先だって、仕事で結核について調べる必要があり医学書が手元になくて、wikipediaを引いたときに、に「南湖院」というリンクがありました。カテゴリ: 日本の医療機関 (廃止) でしたので、ちょっとおもしろかったのでご紹介します。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
南湖院(なんこいん)は、神奈川県茅ヶ崎市にあったサナトリウム(結核療養所)。
医師高田畊安によって1899年9月に開院し、「東洋一」のサナトリウムと称せられたが、1945年5月に海軍に全面接収されて解散となった。盛時は東京の医学生のほとんどが卒業必修単位の如くに見学に訪れたという。名称は地名の南湖(ナンゴ)に拠るが、濁音を嫌った高田畊安によって「ナンコイン」と称された。場所は現在の茅ヶ崎市南湖6丁目の県立茅ヶ崎西浜高校や老人ホーム太陽の郷のあたりが比定される。敷地は当初は5,568坪、最盛期の昭和10年代には計5万坪余もあったという。建坪は4,500坪、病室は158室。(以下一部簡略化)
沿革
1896年11月11日 高田畊安は東京帝国大学及び付属病院を辞し、東京の神田に東洋内科医院を開業。
1899年3月4日 神奈川県の茅ヶ崎に分院の計画を立て、南湖院と命名。
1899年5月28日 第一病舎上棟式。病室数10。
1899年9月27日 第一病舎での受け入れ開始。勝海舟の未亡人など三名。
1899年10月11日 私立病院として認可される。
1908年2月3日 重症の国木田独歩が入院。病状が「読売新聞」に連載され、南湖院と別荘地茅ヶ崎の知名度を上げる。
1908年6月23日 国木田独歩病没。
1918年 医王堂(大会堂)竣工。
1921年12月 第十一病舎竣工。病室数15。
1923年9月 関東大震災で第五病舎焼失。後に再建。震災時の総入院者数は210人。付添人55人。職員137人。
1924年2月 愛光室(仮本館)竣工。
1931年11月 徳太室竣工。病室数1。
1935年12月 『南湖院一覧』発行開始。以後1942年まで毎年1冊発行。但し、1941年度分は存否未詳。
1940年12月 『南湖院一覧』が「皇室に対する不敬」により発売頒布禁止処分となる。
1942年9月11日 『南湖院一覧』が再び発禁となる。
1945年2月1日-2日 高田院長は特高に呼ばれ、茅ヶ崎の東隣りの藤沢市の警察署に出頭。
1945年2月4日 高田院長、医王堂での説教中に倒れる。
1945年2月9日 高田院長、死去(83歳)。
1945年5月 海軍により全面接収。
解散後
1946年8月 連合国が接収する。
1952年7月26日 在日米軍施設キャンプ茅ヶ崎の一部となる。
1956年1月17日 接収解除となる。
日本での最初のサナトリウムは明治20年、鎌倉鎌由比ヶ浜に建てられた結核療養所「海浜院」です。
サナトリウムは数々の文芸作品の生まれるきっかけをつくり、肺結核は戦前、石川一(啄木)、樋口夏子(一葉)、正岡常規(子規)、梶井基次郎、新美南吉、など多くの文芸作家の命を若くして奪った病気です(国民病で昭和20年前の平均寿命が50歳未満だった主たる要因は肺結核と栄養失調です)。
さて、この南湖院に入院したのは以下のようになっています。
入院した著名人・その家族
大手拓次、落合直文、国木田独歩、佐藤惣之助、
杉浦重剛、坪田譲治、清水重夫、田端修一郎、平塚雷鳥の姉(孝子)、前田夕暮の長女(妙子)、八木重吉、吉井勇、中里介山
さて、このウィキペディアの面白いことは、以下のように当時の診療費について記述があります。
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<診療費>1939年刊、『南湖院一覧』より
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外来
院長・次長 初診5円(越順又は時間外は7円)
院長・次長 再診50銭(越順又は時間外は2円)
副長 初診3円(越順又は時間外は5円)
副長 再診50銭(越順又は時間外は1円)
医員 初診1円50銭(越順又は時間外は2円)
医員 再診50銭円(越順又は時間外は1円)
耳鼻咽喉科 初診3円(越順又は時間外は5円)
耳鼻咽喉科 再診別規定(越順又は時間外は50銭増)
往診……車馬料患家負担
院長 1時間20円
次長 1時間10円
耳鼻科長 1時間10円
同副科長 1時間10円
副長 1時間5円
医員 1時間2円
<以下略>
院長先生と医員の間で、初診料の格差が3倍以上あったり、順番抜かすと余計にお金がかかったり、興味深いものです。
また、入院料金も個室などのチャージが一泊3円~8円50銭まで。 以前、書いたことがありますが、
昭和2年の「請け負い制だった健康保険」では、
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健康保険制度は大正12年施行の筈であったが、関東大震災のため延期され、昭和2年に発足した。
職工、職人など低所得の人を救済するのが目的で、一般の月給取りなどは対象外だった。当初は人頭式といい、1年分の医療費の総額を日本医師会がまとめて受け取り、さらに全国道府県を通して各保険医に分けた。
当時の慣行料金は、初診料1円、散・水薬が1剤25銭。保険は1点20銭であったが、請け負い制のため患者を多く診るほど単価が下がり、ときには1点7銭ということもあった。
多くの医院は保険診療の曜日を定めていたが、患者といえば保険証を持っていても貧民視されることを嫌い、使用しない人が多かったという。
昭和の始め、かけそばが1杯10銭、新しいスリッパを備えてもその日のうちに2、3足なくなってしまうような時代であった。(仁科岩男)
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物価が今とは大きく異なるので感覚が不明ですが、いまならいくら(消費者物価)の下の方に
値段の(明治、大正、昭和)風俗史(及び続、続々)
があって、そこに物価があります。昭和5年ごろの物価・・・
山手線初乗り:5銭
教員の初任給:50円
家賃:12円
の価格から類推すると、初診料は現在の山手線が150円だから・・・院長に初診で診察を受けると15000円!医員であっても4500円前後。再診療は1500円ですが、往診を院長に受けると、1時間当たり6万円。
これ以外に薬代もかかりますし、入院の室料を1日3円としても毎月90円になり、教員の初任給の2倍弱(現代ですと40万円強)になってしまいす。
この診療費から類推するに、結核診療所では自由診療制であったと思われます。いわば結核診療所で医療を受けるのは相当贅沢な時代だったと思われます。
自分の祖母も戦前、転地療法を受けてたことがあり、やはり「自分が今も命があるのはお金があったからだ・・・」と家族からも聞いたことがあります。
国民皆保険制度が整備されたのは昭和36年。その時に都市部の医師たちは「値下げ」につながるとして大反対したのですが、幸い、右肩上がりの経済成長でそういうことはなかったのですが、高齢化が進み、国民医療費の負担をどうするかまた考えねばならない時代になりました。
日本の国民保険制度がなかったころを思うと、保険制度が整備され、ユニバーサルなサービスは提供できていると思いますが、一方、弾力性はかけるところもあります。また今後も考えていきたいと思います。
なお、南湖院の跡地には、現在、南湖院創始者の孫である高田準三先生が経営する有料老人ホーム「茅ヶ崎太陽の郷」がある。戦前からの建物も維持され、さらに富士山も見え、当時の面影が残っているようです。
「緑陰随想」は、毎年夏になると日本医事新報に設けられるコーナーで、さまざまな医師の随筆が載っていて興味深いことを教えてもらえます。それを拝借いたしました。
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