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厚生労働省のDPC評価分科会は6日、DPC(急性期入院医療の1日包括評価)の調整係数の廃止に向けた検討に入った。08年度以降、各DPC病院の前年度収入実績を担保する調整係数では、各医療機関を適切に評価できないとの指摘が多く、実情に応じた機能評価係数の設定など新たな算定ルールの構築をめざす。
今回の議論は、委員によるフリートーキング。委員からは機能評価係数について、「医療の質は患者のアウトカムで評価」「平均在院日数と調査係数を付き合わせる」といった意見があった。また、臨床研修では病院には1.6倍のコストがかかり、教育に関しても評価に加えるよう提案があったものの、原徳壽医療課長は「診療報酬は教育・研修をみているわけではない」と一蹴した。
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結局、やはり梯子を外すということです。例の療養型と同じです。病院経営を効率的に数字が見えるようにして、在院日数削減競争に走るだけ走らせておいて、あとで、調整係数がなくなる。その時、赤字が増えても面倒はみないよ・・・という素敵な官僚からのメッセージです。
しかし、DPC病院がかなりの割合で臨床研修病院という面を考えれば、今後DPC病院は研修医のような若手医師(正規職員ではない)を安く使うことで、人件費の割合を下げるしかないようになります。研修しても正職員になれるのは一握り(元々そうでしたが)。自由経済では競争も正義ですが、負けた病院には「市場から撤退」です。ますます、経営努力にがんばって行く必要がありそうです。
2006/09/14 キャリアブレイン
今年4月の診療報酬改定に伴いDPC(診断群分類別包括評価)の対象病院が今年度中に360施設(18万床)に達する見通しなのを受けて、日本医師会は9月12日、医療機関ごとに決められる調整係数が近い将来廃止されるとの見方を盛り込んだ見解を公表し、安易な手挙げに警鐘を鳴らした。
DPCは、診断群分類ごとに入院基本料や注射、検査、投薬などに対する報酬を定額払いにする仕組み。全国82の特定機能病院を対象に03年に導入された。DPCへの移行に伴って病院の財務状況が激変するのを防ぐため、現行では診断群分類に基づく報酬が前年実績を下回らないよう、病院ごとに「調整係数」が設定されている。このため、移行によりむしろ増収につながった病院もある。
見解の中で日医は、今年2月の中医協に厚生労働省が示した資料の中で調整係数について、DPCを導入した2003年から5年間(2008年)の改定まで維持する方針が示されている点に着目し、この仕組みの存続が2010年までしか保障されていないとの見方を提示。「多くの病院が移行したところを見計らって梯子を外す。それが厚労省のやり口」などと指摘している。
また、厚労省がその気になれば医療費が下がるように調整係数を設定することも可能とも指摘し、こうした形は医療費の総枠予算制度導入に等しい「由々しき事態」と懸念を示している。さらに、当初は特定機能病院を対象にしたDPCが200床前後の中小病院に普及すれば、「特定機能病院と中小病院では機能やコスト構造が違うから診療報酬に差をつけるべき」といった意見が遠からず出ると予測。財源的制約から医療機関の機能を区分するという「悪しき前例」を作ることにつながりかねないと指摘した。その上で、当初の目的どおりDPCの対象を特定機能病院に限定すべきと結論付け、国の甘言に惑わされることのないよう、病院経営者らに冷静な対応を求めた。
更新:2006/09/14 キャリアブレイン
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いつもは、犬と暮らしているために、最近は出歩いていないのですが(十分出歩いているという突っ込みありますよね・・・汗)、たまたま異業種交流会と同業種交流会が立て続けでありました。
異業種交流会は、大手不動産が港区の都有地を借りて賃貸マンションを建てたので、そのお披露目でもありました。たまたま知人が招待してくださったので、迷い込んじゃったのです。他にも医師の知り合いを二人ほど呼んで、出席してみましたら、非常に多士済々な方が集まっていました。
webクリエーターから起業された方から、官庁にお勤めの方、金融や不動産関連などさまざまな業界の方がお見えでした。その中で一番長く話し込んでしまいましたのが、元長銀マン(正式には日本長期信用銀行というそうです)の方。
ちょうど今から15年前くらいに、バブルが崩壊して、日本の銀行は次々と不良債権をつかむ羽目になってしまい、債務超過に陥ってしまいました。13もあった大手都銀で債務超過になってなかったのは東京銀行とあと数行でほとんどオール赤字。
今の病院みたい・・・今、アメリカの経済が少しあやしくなっているのは、サブプライムローン問題をかかえているせいですが、当時の長銀も不動産融資の子会社をいくつか抱え、そのために1兆円近くの不良債権。
不良債権の金額では、当時、他の金融機関も負けていません、大手都銀も軒並み3-5兆円規模の負債があったのにも関わらず、なぜか長銀と興銀だけが外資に売り飛ばされました。
もちろん、2兆円の公的資金の支援があっても復活は難しかったかもしれませんが、最終的には3兆円以上の税金を投じて外資に破格値で売り飛ばされたのは…不幸な出来事でした。長銀だけ何故か?というと、政治的な力学とかの強さかな?っておっしゃってました。現在は、新生銀行と名前を改めましたが、今もビルは大手町に特異な姿で建っていますが、もはやそこには高度経済成長を支えた公的な金融機関の一翼を担ったという歴史は消え去ってしまっています。
さて、話を医療に移します。最近は、公立病院でも、福岡県のように県立病院が売り飛ばされている時代です、平成の市町村合併で、自治体病院を複数所有する羽目になった、地方自治体の数々…この元長銀マンの方にとって、医療の現状について意見を聞いてみました。
「公立病院では、掃除のおばさんが1000万の給料をもらっていて、医師がそれよりも安い給料で働かされるようではおかしい」。この点を公務員に指摘して、その非効率を改めるように話すと「職業に貴賎はなし!」と言われるそうで、もう少し考えなければならないのでは?ってことでした。
今の公立病院の給与システムは、公務員と同じで、勤続年数にあわせて上昇する給与制度です。
数年ごとに転勤する医師にとっては退職金も含めて、実情が合いません。もちろん、この方が民営化すれば全てうまくいくという単純化は危険ですが、公的な病院であるだけに、今のような矛盾をかかえたままでは、難しいので今後、整理淘汰が進むのはやむをえないのでは・・・という感じでした。
医療機関はちょうど、15年前までの大蔵省が護送船団方式で守ってきた金融機関と同じように見えます。このままで良いとはいえません。しかし、公的な性格がある福祉としての医療は、厳しいのが実情です(国の低医療費政策のため、採算が取れないのです)。
結局、産婦人科や小児科がこれだけ存亡の危機になっているのは、医療従事者の育成数を絞った上、過酷な労働条件や法的責任に問われやすい医療現場を、見殺しにしてきた厚生労働省の怠慢があります(何で今頃言うかといわれれば、そんな声を日医が現厚生労働副大臣を通して国会に伝えてなかったのもあるでしょうが)。
産科や小児科に少ないリソースを振り向けるために、高齢者や健康な人への医療を制限するしかないのでしょうか?国民はもっと危機的な状況であることを知ってほしいのですが、いわゆる金融と同じように外部の力でしか立ち直ることが出来ないのでしょうか?
医療制度について、ベストな解決方法を誰も出せていませんが、これからの医療を変えていくには、もっと外部の声(国民の声も含めて)を聞く必要があると思いました。もちろん、現場の声も大切です。そういう意味で、本田先生の「医療制度研究会」の活動などをもっと支援していきたいです。
2007年6月5日 紙面から
長銀の特別公的管理開始で会見し、頭を下げる鈴木恒男頭取(左)=1998年10月23日、東京証券取引所で |
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東京・虎ノ門に昨年建ったオフィスビルの二十階。菅井毅(52)は午前九時の出勤とともに、自社の株価をパソコンでチェックする。不動産投資運用会社、セキュアード・キャピタル・ジャパン(マザーズ上場)の最高財務責任者(CFO)。不動産投資ファンドの運用や不良債権の回収などを行う会社で、ファンドの主要出資者は海外機関投資家だ。
投資案件を協議する会議に出席しながら、次々に送られる決裁書類を処理する。三カ月ごとの自社決算も担当だ。昼食は抜くことが多い。夕食も階下のコンビニで買ってすませる。オフィスを出るのは、深夜零時ごろ。激務を支えるのは「株主から委任された仕事への責任感」という。
菅井は旧日本長期信用銀行の出身。入行四年目、為替ディーラーとしてひょんなことからシンガポール市場にテレックスをつなぎ、為替売買の取引をした。大損だったが、自由市場のスピード感に興奮した。続いて会社から派遣された米留学でシカゴ商品取引所の活発さに触れ、日本の規制の多さを肌身で感じた。以来、自由市場の信奉者。自分で考え、自分でリスクを取ることが持論だ。
長銀は一九九八年十月二十三日付で破たんし、金融再生法に基づく特別公的管理(一時国有化)の適用第一号となった。「旧大蔵省と銀行界の癒着が切れた歴史的瞬間だった」。その七月に経営陣を批判して取締役を辞任した箭内昇(60)=現アローコンサルティング代表=は言う。
護送船団と称された旧大蔵省の規制と保護下で育った日本の銀行は、九〇年代に入るとバブル崩壊で多額の不良債権を抱え、経営が悪化する。もっとも苦しい銀行の一つが長銀だった。
長銀は旧日本興業銀行などとともに、戦後の基幹産業に対する長期資金の貸し手として誕生した。資金は独占的に発行する金融債で調達したが、金融自由化の進展で金融債の優位は薄れ、都銀との競争が激化した。
こうした中、異様に高まった不動産融資の多くが不良債権となる。長銀は返済期限の延長や受け皿会社への飛ばしで問題を先送りし、資金繰りがいよいよ苦しくなると、優良顧客から強引な融資の引きはがしに出た。
菅井は九〇年、主力取引先の海外融資物件の調査に加わったことがある。売買契約書の不備など、でたらめな実態に驚いた。調査チームが発した危険信号にもかかわらず融資は継続された。
長銀には、大蔵省や政界が最後は救ってくれるという期待があった。護送船団の下、規制する側とされる側はもたれあってきた。不良債権の定義さえ当時はあいまいで、回収見込みがなくても、金利の一部でも返済されていれば不良債権とはみなされなかった。
だが、時代は変わっていた。大和銀行ニューヨーク支店の損失隠し(九五年)や北海道拓殖銀行、山一証券の破たん(九七年)などで、金融界の一新を求める声が国内外から高まった。破たん直前の二カ月、夜ごと金融監督庁(当時)へ資金繰りの報告に通った本部幹部(53)は、相手の反応から、すでに長銀は救われないと感じた。
結局、不良債権の定義は厳格化され、長銀は「債務超過」と認定されて破たんに追い込まれた。箭内は「政治家も役人も、追いつめられれば、それまでの“同じ穴のむじな”をばっさり切り捨てるのだと、感慨にとらわれた」と振り返る。
破たんは、多くの長銀マンの人生を変えた。当時の本店営業部幹部(51)は「自分が知っているだけで、長銀関係者から十人近い自殺者が出た」という。
長銀株が無価値になって、株を引き受けていた取引先の中には、十億円単位の損失を被ったところも出た。「長銀を最も助けようとしてくれた人たちを、最も損させてしまった。私もその責任を重く感じる」
破たん前後の「人には言えない」顧客との折衝をこなした後、長銀が外資に譲渡されたため、それを嫌って、長銀ではつきあえなかった中小企業向けのコンサルティング会社を興した。自身も一千万円を超える長銀株を持っていたが、今では紙くず。「おれが死んだら、株券を棺おけに入れろと家族に言っている。よく燃えるぞ、と」
金融監督庁に通った本部幹部は、一時国有化と同時に、無力感から辞職を願い出た。「信用不安に対して、長銀は大丈夫だと、預金や金融債のお客さんを説得できなかった。それができれば、破たんは避け得た」。今は別の金融機関に転職。今度こそ「本当にお客さまの役に立てる金融サービス」の実現を目指す。
菅井も破たん直前、長銀を離れた。三年に及ぶ世界銀行への出向から帰国してみると、古巣の融資部門は開店休業で、人事部が再就職先をあっせんしていた。外資系証券会社、IT(情報技術)企業、そして現職へと、実力で渡り歩く人生の始まりだった。
「長銀破たんは不可避だった。官の保護に甘えるより、むしろ早くつぶれた方がよかった」。菅井は、今の日本はまだ規制が多いと思っている。
失意のうちに歩み始めた第二の道。だが「多くの長銀マンが、長銀で生かせなかった能力を新たな世界で花開かせている」と、箭内は言う。
もちろん、自行の再出発に期待をかけ、残留した者も多い。長銀は新生銀行と改称し、旋風を巻き起こした。現金自動預払機の二十四時間稼働、インターネット・バンキング、投資銀行業務やノンバンクへの注力、専門性と業績重視の人事制度…。既存の大手銀行はその外資的性格に反発しつつ、アイデアの一部を取り入れることになる。
新生銀の行員は約二千人。その四割が長銀出身者だ。(沢木範久)=文中敬称略
長銀は系列ノンバンクによる無謀な不動産融資などがたたって、不良債権が膨張。1998年6月に月刊誌が「実質破たん」と報じて、信用不安が高まった。
長銀は前年、旧SBC(スイス銀行)との提携を発表して経営再建を目指していた。長銀株の株価が下がったため、合弁で設立した証券会社の経営権をSBC側に奪われ、提携は挫折。このため長銀は大手行との合併を模索し、最後は時の小渕恵三首相が住友信託銀行を説得したが、失敗した。
金融監督庁は98年10月、長銀を特別公的管理下に置いた。長銀を「債務超過」と断定し、長銀株を価値ゼロとする厳しい判定だった。
長銀は2000年3月、米系リップルウッドを中心とする投資ファンドに譲渡されて再出発。同年6月に新生銀行と改称した。
譲渡価格は10億円。もともと預金保険の対象でなかった金融債についても全額保護するなど、つぎ込まれた公的資金は約3兆6000億円に達し、日本経済に高くついた教訓となった。
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