのサービスを受けることになり、訪問診療は私が担当した。Kさんは、退院する頃には車イス移乗ができるようになり、平行棒内での歩行リハビリを行っていた。Kさんの奥さんは自宅でも同じリハビリができるようにと、平行棒を買い求めて自宅に備えた。Kさんは奥さんと二人暮らしだったが、住み込みの家政婦を雇って介護を手伝ってもらっていた。入院中もずっと病室に泊まり込んでいた年老いた家政婦さんのことを、Kさんは「おばあ!」と呼んでいた。
奥さんはいつもKさんのために愛情と栄養がたっぷりのミキサー食を作って食べさせていた。Kさんは甘いものが大好きで、主食はエンシュアリキットという甘い経口栄養剤とお粥を混ぜたものだった。退院してから、Kさんは丸々と太り、中性脂肪は採血するたびに高かった。食生活を改善するように指導しても、Kさんが食べたがる物は何でも食べさせたいと、奥さんは聞き入れなかった。Kさんの認知症は更に進行し、時折凶暴性を発揮したが、身体的には落ち着いた状態が続いた。
その後、私は異動のためにKさんの訪問診療を外れることになった。しかし、数年後にまた同じ病院に戻ることになり、再びKさんの担当になった。奥さんは私が戻ってきたことを大変喜んでくれて、Kさんに「ほら、あなたの命の恩人の先生がまた来てくださるのよ!」と照れくさいことを仰ったが、Kさんは私のことが分からない様子だった。
Kさんのご自宅の様子は何も変わっていなかったが、家政婦さんが入れ替わっていた。奥さんは私にこう囁いた。
「前の家政婦さんね、娘さんが自殺未遂で寝たきりになって、その介護をしないといけないからと辞められたのよ」
「まあ・・・」
人生は色々なことが起こる。生きるということは大変なことだ。新しい家政婦のOさんは、以前の家政婦よりも若くて、機敏で、よく働いた。しかし、Kさんからはやはり「おばあ!」と呼ばれていた。Kさんは、排尿障害のため、尿道バルーンカテーテルを留置されていた。カテーテルが入っているにも関わらず、Kさんは「おばあ、しっこ!」と叫び、すると、Oさんはいやな顔一つせず、「はい、トイレですね、社長」とKさんを車椅子に載せてトイレへ連れていくのだった。奥さんがそれを横目で見ながら「一日に50回くらいトイレへ行くんですよ」と言った。
「ええ!?50回も!それは大変」と、私は頻尿改善薬を勧めた。しかし奥さんはトイレへ連れて行けば気が済むのだからと同意しなかった。トイレから出てきたKさんは、今度は「おい、おばあ!うんち!」と言い、Oさんは「はいはい。社長」と、またトイレへ連れて行くのだった。
Kさんはしばしば熱が出て、食欲がなくなったが、奥さんは入院させるのを嫌がり、その都度在宅で輸液や抗生剤の点滴を行い治療した。針を刺されるのが大嫌いなKさんは、採血や点滴をするたびに大暴れしてそれはもう大変だった。奥さんとOさんがKさんを押さえつけて看護師が針を刺すのだが、看護師は何度Kさんから唾を吐きかけられたか分からない。
出会ったころはまだお元気だった奥さんも、Kさんと共にだんだんお年を召されていた。私が担当を外れていた時に心房細動と心不全を発症して入院されたそうで、その後は近所の循環器専門の開業医にかかっているようだった。Kさんの往診時に奥さんの身体の相談を受けることが多くなった。膝が痛くて歩けなくなったと、奥さん自身も外出するときは車椅子を使うようになった。Kさんと外出するときは社員に手伝ってもらい、車椅子2台で出かけるようになったそうだ。頑張って車椅子で新幹線に乗って旅行にでかけたことも聞かせていただいた。
Kさんは腹部大動脈瘤と脳動脈瘤を持っていたので、突然死もあり得るということを常々奥さんに話していたが、それらは破裂することもなく、Kさんは88歳になった。奥さんは「どうしても後2年は生きていてもらわないと・・」と言っていた。そうこうしているうちにKさんは90歳になった。それでも奥さんは「まだもう少し頑張ってもらわないと・・」と言っていた。
ある日、Kさんのお宅へ行くと、Oさんと違う家政婦がいた。Oさんはこれまでも休みを取って替わりの家政婦が来ていたことがあったので、今回もそうなのだろうと思ったのだが、奥さんの口から驚くことを聞いた。
「先生!Oさんね、交通事故で亡くなったの」
「ええっ!!」
「道路を歩いていて車にはねられて、即死だったって・・」
「そんな・・・」
本当に、人生はいつ何が起こるか分からないものである。あのキビキビと元気でよく働く家政婦さんの命が、一瞬のうちに失われるとは。
新しい住み込みの家政婦さんはなかなか見つからないようだった。家政婦派遣業者から交代で家政婦に来てもらっていたが、Kさんの1日50回のトイレに耐えられる人がおらず、3交代制になっていた。
奥さんはOさんがいなくなって本当に困ったと嘆いていた。奥さんがちょっと場を離れると、派遣されていた家政婦が近寄ってきて言った。
「先生、この人、夜中もずーっとウンチだのシッコだのって、これじゃあこっちの身体が持ちませんよ。ぐっすり眠らせるようなお薬出してもらえませんか」
そう言われても、睡眠剤を飲ませるかどうかは奥さんが決めることで、奥さんが睡眠剤は飲ませたくないと言うのだから、私には何ともできないのだった。このとき、私は家政婦Oさんの偉大さを改めて知った。
そんな折、Kさんの次男が事業に失敗して多額の借金を抱えてしまい、奥さんは大変心配され、悩んでいるご様子だった。家政婦も3交代制のままで、人件費がかさんで大変だと打ち明けて下さった。心労が重なったことが誘因になったのだろうか。訃報は突然だった。
ある朝、病院に出勤すると、奥さんのかかりつけの開業医から電話があり、奥さんが自宅で亡くなっていたと聞かされた。前の晩はいつもどおり休まれたのが、朝、起きてくるのが遅いため家政婦が部屋へ様子を見に行ったところ、パジャマ姿のままうつ伏せで倒れていたらしい。心房細動があったので血栓が飛んで脳塞栓を起こしたのかもしれない。あるいは他の原因だったのかも知れない。何にせよ、Kさんを残して奥さんの方が先に逝ってしまうなんて、思ってもみなかったことだ。ショックでしばらく呆然とした。
奥さんが亡くなった直後、Kさんは社会的入院をすることになった。入院してきたKさんはスタッフに悪態をつきまくり、暴力を振い、食事もほとんど食べなかった。奥さんのお葬式には参列したが、葬儀の間も前の人の頭を叩いたりしていたらしい。しかし、認知症のKさんも、奥さんの死は理解していたようだ。ある日、私が病室を訪ねると、Kさんはじっと壁を見つめ、「H子、H子がもういない・・」と奥さんの名を呼び、その瞳には涙がいっぱい溜まっていた。そんな年老いたKさんの姿は涙を誘わずにはいられなかった。
奥さんが亡くなり、自宅介護が困難となったKさんは施設に入所することになった。施設に入ると、長い間経過を診てきたKさんにもう会うことができなくなってしまった。家庭では奥さんや家政婦さんから王様のように大切にされてきたKさん、施設でどんな暮らしをしていたのだろうか。
施設に入ったKさんは誤嚥性肺炎を繰り返し、何度か私の病院に入院した。だんだん体力は衰え、食事量は減り、やせ細ってゆき、何度目かの入院の時に亡くなった。92歳。大往生だった。
Kさん、奥さん、家政婦Oさんのことを、今も本当に懐かしく思い出す。思いがけずに亡くなったOさんや奥さん、合併症をたくさん抱えながら一番長生きしたKさんのことを思うと、私には、神様が気まぐれに人の命の終わりを決めているように思えてならないのだ。最後になるが、心からご冥福をお祈りする。
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