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2006.11.23 03:42 |  診療  |  映画 / 音楽 / 読書  |  その他(医療関連)  |  春野ことり  | 推薦数 : 0

9.最期の時の約束

「先生にお願いがあります。」

源次郎が突然言った。

「なんでしょう。」

 源次郎がとても真剣な顔付きをしていたので、麻子の頬の筋肉もおのずと引き締まった。

「もしもの場合、私に延命措置は一切しないで頂きたい。」

麻子は唐突な申し出に少々とまどったが、源次郎の意を決したと言うような真っ直ぐな瞳をみつめると、こう言った。

「わかりました。文章にして持っていていただくと誰が見てもわかるので、そういうものを作っておかれたほうがいいでしょう。」

いつものように、秀子が源次郎の言葉を補足した。

「この人、絶対に麻子先生に死水を取ってもらうんだって、いつも言ってるんですよ。本当に先生が頼りなんです。親子以上に歳が離れているというのに・・。」

 麻子の父親は、麻子が幼少のときに亡くなっていた。麻子は無意識に、自分の父親が生きていたらこんな感じなのだろうかと、源次郎に父親像を重ねていたのだった。実際は、源次郎は麻子の父親よりも一回り年上だったし、源次郎の実の娘といえば、麻子よりも十五歳年上で、高校生の息子がいた。

「わかりました。もしもの場合、必ず私を呼んでください。いつでも駆けつけますからね。必ず、私が山脇さんの死水を取ります。」

こうして、源次郎の最期のときの約束が交わされたが、源次郎の腫瘍は悪性と決まったわけではなく、良性のものであれば、まだ生命予後は長いはずであった。しかし、源次郎の体力が日に日に下降していることは確かだった。

もし、ここで麻子が「何をおっしゃいますか。山脇さんはまだまだそんなこと考えなくてもいいんですよ。」などという卑怯で無責任な言葉を発したなら、源次郎はひどく落胆しただろう。自分に対してストレートに投げられた球はきちんと受け止めて真っ直ぐに相手に投げ返す。これは麻子が臨床医としての経験から身につけた礼儀のひとつである。

麻子の「必ず死水を取る」という言葉は、この上なく源次郎を安堵させた。源次郎はその日から毎晩その言葉を反芻し、おかげで安らかな眠りに就くことができた。麻子の言葉がそれほどの力を持つとは、そのとき麻子自身も気づいてはいなかったが。

 

源次郎は七十五歳、麻子は三十四歳、二人の付き合いはもう十年になっていた。

  

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http://item.rakuten.co.jp/book/4162852/

 

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