お一人の臨床医師がお亡くなりになりました。その波乱の人生といい。専門が耳鼻科なのに精神科から外科までやっち ゃうし、産科まで。まさに「God」。
しかも他人の悪口も言わずに もくもくと・・・こういう人が地域には、そして日本人には好まれる が、現代では「突っ込み」どころいっぱいで持続不能なんだよなぁ・・・汗 (何もなきゃいいのだが、お産の訴訟のことを考えると、トレーニングを十分受けないで、万が一のことを思うと「手錠」のお世話になりかねません)
もちろん、長年にわたる有薗先生の地域住民への貢献。頭が下がる思いです。奄美大島の赤ひげ先生の逝去に、黙とうしたいと思います。
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南日本新聞 2008 05/11
奄美市名瀬で車にはねられ9日未明亡くなった医師、有薗秀夫さん(88)=同市名瀬長浜町=は、国立ハンセン病療養所奄美和光園などで半世紀以上にわたり奄美の地域医療に尽力した名物先生だった。同日の通夜と10日の告別式には入所者や医療関係者ら約300人が集まり、突然の別れを惜しんだ。
有薗さんは南九州市(旧川辺町)出身。関係者によると、太平洋戦争の激戦地硫黄島(東京都)で太ももを銃弾が貫通する重傷を負いながら生還。和歌山県立医専を卒業し、「苦しむ人を助けんといかん」と、星塚敬愛園(鹿屋市)を経て復帰間もない奄美の和光園に赴任した。1988年に園長で退職するまで30年以上、専門の耳鼻科のほか皮膚科、産婦人科、外科などもこなした。画家田中一村の死亡診断書も書いたという。
退職後も奄美病院(奄美市)の常勤の精神科医として医療現場に立ち続け、亡くなった日も事故にあう直前まで診察していた。優しい笑顔で「神様先生」「父ちゃん」と親しまれ、1人の患者の話に2時間以上耳を傾け看護師に注意されたこともあったという。和光園元職員(60)は「患者や職員をしかったり、悪口を言ったことは1度もなかった」と振り返る。
妻が亡くなった21年前や、昨年大腸がんを手術したときは家族に帰郷を促されたが、「奄美の土になる」と言って拒んだそうだ。長男浄一さん(50)=都城市=は「好きな奄美で好きな仕事に最後まで打ち込めた」と語った。
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