上海から車で1時間ほど西へ走ったところにある江蘇省太倉で、日本的な家庭保健(各家庭に健康や医療に関する基礎的な知識を普及させる仕組み)を中国に広めようと活躍している看護師さんに出会った。
国際協力機構(JICA)が中国で実施している政府開発援助(ODA)の一つ、「中西部地域リプロダクティブヘルス・家庭保健サービス強化プロジェクト」に従事する小村陽子さんだ。
小村さんは海外協力隊員としてアフリカやトルコでも活躍した経験があり、今度の肩書はプロジェクト首席顧問。仕事はいわゆる一人っ子政策を進めてきた国家人口計画生育委員会と協力して地方農村に駐在する看護師さんらのための研修センターを設置し、基礎的な医療知識を農村部に広めようというものだ。
そんな小村さんの話を聞いて心底驚いたのは、中国が実は大変な医療危機に直面しており、抜本的な解決法が当分、見あたらないことだった。
小村さんによると、中国の農村は改革開放前までは人口の90%が人民公社を単位とする合作医療制度によってカバーされ、基本的な診療を受けられるようになっていた。だが、人民公社の消滅でほぼ全員無保険になったうえ、国公立病院が市場経済の導入で所得水準の低い農村部から撤退し、医師に診てもらえない状態にあるという。
つまり広大な農村地帯の大半がいわゆる無医村になってしまった。本来、人口抑制のため全土に張り巡らした人口計画生育委員会が日本の援助で家庭保健制度を広める場になろうとしているのは、この無医村状態を改善するのが目的というわけだ。
中国中央テレビ(CCTV)2が今年2月初旬、春節(旧正月)特集番組として放映した「生命之愛(命の愛)」の中で雲南省の貧農の妻が産後の障害から死の床に伏しながらも病院に行こうとしない状況が描かれていたが、もちろん高額な医療費を払うことができないためだ。
小村さんの話では、「看病難、看病貴(診療を受けるのは難しく、受けられても高すぎる)」は地方の隅々に蔓延(まんえん)しており、明らかに内臓がんの症状を示しながら病院に行こうともしない農民が一般的なのだそうだ。
しかも医療破綻(はたん)は都市部でも起きている。中小の病院は整備が遅れ、患者は大病院を選択せざるを得ない。だから大病院は常に超満員で、しっかりした医師に診てもらおうとすれば、ダフ屋のような仲介にまず50元(750円)以上払わなくてはならない。さらに改革開放後、薬価が大幅値上がりし、上海では1人が1回の診察ごとに支払う平均医療費は500元(7500円)以上という計算まである。
上海市民1人あたりの可処分所得は全国一だが、それでも月1600元(2万4000円)程度だ。大変な高額医療といえる。国民の7割が医療保険制度の対象からはずれた低所得層ということを考えれば、「風邪になってもまず我慢、大病になればすでに手遅れ」という状況が起きつつある。
今年2月、上海市浦東にある総合病院の救急センターに運ばれた患者の家族と若い医師が口論を始め、医師が殴られるという事件があった。医師殴打は実は中国各地で起きており、深センの病院では看護師がヘルメットをかぶって臨床現場に行くという笑うに笑えない話まである。
小村さんはこうした荒廃した医療現場を家庭保健制度の導入で和らげることができればと考えているが、「それにしても外貨準備高世界一(1兆ドル超)の国でどうしてこうなるのか…」という思いは残るそうだ。
