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立ち寄った書店で偶然手にした文庫本。
安達千夏 モルヒネ (クリックするとAmazonに飛びます。)
世の中に五万とある小説の中で、自分の感性と共鳴し心の琴線に触れる作品と出会うことは大切な人との出会いにも似て嬉しい。そんな小説のひとつである。
この作品は一貫して「死」を見つめている。随所に「死」にまつわるテーマが埋め込まれ、描かれる「死」は自死、尊厳死、安楽死にまで及ぶ。
著者の死生観が伝わってくる傑作だと思う。Amazonでの評価が低いのは、帯に「恋愛小説」と謳ってあるために「恋愛モノ」を期待して購入した読者にとっては期待はずれだったということのようだ。
私はこれは明らかに恋愛小説だと思う。透明な感性で描かれる主人公の恋人への恋情は痛いほどよく伝わる。ただ、ありきたりの薄っぺらな恋愛小説ではなく、「人は生まれてきて死ぬ」という人間の本質に深く切り込んだとても重い作品である。その生まれて死ぬ過程の中に恋愛があり、人は喜び、苦しみ、悲しむのである。
----あらすじ-----
母親の自殺、実の父による姉の虐待死、という悲惨な幼少時代を過ごした主人公 真紀は、常に死を見つめて生きてきた。真紀は自分が死ぬための薬物が手に入りやすいからという理由で医師となった。臨床医となり患者の死を看取る側に移った真紀は、自死する暇もなく多忙な毎日を過ごす。
そんな真紀の前に、過去の恋人ヒデが突然現れる。
ヒデは脳腫瘍の末期状態だった。ピアニストだったヒデは脳腫瘍による手の麻痺のためピアノを奪われていた。
ヒデは真紀に、致死量のモルヒネを静脈注射して安楽死させて欲しいと頼む。ヒデの出現に真紀は翻弄される
脇役として出てくる事務職員 坂本のエピソードがこの作品の重要な要素となっている。
坂本の妹は幼少時に水難事故で死んだ。坂本の父は意識の戻る見込みがなく人工呼吸器がつけられた娘の人工呼吸器を外して楽にしてやりたいと医者に頼んだ。しかし、母親は坂本に「呼吸器は外すべきではなかった。お父さんに押し切られて後悔している」と言い聞かせるようになった。
坂本の父は、坂本が中学生のとき、病に臥した。父は坂本に、「自分に延命措置はしないでくれ。そのように母親を説得してくれ」と何度も念押した。
しかし、その日がやってくると、母親が希望するとおり、父親には人工呼吸器がつけられた。坂本は「あのとき後悔したから」としがみついて泣く母を説得できなかった。
坂本は父の希望をかなえてあげられなかった自責の念を抱きながら生きている。
そして坂本の妻は坂本の尊厳死の意向に反対しているという。
坂本は言う。
ふたりの息子と自分のために、一分でも長く生きていてくれって言うんです。動けなくても、意識がなくても、ただいてくれたらいいって。どうやら僕は彼らから「もういいよ」と言って貰えるまで、どんな手を使ってでも、苦しくても、大脳の機能が失われたって、生き延びなきゃならないようです。
まあ、せいぜい、頑張りますか。
このように達観している人は現実には珍しいと思う。
実際、ほとんどの人は自分の死に際のことを真剣に考えることなく漠然と生き、ついにその日がやってきて家族や担当医の思うままに延命されているのである。
尊厳死を漠然と願っていても、ただ願っているだけでは実現は難しい。
私は医師としてそういう現実をたくさん見てきた。
最後に、この小説の中で最も共感する部分を抜粋して紹介を終わりにしたい。
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生まれるのは当事者の自由に任されてはいない。気がついたら生まれている。望んでいた筈はない。なぜなら、それ以前には、存在自体がどこにもなかった。いない者が、なにかを望みようがない。
生まれてしまったことは、押し付けられた災難だろうか。それとも、またとない好機到来と喜ぶべきか。意義はどうあれ、物心ついてみれば、時空に放り出されてしまっていたのだ。せいぜい悪あがきするしかない。
私が母です、私が父です、と巨大な生き物が言う。
ひっくり返った状態でろくに動けもしない赤ん坊は、とりあえず食べ物をねだる。やがて、食べるため環境に順応する。それが、生まれながら発揮できる能力のすべてで、環境の質はといえば様々だ。そして好きに選べない。
命の始まりが不随意なように、命の終わりも、個人の意思では左右できないだろうか。このような環境に生まれたかった、と臨むのは必ず遅すぎても、このように死にたい、と願うのは、これからでも充分間に合うのに。
天国へのビザ ←現役医師が尊厳死を描いた小説もよろしく(読みやすいと評判です)
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今回の記事を読んで、学生時代の先生が話していたことを思い出しました。
回復の見込みのない、植物状態の患者さんに二人の男の子のお子さんがいらして、お子さんたちはお話できないのが分かっていても毎日お母さんのところにやってきて、櫛で髪の毛をすいてあげていたそうです。そして、その髪の毛を大事に肌身離さず持っていた。
意識がなくても、家族にとってはそこにいてくれるだけで嬉しいものなのだ、というような話だったと思います。
今の私にはそれを100%支持することはできませんが…。
回復しないと分かっているご家族を看ることに疲れ果ててしまって優しい態度を取れなくなってしまう方もいらっしゃいますし、それもまた仕方ないことのようにも思いますし…。
誤解をうける言い方かもしれませんが、その家族のそれまでの関わり方が最後のときに如実に現れてしまうという現実があると思います。「生きてきたように死んでいくしかない」というか…。母親を看取ったときの経験を通してつくづくそうだな、と私は思いました。私の妹はもっと直截に「最後だけ取り繕おうとしてもムリ」と言いました。
「器械に繋がれていても、そこにいてくれるだけでいい」という思いから、「ここまでよく頑張ってくれた、頑張らせてしまった。ごめんね。もうゆっくりして、楽になってね。私たちのエゴに付き合ってくれてありがとう。」という思いに変化していく過程を医療者が意図的に誘導するのは違うかなとも思いますが、少しでも現実を受け入れる助けになれればそれでいいのかなとも思います。
いずれにしても人は一人で生きてきたわけではなく、家族などとの関わりのなかにいるわけで、そこには医療者であれ入り込めない部分もあるのではと感じています。
まとまりのない長文になってしまい申し訳ありませんでした。
遅レス、どうもすみません。
最近も慢性呼吸不全の重症肺炎患者さんに、ご家族が人工呼吸器をつけてほしいと言われ・・・この方の肺機能では人工呼吸器をつけるともう外せませんとお話しても、それでもいいから、一日でも長く・・・と言われてしまいました。
ご本人の意識がまだはっきりしておられたので、本人に確認したところ、人工呼吸器はやめてほしいと言われました。それを聞いて、ご家族も本人の意思を尊重してあげたいと気持ちを変えられました。
いよいよ状態が悪くなってしまうと、本人にも聞けませんので、お元気なうちに各患者さんに医療者側から聞いておく必要があるのだろうと思います。
>ミチバ先生、お久しぶrです。コメントありがとうございました。遅レス、すみません。
後期高齢者向けのパンフレットにそのようなことが書いてあるとは知りませんでした。本人が望まない延命治療をむやみに行わないことで、医療費の増加を抑制できると思います。
生協組合員の啓蒙活動、よろしくお願いいたします。
いざと言うとき、延命治療をしないように言葉で家族に頼んでいても文書がないと、結局は身内のかたの意見で人工呼吸器が装着されます。
それ(患者自身が望まなかった延命治療を行うこと)が、本当にご本人(患者)のためなのか、単に死を先伸ばししたい家族のエゴなのか、第三者から見ると判断が難しいですよね。
本人の意思に反したことでも、患者の家族の頼みなら、私も人工呼吸器を装着します。
尊厳死とは離れますが、欧州のいくつかの国では患者が脳死になった場合(欧州では脳死が人の死とされています)に、生前、患者が臓器移植に賛成の意思を表していた場合(言葉あるいは文書やドナーカード)には、家族が反対してもドナーとして臓器提供が可能になっています(欧州の全ての国ではありません)。
また、反対の意思表示をしていない場合(言葉あるいは文書やドナーカード)にも、原則的にドナーとして臓器提供の対象になります。
あくまでも、患者本人の意思を最優先させます。
欧州の多くは社会福祉国家で医療は手厚いですが、脳死となった場合、治療もそれで打ち切りとなります。
ドナー不足の解消という現実もありますが、日本とは価値観や生命観の違いがあるのでしょう。
鶴亀松五郎
~鶴亀松五郎先生、コメントありがとうございました。遅レス申し訳ありません。ご指摘の通りで、日本では本人の意思よりも家族の意見が重視されています。家族を説得させられなかったら、尊厳死は諦めるしかない、そういった状況を「モルヒネ」を描いた作家さんはよく踏まえられていると思いました。
春野ことり
非医療者です。患者家族の立場の者です。
数年前、父が77歳で癌で死ぬ末期にキーパーソンでした。
父は最期の最後まで、生に執着していました。異時性多重癌で、以前の癌では外科手術で助けていただいたにもかかわらず、その後の禁煙や禁酒といった医師の指示には従わず、医療不信の塊のような人で、検査であやしい結果が出ても嫌いな精密検査は断ったり、「もう手術は絶対イヤ」と言ったり、「今度病気になったら潔く死ぬ、何もしない」等々威勢のよいことを豪語していました。ところが、いざその時が来たら、もう間に合わないタイミングになってから治療をねだりました。
延命治療というのは、「時間をいただく」ことだと私は思っております。医療の進歩の恩恵にあずかって作っていただいた貴重な時間に、しかし父は、何をするでもなく、言い残すでもなく、ただ無為に過ごしました。(重病人に何をしろとも言えませんが。)
胸椎転移で下半身麻痺して寝たきりになり、IVHで生きる身体になりながら(経口摂取は可能でしたが、昔の癌治療で胃全摘していたため、充分な量を食べられませんでした)、病前の本人の発言とは全く逆に、意地汚いほどに生に執着しました。
死の3週間ほど前に、もはやsupportive careしかできない状況となり、主治医の先生と私が、終末期ケアをどうするか(抗不安薬をどこまで使うか、セデーションはどうするか、など)決めましたが、それでも本人にはもう治療を止めたということは隠しました。嘘は言いませんでしたが、例えば、点滴の色が変わったのは「薬の種類が変わったから」と言ったりして。
今、母が、脳梗塞後遺症で知能低下・失語症その他もろもろ(でも身体的麻痺は殆ど無く、歩けます)で要介護5に認定されている有料老人ホームでお世話になっていて、私が身元引受人です。母は医師の指示を守り、内科的コントロールは良好だったのですが、心房細動・糖尿病・高脂血症・高血圧というハイリスク四重奏にはかなわず、脳塞栓を起こして殆ど一夜にして要介護5の身体となりました。脳の損傷容積は100ccを越えています。食欲の認知も無くし、PEG栄養で生きています。
無理に長生きさせようとは思っていません。他の病気が疑われても、検査ですら、本人に負担の大きいものはお断りしています。しかし、近い将来に死ぬだろう、ということと、死ぬまでに苦しんでもよい、ということは全く別の話です。避けられる苦痛は、できる限り避けてやりたいと思います。だからインフルエンザや肺炎球菌の予防接種は受けさせましたし、体調を崩せば急性期病院に入院もさせています。
おそらく元気な頃の母親に訊いたら、「知能低下を来たしてまで生きていたくない」と言ったことでしょう。高齢でたくさんの病気持ちで回復不能の脳損傷を負った者に、限りある医療リソースを費やすこと、それ自体が問題でもありましょう。
しかし今、母は、公園に散歩に連れて行けば喜んで花を摘み、お風呂に入れば機嫌よく喋る残語が増え、テレビで漫才を見れば声を立てて笑うのです。病前の母は、亡くなった父に虐げられていた日々の恨み言を繰り返し、折り合いの悪い親戚の悪口を言い募り、世間が悪い、社会が悪いと不平不満の塊になっていた人でした。私の目には、今の母のほうが
幸せで穏やかに生きているように見えるのです。今の生活を1日でも長く続けさせてやりたいと思います。
QOLの悪い状態の老人をチューブで生き長らえさせるより、早く死なせてやれないものかという考えはわかります。
ただ、そういう考え方には、「そんな風にして生きることを老人本人は望んでいない」(はずだ)という暗黙の前提があるように思います。
この前提、本当でしょうか・・・? 本人でない私たちに決められることでしょうか?
すみません、ことり先生のサイトに楯突こうと書き込んでいるのではないのです。この人はなぜまだ死ねないのだろう、と感じるようなお年寄りを、非医療者の私でも何人か見ています。
ですから、一般論として、あるいは総論としては私も賛成なのですが・・・ しかし、元気な頃の発言とは裏腹に最期になって意地汚いほどに生に執着した父や、脳梗塞で要介護5でありながら病前より幸福そうににこにこしている母という圧倒的な各論を前にして、どうにも感じてしまう違和感を、どこかに書き記したかったのです。
私自身は、人は「死ねる時が来るまで、死ねない」と考えています。
貴重なご体験をコメントして頂き、ありがとうございました。英理杏さんのお父様のような患者さんも、お母様のような患者さんも、私は多く診てきています。
本人がどうして欲しいのかなんて、本人にしか分かりません。当然のことですね。だから、本人でない家族や医師には延命をするかどうか決めることができません。
私の言いたいことはつまりそれなのです。
しかし、実際は「本人の意思」ではなく「家族の意思」が尊重されているのが、現在の日本の終末期医療です。これは欧米諸国ではありえないことです。
「人は死ねる時が来るまで死ねない」
医療現場で働いているとよく分かります。実際そのとおりですよ。本人の意思にかかわらず、家族の希望によって延命されるのもその人の運命と思っています。
余談ですが、「天国へのビザ」の第2話に認知症の母と娘のお話を書きました。その登場人物と英理杏さんのお母様の様子が偶然にもよく似ているので、驚きました。
いきなり長文コメントを入れた私に、ご丁寧なお返事ありがとうございました。
>本人がどうして欲しいのかなんて、本人にしか分かりません。当然のことですね。だから、本人でない家族や医師には延命をするかどうか決めることができません。
>私の言いたいことはつまりそれなのです。
>しかし、実際は「本人の意思」ではなく「家族の意思」が尊重されているのが、現在の日本の終末期医療です。これは欧米諸国ではありえないことです。
申し訳ありません、「天国へのビザ」は未入手です。(当市の図書館には所蔵ありませんでした。u_u;;;)
でも先生のおっしゃりたいことはこのサイトでも良く伝わってきます。
私の言いたいのは、「本人の意思」なんて本人自身がわかっているとは限らない、ということです。(父のように気が変わるケースもあるわけですし。)ましてや他人(家族を含む)においてをや、です。
それでも赤の他人にその責任を負わせるわけには行かないから、私は家族として仕方なくやっていますが・・・、常にある種の後ろめたさを感じています。
意図を正しく読み取れていなかったようで、申し訳ありません。
>私の言いたいのは、「本人の意思」なんて本人自身がわかっているとは限らない、ということです。(父のように気が変わるケースもあるわけですし。)ましてや他人(家族を含む)においてをや、です。
医師の指示に従わず好き勝手に暮らし、「自分はいつ死んだっていいんだから」と言いながら、いざとなったら病院に助けを求めてすがる患者さん、よくいらっしゃいます。そういう方は、本心で「いつ死んでもいい」と言っているのではなく、現実から逃げているだけだと思います。
失礼を承知で申し上げると、元気な頃のお父様にLiving will(生前意思)を文書にして残しておくように勧めてもそうされたとは思えません。おそらく、「潔く死ぬ」というのは本心ではないからです。
心から「延命しないで欲しい」という方は、死に際も潔いものです。
「本人の意思だって変わっているかも知れないじゃないか」
というのは尊厳死反対論者の方がよく言われることです。
そうかも知れません。しかし、そんなことは分からないことです。分からないから延命するというのはおかしな考えではないでしょうか。もし意思が変わっていなかったら、その人の尊厳がないがしろにされてしまうのです。
意思の疎通が取れなくなった時点の本人の意思が分からなければ、少なくとも「分かっていた時点」の意志が尊重されるべきではないかと私は思います。
最後に、
「天国へのビザ」よろしければ図書館にリクエストしてみてください。たいていどこの図書館でもリクエストすれば応じてくれるようです。
ぜひ、第2話「残像」のご感想をお聞きしたいです。
もっとも、現実は小説のように簡単にはいきませんけれど。
>意思の疎通が取れなくなった時点の本人の意思が分から
>なければ、少なくとも「分かっていた時点」の意志が尊重さ
>れるべきではないかと私は思います。
私も同感です。
遺言状に例えると・・元気で自分の意思をハッキリと表明できるときに、自分が亡くなったあとの財産の分与法などを弁護士の同席のもとに作成して遺言状とします。
遺言状は弁護士が保管して、葬儀がすんだ後に家族に内容を公表します。
遺言状を作成して弁護士に預けた後に、病状が進んで意思を表明できなくなったとしても、元気なうちに書かれた遺言状は法的には有効です。
遺言状の内容が、その後の本人の病状や意思疎通の経過に関わらず法的に根拠があるとされるのなら、延命治療の拒否や尊厳死の表明も当然、元気なうちの意思表示として有効であると解釈しなければなりません。
前にも書きましたが、特に西ヨーロッパ各国が、臓器移植の際の脳死判定後(欧州では脳死は一律に人の死とされています)に、本人がドナーとして臓器を提供することに賛成しているか(opt in方式)あるいは提供拒否の表明をしていない(opt out方式)ならば、家族の反対があっても臓器を提供できる制度を導入していることは、本人の意思を第一に尊重することを意味しています。
延命治療の拒否、尊厳死も表明も同じだと思います。
鶴亀松五郎
~鶴亀松五郎先生、いつも勉強になるコメントをありがとうございます。
>遺言状の内容が、その後の本人の病状や意思疎通の経過に関わらず法的に根拠があるとされるのなら、延命治療の拒否や尊厳死の表明も当然、元気なうちの意思表示として有効であると解釈しなければなりません。
本当に仰る通りだと私も思います。
臓器移植も、尊厳死も、諸外国に倣って、本人の意思が尊重されるべきです。
春野ことり
>失礼を承知で申し上げると、元気な頃のお父様にLiving will(生前意思)を文書にして残しておくように勧めてもそうされたとは思えません。おそらく、「潔く死ぬ」というのは本心ではないからです。
はい、私もそう思っていました。ただ、父本人は、意思表示できるうちは決して認めなかったでしょうが。
実際のところ、父は法律家でありながら、遺言書どころか何も書き残さず言い残さず、おかげで死後にとんでもない法的トラブルまで相続するはめになりました。living will以前に、現実逃避のためにすべてを先送りしたまま死にました。
最初にも申しましたが、私はことり先生のサイトのご趣旨に楯突こうというつもりはないのです。
>分からないから延命するというのはおかしな考えではないでしょうか。
はい、賛成です。
ただ、「わからないから延命しない」も論理的には同じことでしょう? 父のように1分1秒でも生き続けたい(でも、もう意思表示できない)人について、家族が延命しないと決めるのもおかしな話ではありませんか?(心マも挿管もしない、と決めたのは私です。事前に決め忘れていた昇圧剤は、主治医の先生がお使いになりました。母についても、心マも挿管も昇圧剤も無し、と主治医の先生にお伝えしてあります。)
私が違和感を感じてしまう、と書いたのはその点=本人の意思がわからないのに延命するのが問題であるならば、わからないのに延命しないのもやはり問題ではないのか? 両者の差はどこにあるのか?=です。
鶴亀松五郎先生
遺言状なりなんなり、本人が有効な書面を書いたならば、そのあとで気が変わろうとも本人の責任だと思います。
けれど、そのような意思表示のないまま、本人の希望が周囲には「わからない」状態になったとき、延命するもしないも周囲が勝手に決めていることに変わりはありませんでしょう? 延命しないことが正しくて、延命することが間違っているわけではなく、どちらも同等なことではありませんか。
>私が違和感を感じてしまう、と書いたのはその点=本人の意思がわからないのに延命するのが問題であるならば、わからないのに延命しないのもやはり問題ではないのか? 両者の差はどこにあるのか?=です。
それでは、英理杏さんは本人の意思が分からない場合、どうしたらよいとお考えでしょうか?
何度も書きますが、たとえ意思の疎通が取れなくなった時点の本人の意思が分からなくとも、少なくとも「意思の疎通ができていた時点の意志」が尊重されるべきではないかと私は思います。
英理杏さんのご意見では、延命する選択も延命しない選択もどちらもできなくなります。
ちなみに、お父様の場合は、死の直前の意思の疎通が取れていた時点で「1分1秒でも長く生きたい」という意思表示がはっきりしていたのであれば、その通りにして差し上げればよいと思いますが。
ただし、医師の指示に従わず自己管理を怠り「潔く死んでやる」と豪語していた方が、自己責任で病状が悪化したとたんに「やっぱり1分1秒でも長く生きたい」と考えを変え、積極的治療を求められた場合、現時点では医療者は見放すことなく手を差し伸べていますが、この先はこういうことが許される時代ではなくなると思います。なにせ、財政的にも、人材的にも医療資源が枯渇し始めているのですから。
お父様の場合は、本人が元気なころ延命治療はしてほしくないと仰っていたのに、いざとなったら延命に拘る態度をしますようになった・・・その場合は、もしかしたらメンタルな面で昔の自分の考えや発言を忘れてしまっているだけなのかもしれません。あるいは、延命治療を本当はしてほしかったが、娘さんに負担をかけたくないという親ごころで延命治療を望まないと言っていたものの、病状の進行がメンタル面にも影響がでて隠していた本心がでた、とも取れます。
ご本人が延命に拘る姿勢を取っているのなら、尊厳死のようなことはできませんが、一般的な治療は行います。
ただし、悪性腫瘍の末期の患者に人工呼吸器を装着することはしません。
呼吸器の装着は、治療効果がないことがわかっているので、欧米のガイドラインでは人工呼吸器の装着の適応とはなっていません。
日本の場合、ほとんどの場合、医師からの説明に家族が納得して人工呼吸器の装着はしませんが、特別な事情(家族が遠方にい病院に到着するまでに、間に合わないなど、医師側の配慮)がある場合は、装着することもあります。
日本では、その点があいまいで、かつ公的医療の治療費への制限がなく、欧米ではやらない延命治療が行われることがあります。
お父様の場合は、欧米なら積極的な医療を行わず最後のときを安らかに迎えられるような緩和ケアが中心のホスピスケアの対象です。
日本ではホスピスが少なく、癌の末期の患者でも、一般病院に入院することが多く、また公的医療のコストの考え方がゆ緩いことが、欧米とは違った治療内容を取っているのでしょう。
ただ、一般病院であっても、ほとんどの場合は、日本でも緩和ケアになります。
>どちらも同等なことではありませんか
同等ではありません。
文書で書かなくても、本人が延命治療をしてほしい、あるいはしてほしくない、のいずれかの意思表示を家族や親しい人に言っている場合には、文書で書いたものと同じ意味を持ちます。
それはヨーロッパ(北アメリカやオセアニア)の考えかたで、presumed consentと呼ばれます。例えば臓器移植の際にドナーとしての臓器提供を行うかどうかの決定に使われます。
日本の場合、言葉だけだめでドナーカードを持っていないと臓器が提供できません(日本に特殊な事情で、臓器移植が進まない原因の一つです)。
(わたしは内科医なので、外科医が臓器提供してほしさにそういうことを言っているのではと、誤解されないように)
延命治療の受け入れについても同じ考え方をします。
欧米の場合、本人がはっきり意思表示を言葉でしていたにも関わらず、それに反する治療を行った場合には原則的にpresumed consentに反する行為と取られます。
医療費の請求の時に公的医療費をカットされて、ある時点から先の医療費が全額自費になる場合もあります。
日本は、このあたりが欧米に較べると緩やかや対応になりますね。
温かみがある医療ととるか、医療コストの無駄づかいととるか、判断は分かれますが。
いまはともかく、欧米並みに(福祉国家で国民に暖かい医療のヨーロッパ連合各国でもそうです)、将来的にはそれは許されない時代がくると思います。
そのまえに日本では、末期の癌の患者や、神経疾患などで、治療の限界がきて、安らかな最後のときを迎えられるような緩和ケアをもっと充実しなければなりません。
そのために、国が出す公的医療費をもっと増額しなければなりません。
私の舌足らずなところをすべて補っていただき、ありがとうございました。
>日本では、末期の癌の患者や、神経疾患などで、治療の限界がきて、安らかな最後のときを迎えられるような緩和ケアをもっと充実しなければなりません。
そのために、国が出す公的医療費をもっと増額しなければなりません。
本当に仰る通りです。
>それでは、英理杏さんは本人の意思が分からない場合、どうしたらよいとお考えでしょうか?
お答えする前に、本人が尊厳死や延命可否の意思を通したい場合。living willなり公正証書遺言書なり書面を残し、かつそれを確実に執行してくれると信用できる人に託しておく(公正証書遺言でも、そういうものがあることを周囲の人が知っていなくてはなりません)必要がありましょう。本人が生前どんなことを言っていたとしても、そのとおりにしようという家族ばかりではありません。
本人が上記のような手立てを講じないまま意思の疎通ができない状態になったら・・・、その時点で本人の自己決定権は失われ、誰かに決定権が移行する、と私は考えております。「誰か」は殆どの場合家族でしょう。以後は、その「誰か」の価値観の問題であると思います。
本人が生前に言っていたことを思い出したり忖度したりするか、しないか。本人の言葉を思い出したり、性格から類推したとして、それにそう行動を取るか、取らないか。それらすべて、決定権を受け取ってしまった「誰か」の価値観によると思っています。
誰もそんな決定権を引き受けたくはありません。権利には責任が伴いますから。家族だって(時に本人だって)わかっていないことの決断を下すことの責任など、本来取りようがないものなのに、本人が決定能力を失った瞬間に漏れなくついて来るんです。
逃げる家族も多いですよね。私など、逃げ損ねただけかもしれません。
家族関係者全員が逃げ出して、他人であるお医者様が決定せざるを得ないお立場に立たれるケースもあるかと存じます。堂々とご自身の価値観に従われればよろしいと私は思います。
私は20年ほど前アメリカで暮らしていたので、米国流のインフォームドコンセント(実は訴訟予防策?)も経験しました。父のときは本人の希望する保険外診療を受けるために、自費の別クリニックの併用などもいたしました。母は昨今の厚労省の方針をもろにかぶり(回復期リハの日数制限、療養病床の医療区分・ADL区分、後期高齢者制度)、それをくぐり抜けるために、「自費」だの「医療法人さんへの寄付」だのあの手この手を使いました。ですから、鶴亀先生やことり先生がお書きになったいろいろな論点についても申し上げたいことはございますが、余談になりますので控えます。
>逃げる家族も多いですよね。私など、逃げ損ねただけかもしれません。
わたしは、そうは思いません。
あなたは逃げずに、現実を受け止めて。しっかりと決断なさったのだと受け取っています。
心臓マッサージ、人工呼吸器の装着は行わずとも、点滴(IVH)や酸素吸入まではお父様の治療手段として、選択し決断されました。
迷って迷って、会うたびに前言を翻して、スタッフを混乱させるご家族も実際にはいらっしゃるのです。
決断されるまでは、ずいぶん悩まれたかもしれませんが、あなたの決断は正しいと思いますよ。
また、医者が末期の患者の家族に代わって延命治療の決断をることは殆どありません。
あくまで、家族のかたの決断次第です。
お身内が誰ひとりいらっしゃらずにお一人ぐらしの患者のかた、あるいは家族はいても患者さん本人とは関わりたくないし、亡くなっても引き取らないとはっきり仰るご家族が、時々おられます。
そういうときだけは、医者が決断します。
わたしが以前に働いていたのはpresumed consentの制度が法的に整備されている欧州の国でしたので、あくまで本人の元気なころの意思で延命治療が決められていました(前にも書きましたが、臓器移植の際のドナー臓器の提供にも当てはまります)。
西ヨーロッパや北欧の国々は、だいたいが似たような制度だと記憶しております。
またこれらの国々では、死の受容や延命治療の是非、臓器移植の実際などが、学校教育でも、行われています。
成人した国民の、延命治療や臓器移植への理解度が日本よりも各段に高いのです(もちろん、例外はあります)。
日本人は、昔は病院で死ぬよりも自宅で家族に看取られて、かかりつけ医の開業医が死亡診断書を書くことが多かったと思います。
死というものを真近に見ていたので、家族の死の受容も延命治療への認識もあったのでしょう。
いまは、病気になれば則入院、核家族で、たまに家族が見舞いにくるだけ、という状況が多くなっています。
どうしたらよいかわからない、とりあえず人工呼吸器はつけてもらって死を先延ばしすればよい、くらいしか考えなれないのも仕方ないのかもしれません。
お返事がおそくなってすみません。
英理杏さんはご両親の終末期の決定権を委ねられ、大変な重荷に感じていらっしゃるのだろうと思います。それはそうでしょう。よほど冷血でない限り、誰も重荷に感じない人間はいないと思いますよ。実際私自身も、自分の親の決定権を委ねられたらどうしていいものか迷うかもしれません。ただ、自分は色々な人たちの終末期を見てきているので、一般の方よりは冷静な判断が下せるのではないかなと思ってはいます。
結局は英理杏さんが最初のコメントの書かれた「人は死ねる時が来るまで、死ねない」という言葉に尽きると思います。
「尊厳死」とは、生命を意図的に短縮するものではなく、終末期も一生懸命生き、死の時期を単に引き延ばすにすぎない延命措置を自己決定権として拒否し、自然死を求めることです。「死ねる時」が来るまでは、一生懸命生きてもらわないといけないのです。
鶴亀先生がおっしゃるように、本人の意思が明らかな場合なら、迷うことはないのです。今の日本ではそうでない場合が多いから、問題が生じるのでしょう。
本人が希望を表明していなかった場合、本人の本当の意思なんて「家族にもわからない」んですよ。(「寝たきりになってまで生きたくない」と言っていた同じ人が、「自分は、病気になったら最後の最後まで闘う」とも言っていたりするんですよ。最新発言をどうやって特定します?)「わからない」なら、少なくとも現状維持すれば状態を変化させたことの責任は取らずにすむ、と考える方もいらっしゃるでしょう。それを肯定するわけではありませんが。
「本人の意思」がわからないにもかかわらず「本人の意思」に拘ろうとすると、延命するともしないとも誰にも決められないことになります。
打開策は、「本人の意思」に拘ることをやめるしかありませんでしょう?自分の意思を明らかに残さなかったのは、本人の責任。だから拘るのはやめて、責任を引き受けた人の意思に従えばいいではありませんか。・・・と私が考えるに至ったのは、実は自分の立場を自分で肯定するための言い訳に過ぎないのかもしれませんが。
父は私がキーパーソンを務めることを望んでいませんでした。父本人は息子を頼りにしていたのですが、その息子は土日も見舞いに来ないので困った主治医の先生が、私にお電話をくださって結局私がその役になりました。家族の中では一番遠いところに住んでいるというのに。また両親と私とは、医療問題に限らず、考え方も行動パターンも全く異なっていました。だから、私の選択する方法は両親が選ぶであろうものとはきっと違うという確信があります。それでも降りかかった決定権を引き受けざるを得ないのです。ことり先生のおっしゃる重圧感を私が感じているのだとしたら、それは、両親と私では考え方に齟齬があると私が知っていることに起因するものでしょう。親の気持ちと一致していると自信のある家族は、もう少し楽に決定を下されると思います。
ところで、先生方に質問です。「痴呆になってまで生きていたくない」と言っていた人が重度の認知症になったとして、その患者の肉体的な病気は治療なさいますか?大手術を受けるかという話ではなく、糖尿病とか高血圧とかの日常管理の治療ですが。
>>拘るのはやめて、責任を引き受けた人の意思に従えばいいではありませんか
仰るとおりだと思います。最終的には家族の誰かが決断しなければならないのです。
人によっては、損な役周りかも取るかたもいらっしゃるかもしれませんが。
そのこと(決断内容)で他の誰かが責めたとしても、他の誰かと言うのは大抵の場合、熱心に見舞いに来たりするタイプの人ではないことが多々あります。
英理杏さんが、悩まれた末に決断なさったことは、間違っていないですよ。
>>先生方に質問です。「痴呆になってまで生きていたくない」と言っていた人が重度の認知症になったとして、その患者の肉体的な病気は治療なさいますか?
一般的な話として。
認知症になるのは患者本人の意思ではありませんから、必要な治療は致します。
重度の認知症の患者は合併症の有無でいわゆる老健にはいるか、療養型病棟に入るかのいずれかでしょう。
外科的な治療はしませんが、脳梗塞や脳出血の後遺症、糖尿病や高血圧、不整脈、消化器疾患、呼吸器疾患といった内科的な治療は致します。
何もしなければ尊厳死と同じです。何も治療をしない患者が病院に入院する必要はなく、自宅で家族や訪問ナースのケアを受けて看取ることがベストです(家族がいない、あるいは家族が負担に思うなら、然るべき施設入所となります)。
尊厳死でないのなら日本の老健でも、嘱託医がいて、最大限の治療ではなくとも、必要最小限度の治療(どの程度まで治療するかは家族と相談、家族がいなければ嘱託医の判断)を受けて頂きます。療養型病棟なら、そこの主治医と家族との相談になります。
いよいよターミナルとなれば、投薬等の提供する治療内容をストップするか、せいぜい維持輸液くらいです。
私の病院は急性期病院(東京23区)なので、重度の認知症の患者が入院してくるのは老健からの紹介患者が殆どです。
状態が安定すれば再び老健に戻るし、難しい場合は療養型病院に転院となります。
メディカル・ソーシャル・ワーカーが間に入って調整します。
お返事ありがとうございました。
内科的な治療はなさるのが一般的なのですね。
私の母を実家近くの病院から拙宅近くの有料老人ホームへ連れてきたために、長年の主治医だった先生や命を助けていただいた先生から離れなくてはならず、新しく日常のプライマリケアをお願いするお医者様を探した際に、何人かの先生に断わられるという経験をいたしました。いざという時の入院先は手配済みで、ふだんの全身管理をしてくださる近所のお医者様を探していたのですが。(老人ホームに住んでいる痴呆の年寄りはなかなか入院させてもらえないことがある、と聞いておりましたので。)
当時は、とにかく信頼できるお医者様に巡り会うまで必死で、お断りになった先生方のことは以後忘れておりました。が、こちらのサイトを読んでいて、ひょっとして「こういう年寄りは早く死なせてやったほうがいい」という厚労省的な考え方をなさるお医者様は多いの?という気がしたもので、お尋ねしてみました。
お忙しいところお返事いただき、ありがとうございました。
>春野ことり先生
「モルヒネ」本日入手しました。これから読んでみます。「天国へのビザ」は手違いで、遅れて届くことになりました。読了したら、また参ります。長々とスレッドを続けて申し訳ありませんでした。
やっと、英理杏さんの言いたいことが分かってきました。
認知症のお母様のプライマリーケアを何人かの先生に断られたということですが、これは私も理解しかねます。一般的には、たとえ認知症であってもプライマリーケアは行います。断る理由がよくわかりませんが、認知症だからという理由ではなく、その頼んだ医師の外来がもう手一杯でこれ以上新しい患者さんを診ることができないとか、そういう理由ではないでしょうか?
老人ホームにも色々ありますが、お母様の状態では特別養護老人ホームでないと管理は難しいのではないかと思います。特別養護老人ホームであれば、高血圧、糖尿病などの持病は治療されるはずです。
>「こういう年寄りは早く死なせてやったほうがいい」という厚労省的な考え方をなさるお医者様は多いの?
決して早く死なせた方がいいとは思っていません。何度も書きますが、「尊厳死」とは、生命を意図的に短縮するものではなく、終末期も一生懸命生き、死の時期を単に引き延ばすにすぎない延命措置を自己決定権として拒否し、自然死を求めることです。「死ねる時」が来るまでは、一生懸命生きてもらわないといけないのです。
それから、最後になりますが、「天国へのビザ」をお求めいただいたとのこと、まことに有難うございます。忌憚ないご意見をお聞かせいただければ幸いです。
天国へのビザのご感想、まことにありがとうございました。
コメントを載せるとあらすじのネタばれになってしまうので、非公開としております。後に個人的にメールをしたいと思っております。
まずはお礼を述べさせていただきます。
ネタばれコメントになってしまうとのこと、配慮不足で申し訳ありませんでした。抽象的な表現でお読みになる方に理解していただけるように書くだけの文章力がありませんで、あのようにしか書けませんでした。
「天国へのビザ」への感想のみ天国へのビザカテゴリーのエントリへのレスにして、「モルヒネ」の感想と先生へのレスはこちらのスレッドに分けて入れたことが、私にできる精一杯のことでした。(「モルヒネ」に関しては、このスレッドの元記事以上のネタばれは書かなかったつもりです。)
英理杏
~英理杏さん、いえいえ。お気になさらないでください。
抽象的なご感想はなかなか難しいかと思います。
お返事のメール送りましたので
春野ことり
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