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あけましておめでとうございます
昨年ほとんど更新していなかったこのブログですが、気がついたら250万アクセス超えていました。
年末に、なんと5か月ぶりに更新したのですが、m3のピックアップブログにのせていただき,右下がりだったアクセス数がまた上向きに・・・
ほとんど更新してないのにすみません。恐縮です。
言い訳をすると、日常が忙しくて・・・というより更新する気がおこらなかったというか・・・正直言うと気持がブログから離れてしまい・・・
以前はどうしてあんなにせっせと睡眠時間を削ってまで更新していたんだろう・・・?って不思議に思うようになっていました。
ここ半年ぐらい他の医療系ブログにもほとんどアクセスせず、自分のブログのことも全く忘れていたという状態でした。
というわけで、今度もいつ更新するかわかりません。
時々、こんなブログ削除してしまおうかと思うこともあり・・(って書くと削除しないでというコメントが来そうですが、削除しませんのでコメントしないでね)
アクセス数を見てとても恐縮しています。
すんません、すんまそん、
すみませんです
コメントにもできるだけ返事をしようと思いつつ、
何ヶ月もコメントに気づかなかったりして・・
(すみません!すみません、特に志村建世様)
こんなブログですが今年もよろしくお願いします。
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1月末、Fさんは当院に転院してきた。癌再発で余命わずかとの告知を受け、ホスピスで最期を過ごすことを希望したのだが、ホスピスは空きがなく、部屋が空くまで当院に入院することになったのだった。
Fさんに付き添っている女性は私が話をした「妻」ではなかった。私はFさんに以前妻と名乗る女性が話を聞きたいと言ってきて病状を話したけれどよかったのかと、ずっと気がかりになっていたことを聞いた。Fさんは「俺が先生に聞いて来いと言ったんだ」と答えた。養育費の支払いが滞っているのを病気のせいにしたが信用されなかったから、ということだった。
Fさんは自分の運命をしっかりと受け入れている様子だった。「死ぬのはこわくない。ただ、苦しいのだけは、苦しいのだけはごめんだ」そう言った。
ある日回診に行くと、Fさんは、病室で声も切れ切れに苦しそうに携帯電話で電話をしていた。Fさんは生命保険に入っているが、死んだら保険金は妻ではなく、付き添いの女性にあげたいのだと言った。名義変更の手続きのために保険会社に電話をしていたのだと言った。すると、傍にいた女性がわっと泣き出した。
「お金なんて、どうだっていいんだよ。お金なんて、私はいらないんだから・・・!!」
Fさんは自分の葬式費用がいくらなど、死亡保険金の用途を紙切れに箇条書きに書き出していた。お金にきちんとした人なのだ。だから医療費の前借りや踏み倒しやなどができず、ずっと治療や検査を拒否して、苦しいのを我慢してきたのだ・・・。
Fさんはとても優しい目をしていた。Fさんが入院してから初めて気づいたことだった。今までどうして気付かなかったのだろう。
数日後、ホスピスが空いたと連絡が来て、Fさんは転院した。転院の日、私はFさんと握手をしてお別れをした。とても温かい手だった。この手が近いうちに冷たくなってしまうのだ。そう思うと涙がにじんだ。
Fさんの訃報が届いたのはわずか3日後だった。こうしてFさんの壮絶な闘病は幕を閉じた。
Fさんは医療者の立場から見ると困った患者さんではあったが、その背景には経済的な問題があった。
当時と比べて現在の社会経済状況は悪化し、Fさんのように「お金がないから治療できない」という患者は確実に増えている。直面する医師としてはやり切れないものがある。
おわり
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8月から治療を再開したが、その後から気管支喘息の症状を伴うようになった。9月、Fさんが呼吸困難を訴えて受診した。気管支喘息重積発作の状態で、そのときの酸素飽和度は88%だった。入院を強く勧めたが、Fさんは「これ以上仕事を休んだらクビになってしまう」と頑なに拒否した。
外来のベッドで酸素吸入をしながら、ステロイドとテオフィリン製剤の点滴を行うと、Fさんは「楽になった」と言って帰宅した。その後しばらくの間、Fさんは受診せず、代理人の女性が薬だけ取りにくることが続いた。
ある日、Fさんの妻と名乗る女性と高校生くらいの娘が、病状を聞きたいと言って私を訪ねてきた。しかし、その女性はいつもFさんの受診に付き添ったり、代理で薬を取りに来たりしていた女性とは別人であった。Fさんには妻子があったが、それ以外の女性と暮らしているようだった。
私は困惑した。いくら妻や子であっても、個人情報保護法により、本人の承諾なしに患者情報を教えることはできない。
Fさんの承諾は得ているのかと聞くと、妻と名乗る女性はFさん自身が私の名前を出して病状を聞いて来いと言ったのだと答えた。私の名前を挙げることができるのは本人だけであることから信頼性があると判断し、Fさんの病状がかなり悪いことや、お金がないからという理由で治療を拒否してきたこと、通院は不規則で最近は受診していないことなどを話した。妻と娘は神妙な面持ちで病状を聞いていた。
Fさんはその後もほとんど受診しなかったが、H(XX+5)年元旦、気管支喘息重積発作で救急外来を受診した。かなり重篤な状態で、当直医はFさんを救急車で大学病院に搬送した。
一時人工呼吸器管理になったそうだが、すぐに離脱できた。
しかし、その後の気管支鏡検査で、なんと、肺癌の再発が発覚したのだった。
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5月の連休中、Fさんはあまりの辛さにまた大学病院の救命センターを受診したそうだ。救急で採血をしてもらい、CRPが11 mg/dLと上昇していたため、救急の医師から診療時間内に呼吸器科を受診するように言われ、連休が明けてから仕事を休んで呼吸器科を受診した。
しかし、Fさんの話によると呼吸器科担当医の外来は予約がいっぱいだったため他の医師に回されて、その医師から「わからない」と言われたそうだ。Fさんは「二度と大学病院にはかからない」と怒っていたが、Fさんの受診態度にも問題があるのは明らかだった。
Fさんは外来で待たされることが大嫌いだった。呼吸器科は待ち時間が長いためFさんは待ちきれず、他の医師の診察を希望したのだった。
Fさんの症状は悪化し、6月からは喀血も伴うようになった。胸痛も増悪していた。大学病院でFさんの担当だった呼吸器科医師に電話で連絡を取り、喀血に関しては止血剤か吸入ステロイドで様子をみるように指示をもらった。
しかし薬を増やすどころか、Fさんは抗真菌剤を「薬代が高いからやめたい」と言うのだった。それからは、Fさんは鎮痛剤と鎮咳剤、去痰剤だけを希望するようになり、根本的治療のための抗真菌剤も非定型抗酸菌の治療薬も拒否した。理由は薬代が高くて払えないからということだった。
Fさんの左肺上葉には空洞ができており、根本的治療をやめてから次第に大きくなっていった。咳、胸痛、血痰の症状も続いていた。呼吸器科受診を勧めると、Fさんは大学病院ではなく市民病院にかかりたいと言った。市民病院に紹介状を書き、Fさんが市民病院を受診したのは翌年H(XX+4)年の4月。市民病院からの返答は、抗真菌剤と抗菌剤のニューキノロンを併用して感染が改善されてから外科的手術で空洞を切除するのが望ましいということだった。しかし、Fさんは「今はお金がないから夏のボーナスが入ってから治療を始める」と言った。
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Fさんはしばらく抗生剤の点滴に通っていたが、炎症は持続し状態は悪化した。全身倦怠感が強くなり、H(XX+3)年1月、ついに断念して大学病院の呼吸器科へ入院した。入院後、気管支鏡検査を行い、気管支洗浄液からM.aviumという非定型抗酸菌が検出された。またアスペルギルス抗原(真菌の一種)が陽性であった。非定型抗酸菌症と肺アスペルギルス症の合併と診断がつき、その治療薬を開始したところ、症状は徐々に改善し、3月に退院した。そして三たび当院の外来に戻ってきたのだった。
さて、前置きが長かったが、私がFさんと関わるようになったのはこの後であった。Fさんはアスペルギルス症に対してイトリゾールという抗真菌薬を、非定型抗酸菌に対して3種の抗結核剤とクラリスロマイシン(600mg)を処方されていた。非定型抗酸菌症の薬は1、2年続けなければならないと言われていた。
困ったことに、退院後も微熱が続き、咳や胸の痛みは悪化した。更に困ったことに、Fさんは金銭的な問題を抱えていた。抗真菌剤や非定型抗酸菌の治療薬は高価で、後発品を使用しても調剤薬局での支払いが1ヶ月数万円になるのだった。
Fさんの症状は悪化していた。外来でも咳き込んで会話がろくに行えないような状況だった。胸痛や微熱も続いていた。そんな状態で仕事ができるのかと聞くと、仕事はしていると答えた。
所持金が少ないからという理由で検査はことごとく拒否された。
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ソセゴン中毒から解放はされたものの、Fさんの術後の疼痛は続いた。その後もずっと非ステロイド性消炎鎮痛剤(NSAIDS)の服薬を毎日続けていたFさんだったが、H(XX+2)年の夏から咳と発熱が見られるようになった。その年の8月、Fさんは大学病院の高次救命治療センターを受診した。
診療時間内の外来を受診せずにいつも救急外来を受診するのがFさんのいけないところであった。高次救命治療センターはその名の通り高度な救命治療を要する患者さんが運ばれるところである。Fさんのように数日前からの咳や発熱といった症状の患者が受診するところではない。このような患者さんが沢山詰め掛けたら、救急医療は破綻してしまう。
ともあれ、Fさんは救急で胸部CTと血液検査をしてもらい、左胸膜炎と診断された。炎症反応を示すCRPが14.5 mg/dLと高値を示したため入院治療を勧められたが、「仕事の都合でどうしても入院はできない」と断り、抗生剤の点滴を受けて帰宅した。その際、救急の医師から当院宛に「今後は貴院外来で抗生剤の点滴をお願いします」という紹介状も書いてもらっていた。
その後Fさんは数回当院外来で抗生剤の点滴を受け、CRPは3.50 mg/dLまで改善したものの、腺癌の腫瘍マーカーであるCEAが20.9ng/mL(正常値5以下)と高値を示したため、肺腺癌の再発の疑いで再び大学病院の呼吸器科へ紹介された。
同年12月、Fさんは紹介状と供に再び当院の外来へ戻ってきた。CEAは低下傾向で、再発の可能性は少ないだろうということだった。しかし、CRPは16.85mg/dLと再上昇し、左胸膜炎の再憎悪と考えられていた。紹介状にはこうあった。
「仕事の都合上どうしても入院治療は無理、貴院での外来点滴なら可能とのことです」
つづく
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ながらく更新していないにも関わらず、毎日多くの方にお越し頂いて恐縮です。
医者を困らせる患者にも色々なタイプがあるけれど、Fさんは『困った患者さん』の一人だった。Fさんが亡くなって2年以上が経つ。カルテを遡り、Fさんの「困ったぶり」を懐かしく思い出しながら綴ってみる。
平成XX年5月、49歳だったFさんは「1ヶ月くらい前から息を吸うときに『ブーブー』音がする」という主訴で外来を受診した。胸部レントゲンとCTで異常陰影を指摘され、大学病院の呼吸器科へ紹介となった。左上葉の肺腺癌の診断で、Fさんは同年7月に左上葉切除術を受けた。9月に退院し、『貴院にてCTのフォローアップをお願いします』という紹介状と供に、当院に戻ってきた。
しかし、Fさんが受診したのは深夜の救急外来。術後の疼痛を訴えるFさんに、当直医はソセゴンを注射した。その後も、夜遅くに受診しては「痛い。内服の鎮痛剤が効かない」と当直医に訴え、その都度ソセゴンの注射を繰り返されていた。非麻薬性鎮痛剤(オピオイド)の塩酸ペンタゾシン(ソセゴンまたはペンタジンなど)は連用すると依存症を起こしやすい。Fさんは俗に言う「ソセゴン中毒」になってしまっていた。
Fさんは術後疼痛のため手術した大学病院の外科から麻酔科へ紹介され、神経ブロックに通っていた。しかし、待ち時間の長い大学病院への通院を嫌がり、決まって休日か夜間の診療時間外に当院を受診し、ソセゴンの注射を要求するのだった。
カルテには、ある時から『この患者さんにソセゴンは注射しないでください』と記載された。それでもFさんがしつこく懇願するため断りきれずに打ってしまう医師もいたようだ。
カルテによると、平成XX年の9月末から11月末の2ヶ月間でFさんは合計12回ソセゴンの注射を受けた。注射の指示を出した医師は、ほとんどがその場限りのアルバイトの当直医だった。ある時、バイト医師の采配でソセゴンの注射は依存性を生じないメナミンに変えられた。4回メナミンの注射を受けた後、Fさんは注射の要求をしなくなり、「ソセゴン中毒」は終焉したようだった。「ソセゴン中毒」の患者さんは医師にとっては「困った患者」に当たるのだが、この様な依存症を作ってしまうのは医師自身であることを肝に銘じなければならない。
つづく
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みなさん、おひさしぶりです。
長い間ブログ放棄していました。ご心配いただいた方もいらして、申し訳ないです。
元気ですよー。
というわけで、久々の更新です。先日、ある雑誌に載せた原稿そのままコピペですが・・。
字が小さくて読み辛いかな
「天皇陛下のような治療をしてください」
15年も前のことであるが、Kさんの息子さんが言われた言葉はとても印象に残っている。
Kさんは会社を経営していたが、脳梗塞で倒れ、半身不随になった。リハビリ目的で転院してこられ、転院後に胆嚢炎を併発した。胆嚢炎は重症化し、右の肺にまで炎症が波及し、胸水がたまった。外科的治療で命を取り留めた。しかし、その後肺炎を引き起こした。かなりの重症肺炎であった。さらに、Kさんは、いつ破裂してもおかしくない脳動脈瘤と、腹部大動脈瘤も持っていた。
重症肺炎で危篤に近いKさんの病状を聞くために、東京と大阪から長男と次男がかけつけていた。Kさんは80歳。高齢で合併症が多く、かなり厳しい状況であった。その説明の最中に、次男が言ったのが「天皇陛下のような治療を」という言葉だった。
天皇陛下のような治療とはどういうことだろう・・私が返答に困っていると、今度は長男が言った。「父のことを、ご自分のお父さんだと思って治療して下さい」それを聞いてほっとしたのを覚えている。それならば実現は可能であろう。次男はこう言いたかったのかも知れない。<父は特別な人間なのだから、特別な治療をしてくれ>と。
特別な治療をしようがしまいが、人の命の長さは神様によって既に決められているのではないだろうか。Kさんやその周囲の人々のその後の生き様、死に様を見てきた今、振り返るとそう思えてならないのだ。
Kさんには人工呼吸器が装着されたが、濃厚治療の結果、肺炎は回復した。1週間で人工呼吸器からも離脱でき、気管切開も行わずに済んだ。しかし、炎症による消耗性貧血のため輸血を行ったところ、副作用で全身の皮膚が真っ赤にただれてしまった。致死率90%以上と言われる輸血後GVHD(移植片対宿主病) と思われたが、肝障害は軽度にとどまり、重篤なのは皮膚症状のみであった。皮膚の赤みは次第に退いていき、やがて、色素沈着して全身の皮膚が今度は真っ黒になった。元々色白であったKさんの皮膚の変化を、奥さんは嘆いていたが、やがてKさんの黒くなった皮膚はボロボロと剥け始め、その下から元来の白い肌が顔をだした。まるで、蛇の脱皮のように全身の皮膚が剥け落ちると、Kさんの肌は生まれたての柔らかな白い肌に変わった。80歳にして目を瞠る再生能力であった。死の淵から甦ったKさんだが、残念なことに認知症は進んでしまっていた。
その後しばらくリハビリ入院を行っていたKさんは自宅へ戻ることになった。訪問診療、訪問看護、訪問リハビリのサービスを受けることになり、訪問診療は私が担当した。Kさんは、退院する頃には車イス移乗ができるようになり、平行棒内での歩行リハビリを行っていた。Kさんの奥さんは自宅でも同じリハビリができるようにと、平行棒を買い求めて自宅に備えた。Kさんは奥さんと二人暮らしだったが、住み込みの家政婦を雇って介護を手伝ってもらっていた。入院中もずっと病室に泊まり込んでいた年老いた家政婦さんのことを、Kさんは「おばあ!」と呼んでいた。
奥さんはいつもKさんのために愛情と栄養がたっぷりのミキサー食を作って食べさせていた。Kさんは甘いものが大好きで、主食はエンシュアリキットという甘い経口栄養剤とお粥を混ぜたものだった。退院してから、Kさんは丸々と太り、中性脂肪は採血するたびに高かった。食生活を改善するように指導しても、Kさんが食べたがる物は何でも食べさせたいと、奥さんは聞き入れなかった。Kさんの認知症は更に進行し、時折凶暴性を発揮したが、身体的には落ち着いた状態が続いた。
その後、私は異動のためにKさんの訪問診療を外れることになった。しかし、数年後にまた同じ病院に戻ることになり、再びKさんの担当になった。奥さんは私が戻ってきたことを大変喜んでくれて、Kさんに「ほら、あなたの命の恩人の先生がまた来てくださるのよ!」と照れくさいことを仰ったが、Kさんは私のことが分からない様子だった。
Kさんのご自宅の様子は何も変わっていなかったが、家政婦さんが入れ替わっていた。奥さんは私にこう囁いた。
「前の家政婦さんね、娘さんが自殺未遂で寝たきりになって、その介護をしないといけないからと辞められたのよ」
「まあ・・・」
人生は色々なことが起こる。生きるということは大変なことだ。新しい家政婦のOさんは、以前の家政婦よりも若くて、機敏で、よく働いた。しかし、Kさんからはやはり「おばあ!」と呼ばれていた。Kさんは、排尿障害のため、尿道バルーンカテーテルを留置されていた。カテーテルが入っているにも関わらず、Kさんは「おばあ、しっこ!」と叫び、すると、Oさんはいやな顔一つせず、「はい、トイレですね、社長」とKさんを車椅子に載せてトイレへ連れていくのだった。奥さんがそれを横目で見ながら「一日に50回くらいトイレへ行くんですよ」と言った。
「ええ!?50回も!それは大変」と、私は頻尿改善薬を勧めた。しかし奥さんはトイレへ連れて行けば気が済むのだからと同意しなかった。トイレから出てきたKさんは、今度は「おい、おばあ!うんち!」と言い、Oさんは「はいはい。社長」と、またトイレへ連れて行くのだった。
Kさんはしばしば熱が出て、食欲がなくなったが、奥さんは入院させるのを嫌がり、その都度在宅で輸液や抗生剤の点滴を行い治療した。針を刺されるのが大嫌いなKさんは、採血や点滴をするたびに大暴れしてそれはもう大変だった。奥さんとOさんがKさんを押さえつけて看護師が針を刺すのだが、看護師は何度Kさんから唾を吐きかけられたか分からない。
出会ったころはまだお元気だった奥さんも、Kさんと共にだんだんお年を召されていた。私が担当を外れていた時に心房細動と心不全を発症して入院されたそうで、その後は近所の循環器専門の開業医にかかっているようだった。Kさんの往診時に奥さんの身体の相談を受けることが多くなった。膝が痛くて歩けなくなったと、奥さん自身も外出するときは車椅子を使うようになった。Kさんと外出するときは社員に手伝ってもらい、車椅子2台で出かけるようになったそうだ。頑張って車椅子で新幹線に乗って旅行にでかけたことも聞かせていただいた。
Kさんは腹部大動脈瘤と脳動脈瘤を持っていたので、突然死もあり得るということを常々奥さんに話していたが、それらは破裂することもなく、Kさんは88歳になった。奥さんは「どうしても後2年は生きていてもらわないと・・」と言っていた。そうこうしているうちにKさんは90歳になった。それでも奥さんは「まだもう少し頑張ってもらわないと・・」と言っていた。
ある日、Kさんのお宅へ行くと、Oさんと違う家政婦がいた。Oさんはこれまでも休みを取って替わりの家政婦が来ていたことがあったので、今回もそうなのだろうと思ったのだが、奥さんの口から驚くことを聞いた。
「先生!Oさんね、交通事故で亡くなったの」
「ええっ!!」
「道路を歩いていて車にはねられて、即死だったって・・」
「そんな・・・」
本当に、人生はいつ何が起こるか分からないものである。あのキビキビと元気でよく働く家政婦さんの命が、一瞬のうちに失われるとは。
新しい住み込みの家政婦さんはなかなか見つからないようだった。家政婦派遣業者から交代で家政婦に来てもらっていたが、Kさんの1日50回のトイレに耐えられる人がおらず、3交代制になっていた。
奥さんはOさんがいなくなって本当に困ったと嘆いていた。奥さんがちょっと場を離れると、派遣されていた家政婦が近寄ってきて言った。
「先生、この人、夜中もずーっとウンチだのシッコだのって、これじゃあこっちの身体が持ちませんよ。ぐっすり眠らせるようなお薬出してもらえませんか」
そう言われても、睡眠剤を飲ませるかどうかは奥さんが決めることで、奥さんが睡眠剤は飲ませたくないと言うのだから、私には何ともできないのだった。このとき、私は家政婦Oさんの偉大さを改めて知った。
そんな折、Kさんの次男が事業に失敗して多額の借金を抱えてしまい、奥さんは大変心配され、悩んでいるご様子だった。家政婦も3交代制のままで、人件費がかさんで大変だと打ち明けて下さった。心労が重なったことが誘因になったのだろうか。訃報は突然だった。
ある朝、病院に出勤すると、奥さんのかかりつけの開業医から電話があり、奥さんが自宅で亡くなっていたと聞かされた。前の晩はいつもどおり休まれたのが、朝、起きてくるのが遅いため家政婦が部屋へ様子を見に行ったところ、パジャマ姿のままうつ伏せで倒れていたらしい。心房細動があったので血栓が飛んで脳塞栓を起こしたのかもしれない。あるいは他の原因だったのかも知れない。何にせよ、Kさんを残して奥さんの方が先に逝ってしまうなんて、思ってもみなかったことだ。ショックでしばらく呆然とした。
奥さんが亡くなった直後、Kさんは社会的入院をすることになった。入院してきたKさんはスタッフに悪態をつきまくり、暴力を振い、食事もほとんど食べなかった。奥さんのお葬式には参列したが、葬儀の間も前の人の頭を叩いたりしていたらしい。しかし、認知症のKさんも、奥さんの死は理解していたようだ。ある日、私が病室を訪ねると、Kさんはじっと壁を見つめ、「H子、H子がもういない・・」と奥さんの名を呼び、その瞳には涙がいっぱい溜まっていた。そんな年老いたKさんの姿は涙を誘わずにはいられなかった。
奥さんが亡くなり、自宅介護が困難となったKさんは施設に入所することになった。施設に入ると、長い間経過を診てきたKさんにもう会うことができなくなってしまった。家庭では奥さんや家政婦さんから王様のように大切にされてきたKさん、施設でどんな暮らしをしていたのだろうか。
施設に入ったKさんは誤嚥性肺炎を繰り返し、何度か私の病院に入院した。だんだん体力は衰え、食事量は減り、やせ細ってゆき、何度目かの入院の時に亡くなった。92歳。大往生だった。
Kさん、奥さん、家政婦Oさんのことを、今も本当に懐かしく思い出す。思いがけずに亡くなったOさんや奥さん、合併症をたくさん抱えながら一番長生きしたKさんのことを思うと、私には、神様が気まぐれに人の命の終わりを決めているように思えてならないのだ。最後になるが、心からご冥福をお祈りする。
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http://mainichi.jp/area/saitama/news/20090206ddlk11070295000c.html
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ガイドライン本を買って読んだだけの付け焼刃の知識で医師に質問しまくったという記者。おそらくピントはずれな質問を執拗に「しまくった」のだろう。医師をキレさせ、それでもひるまずに質問しまくる。挙句、自分がさもよいことをしたかのように得意げに新聞記事にするこの記者に、社会人としての常識があるとは到底思えない。この文章に医師への配慮や感謝の気持ちは微塵も感じられない。こういう患者や家族が増えたことが医療崩壊を招く一因となっていることに、この記者は気付きもしないのだろう。この記者の相手をした医師に同情を禁じ得ない。
過去に書いたブログから、
http://blog.m3.com/Visa/20070430/2
「がんと私」読売新聞2006年6月16日掲載、本田真由美記者の記事より引用
「医療は万能ではなく不確実なものだ。
間もなく4年になる乳がんの闘病生活を通じて、この言葉の意味がわかるようになった。
医療の限界を実感したのは、患者になってからだ。きっかけは最初の手術から半年で見つかった局所再発だった。
彼ら(医師)は乳房全体でもすべてのがん細胞を取り切れない場合があること、標準治療がすべての人に効くかどうか分からないことーなど、人間の身体の複雑さや医療の難しさを、とことん説明してくれた。
延べ10時間は超える対話を通して、「現代医療も不完全で分からないことだらけ」ということを認識できた。
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この記者さんは、医療は不完全で分からないことだらけということを認識するのに、医師との10時間を超える対話を必要としたと書いているのだ。
ひとりで数多くの患者を担当している医師が、ひとりの患者の説明にそれぞれ10時間以上かけていたらどうなるだろうか?それは不可能な話だ。医師の貴重な時間をひとりの患者の説明のために多く使えば、当然他の患者の診療にあてがうための時間は削られる。この記者さんは、「医師の診療時間は公共の限りある資源である」ということを全く理解していない。
上の二つの記事を書いたような記者さんたちは、自分は特別な人間だから、時間をかけてもらって当然と思っているのだろうか?そうだとしたら記者の傲慢としかいいようがない。
世の中こんな記者ばかりだとしたら、病院の玄関に「新聞記者おことわり」と貼り紙をしたくなる。
そんな記者ばかりではないことはもちろん分かっているけれど・・。
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前回の記事を、鴛泊愁(セレネ)さんという医療者でない方が、ブログで紹介してくださいました。
そこに書かれた、私の記事を読んでのご感想を皆さんにも読んでいただきたくて、ご本人の了解の上、逆紹介させていただきます。
ブログ 月の光に照らされて より
http://tsukinohikarini.blog41.fc2.com/blog-entry-603.html#more
以下、感想です。
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