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正常値を示す検査伝票を見せられて娘さんは叫んだ。
「そんなバカな!正常なんて、信じられない!」
どうやら「不信」という色眼鏡をかけてしまうと、白いものも黒くしか見えないようだ。
私は娘さんの反応に困惑しながらも、腫瘍マーカーというものは癌があったら必ず上がるものではないことを説明した。
しかし、その説明に娘さんが納得したのかどうかはわからない。ただ、聖人でも君子でも聖母マリアでもない普通の人間の私は、この時点でもうこの方とはお話ししたくないと思ってしまった。
「まだご質問はありますか?私も病棟の回診の途中なので、あまり時間が取れないものですから」
そっと言葉に棘を忍ばせたつもりだった。そもそも、事前にアポイントメントがあったわけでもなく、突然襲来されたのである。こちらの事情にも配慮してしかるべきだろう。
娘は検査データのコピーが欲しいと言った。後は事務員に託し、私は足早に病棟へ戻った。
歩きながら考えた。私はマモルさんに何か悪いことをしただろうか。娘から責められるようなことをしただろうか。
肝硬変になったという事実を告げ、マモルさんを気づかい、日常生活の指導をし、行うべき検査を勧めてきた。そして自覚症状のないうちに癌を発見し、しかるべき病院へ紹介した。
それでも娘はなぜもっと早く見つからなかったのかと言い、腫瘍マーカーの検査結果を見て「信じられない」と叫んだのである。
もしも一つでも行うべき検査が欠けていたら、私はどんな罵声を浴びせられたのだろう。
「死」や「病気」が「悪」ならば、それを防げない医者は皆「悪人」なのだろうか。
福島県立大野病院産婦人科で逮捕された加藤先生のことを思った。何の過失もないのに、妊婦が亡くなったという事実に基づき逮捕されたのである。
極論を言えば、「死」を受け入れられない遺族がいて、「不信」という色眼鏡を通して「医師が殺した」「医師が悪い」と思い込めば、警察への通報につながることはいくらでもあり得る。
現在、医療事故調査委員会の第3次試案が厚生労働省から提案されているが、そんなものが出来ても何の意味もなさない。4月22日の国会質疑において警察庁米田刑事局長は「遺族の方々には訴える権利があり、警察としては捜査する責務があり、捜査せざるを得ない」と答弁しているのだ。http://mric.tanaka.md/2008/04/28/_vol_52_1.html#more
このままでは命にかかわる診療科は絶滅するだろう。
「病気」は「悪」なのだろうか。
「死」は「悪」なのだろうか。
決してそうではない。「病気」も「死」もその人の一部分である。
以下は、日々是よろずER診療生と死は対立ではない
からの引用である。
荘子 内篇・太宗師篇では、荘子の死生観が語られている章があるのだが、そこには、こんなことが書いてある。
夫れ大塊我を乗するに形を以てし、我を労するに生を以てし、我を佚にするに老を以てし、我を息わしむるに死を以てす。故に吾が生を善しとする者は、乃ち吾が死を善しとする所以なり
その解釈は次の通り。
そもそも自然とは、我々を大地の上にのせるために肉体を与え、我々を労働させるために生を与え、我々を安楽にするにために老年をもたらし、我々を休息させるために死をもたらすものである。(生と死は、このように一続きのもの)だから、自分の生を善しと認めることは、つまりは、自分の死をも善しとしたことになるのである。(生と死との分別にとらわれて死を厭うのは、正しくない) 荘子第一冊 金谷 治 訳注 岩波文庫P184
今も思い出せるのは、ご自身の病気を受け入れて、こちらの説明に不安げな表情を見せながらもじっと耳を傾ける、優しい瞳をしたマモルさんである。
天に召されたマモルさんは、娘さんと私のやり取りをどんな想いで天国から見ていたただろう・・・。
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コメント
コメント一覧
言葉から受ける印象というものがあります。その言葉から想像される、本来の意味以外のものを感じ取る力が人間にはあります。
腫瘍マーカー、と聞けば『体内にがんが出来たら必ず数値が上昇するもの』というような印象を、なんとなく感じ取ってしまうのではないかと思います。
また『正常』という言葉も『がんは出来ていない』というようなイメージを与えるかもしれません。
腫瘍マーカーという言葉が一般の人にも知られているわりに、それがどういうものなのかまでを知ってる人は少ない。情報氾濫の中で、なにが正しいのか判断していくのは、難しいのでしょう。
azuki
~azukiさん、コメントありがとうございます。なるほど、一般の人の「腫瘍マーカー」という言葉への認識ってそんなものなのですね。
それを聞いて、この娘さんの「そんなバカな」という言葉が納得出来ました。てっきり「不信感」から出ている言葉と受け止めてしまいました。
患者と医師の間の溝ってこんなところから来るんだなあと、実感しております。
azukiさんのコメントがなかったら気づけなかったことです。気持ちがとても楽になりました。ここに書いてみてよかったです。
春野ことり
医学の進歩で永遠の命を手に入れられるまで、この手の問題は解決しないのでは?
政治の有り方、報道の仕方など問題山積ですね。
たぬくまぞうさん
~たぬくまぞうさん、こんにちは。コメントありがとうございます。医学の進歩が様々な弊害をもたらし始めていますね。
今の医療崩壊は神様の「もうこれ以上人間の生き死にを人間が勝手に操作するのはやめよ」という思し召しなのだろうか、と思うときがあります。
春野ことり
肝硬変から肝臓がんに至る過程での先生が取られた検査と治療は、ガイドラインどおりですので非難される点は一つもありません。
娘さんの言いがかりでしかないですね。
推測ですが、娘さんはお父さんである患者さんの病気(医者らしく疾患と言ったほうが良いかな)を知らず、かなり進んだ状況で始めて知ったことで、自責の念に駆られているのかもしれません。
自分を責める代わりに、主治医であった先生に難癖を付けているとも取れます。
マスコミが医療ミスでない患者の死亡(医学的に正当な治療を行った結果の死亡)をミスと書き立てることで、一般の人々が医師に偏見を持っていることも、娘さんのような患者家族を生む大きな要因だと思います。
また、直接は患者の看病をしたわけではない家族や第三者がたきつけることもあります。
医者がひるまずに毅然と対応すべきです。もちろん、病院も医者を守っていかねばなりませんね。
azukiさん。
腫瘍マーカーというのは、たぶん、日本語の造語だと思います(恐らく。違っていたらごめんなさい)。
医学的にはバイオマーカー(biomarker)が正しく、腫瘍関連のバイオマーカー=腫瘍マーカーとなったのでしょう。
悪性腫瘍なら、必ずバイオマーカーが上がり、バイオマーカーが基準値以内なら絶対に悪性ではない、と言うのが一般人の認識かもしれませんね。
鶴亀松五郎
~鶴亀松五郎先生、いつも的確なコメントありがとうございます。
>娘さんはお父さんである患者さんの病気を知らず、かなり進んだ状況で始めて知ったことで、自責の念に駆られているのかもしれません。
私も、そうかなと思いました。でもこちらに八つ当たりされても、困ります。些細なことですが、こういうことが医師にとって精神的疲弊につながることは確かですね。やはり、マスコミが何でも医療ミス、医療ミスと書き立てることがこういう家族を生む原因だと思います。
春野ことり
アポ無しって言うのも、その初心者のなせる技だったかもしれません。
病気に無縁でいると、病院のお作法には全然無知なんです。
勿論病気に対しても、医療に対しても・・・。
でも、ことり先生のむっとした気持ち、わかります。
医者だって人間なのに・・・心痛お察しします。
心、折らないで下さいね。
よろずER先生のあの記事も、読んでいてすごく納得でした。
マーボー
~マーボーさん、再びコメントありがとうございます。
そうですね。この娘さんは"病気初心者"なんでしょうね。そう思えばなんだか許せるような気がします。でも、世間の皆さんにはもうちょっと医療者に気遣いを持って欲しいところですね。
ま、気にせずがんばっています^^
よろずER診療の記事、いいでしょう。ぜひ紹介したくて、こじつけて載せました。
春野ことり
一生懸命、長年やってきた手法で検査をしていても、患者さん側の理解が間違っていると、訴訟にまで発展することがありうるのですね。
『くわばらくわばら』です。
なお、かつて病院勤務していたとき、飲酒によるウェルニッケコルサコフの患者さんを外来で診ていました。記憶障害のため、長年たずさわった工芸品の政策が全くできなくなっていました。ある年、たまたま検査した腫瘍マーカーが上昇していました。半年のうちにCEAとCA19-9だったと思いますが、正常上限の5〜10倍まで急上昇しました。焦った私は、奥さんに「癌の疑いがあります」とMTして、様々な検査の指示を出しました。検査入院もさせました。しかし、結局、何もみつかりませんでした。
その後1年ほどは徐々に検査値が下がってきたので安心しました。
ところがその翌年、また上昇。今度こそ,と検査をしましたが...
またしても何も見つかりませんでした。
その翌年には私がその病院を離れたので、その後はわかりません。
しかし、医者も戸惑う腫瘍マーカーの動きがあるのだ、ということを学習した次第です。 非医療者の方のご参考になれば♪〜
(長々とすみませんでした)
Doctor Takechan
~Doctor Takechan、コメントありがとうございます。
本当に、くわばら、くわばら、ですよね。
こちらがガイドラインに乗っ取って正しい治療を行っていても、結果だけで非難されたらたまらないです。
たしかに腫瘍マーカーって曲者ですね。
5~10倍上昇で何も見つからないという経験はさすがにないですが、2、3倍程度上昇で何も見つからないということはいくつかあった気がします。腫瘍マーカーだけ上昇して何も見つからないとすっきりしなくて気持ちが悪いものです。今はPET-CTがあるので数ミリの癌もわかるそうですが。それでまた見落としとかがあると、非難されそうだし。
何かと悩ましい時代ですね。
春野ことり
小さな会社だと社長の信用でもっているところが大なのだそうです。社長が亡くなると銀行は取引停止にしたり貸付金を返すよう迫るような話を聞きます。経営者はそれに備えて多額の経営者保険に加入すると聞きます。
亡くなった知り合いは、準備が整うまで(奥さんが経営のノウハウを覚えるまで)銀行に悟られないよう肺がんをひた隠しにしていました。
ako
~akoさん、こんにちは。コメントありがとうございます。
保険金が下りないとなると、死活問題ですね。娘さんが必死になるのも分かります。保険会社にデータを提出して納得してもらえればいいんですけどね。
心配なのは、この娘さんがうちのデータを持って死亡診断書を書いた医師のところへ「いい加減なことを書きおって!」と怒鳴りこみに行きやしないかということ。。。くわばらくわばら
春野ことり
B型肝炎なら肝炎の段階でも肝臓がんの発生はまれではないわけですし、先生の診療に何ら問題はないはずです。保険上の問題から突然病状把握という行動にでられたのは、すこし違和感を覚えます。通常家族内感染の予防のため近親者には説明があり、同時に経過観察の重要性とと肝硬変に進展した場合の肝癌発生は不可避であることも告知されているはず。突然の来院と詰問。動機が私には測りかねます。しかし大変でしたね・・・。心中お察しします。 敬具
kampapa
~kampapa先生、はじめまして。コメントありがとうございます。
この娘さんは嫁いでいった娘さんで同居していたわけではないので、家族内感染の予防のための説明などは受けていないものと思われます。私も途中からこの患者さんを診ていただけなので、全経過を知ってるわけではありません。
こういうことがあると、慢性肝炎や肝硬変の外来患者はすべて家族を呼び出して予後などについて説明しなければならないのだろうかと思いますが、こちらにはとてもそんな人的、時間的余裕はありません。食道静脈瘤が確認されている患者がフォローアップの胃カメラをどんなに勧めても拒否され、困ってご家族に電話したことはありますが、何度電話をかけてもつながらず、大変な手間でした。
春野ことり
肝細胞癌は画像診断のみで治療することが多いと思いますが、多くの腫瘍は生検して、初めて確定診断です。
多くの医師が経験するのは、
「腫瘍マーカー正常範囲内で癌が診断された」
そして逆もまた然り。
このことから、腫瘍マーカーは癌患者(←ここ重要)の所詮参考所見にしか過ぎないのです。癌のスクリーニングに採用されてないのも、対費用効果に乏しいからです。
この娘さんのように、腫瘍マーカーを過剰に信用する患者には、上記の例をお話しして、下記のように説明してます。
癌と診断されていない方にとって、腫瘍マーカーはアテにならない!!
今回は肝細胞癌なのではっきりとは申し上げられませんが、クレーマーと医療従事者側が感じても、やむを得ないでしょうね。
風はば
~風はば先生、お久しぶりです。コメントありがとうございます。
ええ、私もこのご家族はクレーマーなのかと思ってしまいました。ところが、一般の方の反応が「この娘さんの気持ちもわかる気がする」というもので、「腫瘍マーカーは癌があれば必ず上がるものだと思っている」方が多いことが分かりました。ブログ上でも「医師」と「患者」の間の隔たりを改めて感じました。でも勉強になってよかったです。
春野ことり
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