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2008.02.25 23:25 |  診療  |  仕事 / 職場  |  連載  |  春野ことり  | 推薦数 : 3

格子戸を開けて①

 数年前から80代の文代さん(仮名)の訪問診療を担当しています。

 文代さんはご主人に先立たれて一人暮らしです。息子さん夫婦は近くに住んでいますが、同居はしていません。

 文代さんの家は古い家で、玄関の扉は格子戸です。呼び鈴はありません。私はいつも、鍵がかかっていない格子戸をガラガラッと開けて、

「こんにちはー!文代さん。○○病院ですー。おじゃましますよー」

と大きな声で言うと、返事を待たずに勝手にヅカヅカと家に上がります。

 文代さんはいつも奥の部屋で横になっています。冬はダウンベストを着てこたつに入って、夏は木綿のワンピース1枚でベッドの上で扇風機の風に当たっています。

私が入っていくと、文代さんは即座に起き上がります。

「先生、よう来てくださった。先生、ようこんな汚い所へ来てくださった。ありがたい、ありがたい」

 文代さんは私の前に正座をすると、手を合わせます。そして、いつも泣き始めます。

「先生、よう来てくださった、よう来てくださった・・・ううう」

 文代さんは認知症です。ケアマネージャーやソーシャルワーカーなどが息子さんに文代さんを施設に入れることを勧めても、息子さんは施設に入れると認知症がひどくなると決めつけ、同意しないのだそうです。

 毎日、ヘルパーが文代さんの食事の支度をしに来る他、訪問看護やデイサービスなど色々な福祉サービスが介入し、何とか一人暮らしを続けられています。

 私は月に2回文代さんの訪問診療を行っています。

私が行くと文代さんはいつも寂しい、寂しいと言って泣きます。

「先生、うちは男の子しかおらんから、寂しいのや。男の子は話し相手になってくれんし」

「そうですか。うちも男の子しかいないんですよ。」

「ほう!そうかね。先生のところも男の子しかおらんのかね」

毎回同じ会話をするのですが、認知症の文代さんはいつも初めて聞くようなリアクションをします。

「いつも息子から叱られる。もっとしっかりせなあかんって」

 息子さんは詳しくは書けませんが、立派な肩書を持つ方です。

 

「寂しい、寂しい。早く逝きたい。いつになったら死ねるんやろうか」

文代さんはいつもこう言って泣きます。

息子さん夫婦と一緒には住まないのかと聞くと、

「嫁も仕事をしているから、同居しても昼間は一人なんや。それやったら、慣れたこの家におる方がいいんや」

と答えます。

 

 文代さんの診察を終えて帰るまでには、いくつかの儀式があります。

まず、文代さんは財布から2千円を取り出して私の手に握らせようとします。金額はいつも2千円と決めているようです。

1回の訪問診療の自己負担金は五百円です。私が「おうちの人からちゃんといただいていますから」と断ると、文代さんは怖い顔でこう言います。

「これは先生たちのお茶代や!」

 文代さんは、お金を受け取るまで私と看護師を絶対に帰してくれないので、無駄な抵抗をやめて、「ありがとうございます」とすんなり受取ることにしています。お金は事務の会計に預けて、ご家族が医療費の清算に来た時に返してもらいます。

 一度、文代さんのお財布に1万円札しか入っていなかったことがありました。文代さんは1万円札を私の手に握らせてきました。要らないと言っても、文代さんは絶対に引き下がりません。どうせご家族に返すのだからと、私は1万円を「ありがとうございます」と頭を下げていただき、病院に帰った後、いつものように会計に預けました。

 その後しばらくして、文代さんが押し車を押して歩いて病院までやってきたそうなのです。そして、「さっきの1万円を返してくれ」と看護師に言ったそうです。事情を知っている看護師は、会計に預けた1万円札を文代さんに返すと、文代さんはまた歩いて帰って行ったそうです。文代さんの家から病院まで、文代さんの足では20分はかかるでしょう。日ごろ歩かないけれど、目的のためには歩けてしまう。これも、認知症のなせる業です。

 さて、診療後の儀式に戻りますと、文代さんは私にいつもの2千円を握らせた後、いつも玄関まで見送ってくれます。そして、

「先生、私を見捨てんと、また来てください、お願いします。お願いします」

と言って頭を床に擦りつけてひれ伏します。

私は、見捨てるわけないでしょう、また来ますよ。顔を上げてください、と言います。

玄関を出て車まで歩き出すと、文代さんは、これまたサッシではなく木枠の窓ガラスをガラガラッと開け、私と看護師に手を振ります。その手の振り方といえば、昭和天皇が一般参賀のときに、ベランダから手を振っていた姿にそっくりなのです。私たちの乗った車が去るまで、文代さんは窓からずっと手を振り続けます。

 

もう何年も変わることなくこの儀式を続けています。

ところが、ある日・・・

 

 

つづく

 

なかのひと

 

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