春野ことり
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2008.06.28 23:45 |  診療  |  仕事 / 職場  |  連載  |  春野ことり  | 推薦数 : 5

末期の床に

「先生!」

 床上の彼女はうつろだった瞳をぱっと開いて、叫んだ。

「しばらく側にいて。寂しいから」

 老女の乾いた口から発せられる言葉は、ねっとりと湿り気を帯びていた。

 彼女がもっと元気だったころ、頻繁に見舞いに来て車椅子を押していた娘さんは、いよいよ母親が末期の床に伏せると何故か病院への足が遠のいた。回診に行っても娘の姿を見かけることはない。

「そばにいて」

 老婆は看護師や介護スタッフに懇願する。しかし、スタッフには彼女に付き添ってあげる時間的な余裕がない。

 ある年配の看護師が娘さんに「側にいてあげるとご本人も落ち着かれるようなので、なるべくついていてあげてください」と言ったのだそうだ。すると娘は「付き添いはできません」ときっぱりと答えたそうだ。

 

「痛くはない?苦しくはない?」

「痛くもないし、苦しくもない」

 誰が持ってきたのか、病室には美しい花が飾ってあった。しかし、老女の視界には入らない。横を向くことさえしんどい。

 

 壁にかけられた青い麻のジャケットは、もうすぐ主人を失うことを知っているだろうか。入院するときに着てきたジャケットに、彼女が袖を通すことは二度とない。

 

 「あの人は口調がきついの」以前は病室を訪れると、よくスタッフの態度をこぼしていたが、いよいよそれもなくなった。

 もうひと月以上、食事を口にしていない。抹消からの点滴が命綱。

 痛みは麻薬の貼付製剤でコントロールされ、表情から苦痛は感じ取れない。

「足の浮腫みが退きましたね」

「そう?」

腹水でパンパンになったお腹がじゃまして、自分の足を見ることはできない。

「でも、もうだめだわ」

絶望とは程遠い穏やかな顔で言う。

「もうだめだと思うの?」

「そう」

 

 そのとき、病室の窓からふわりと心地よい風が吹き込んだ。

「窓からいい風が入ってきますね」

「ええ、本当に」

 老女の手首の脈を取った。何日後かはわからないが、近いうちにこの脈は打つことをやめる。その時が来るまで、心臓は全身に血液を送り続ける。懸命に。

 

「気持ちいい風ね」

 

 風が気持ちいいと、末期の床で彼女は言った。その脈を取りながら、しばしの間、共に風を感じた。

 

 

 

 

なかのひと

 

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天国へのビザ 

 

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