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「医者がいない!? |
“医者不足”が各地で問題となりつつある。特に産婦人科やへき地の診療所など、医師の勤務実態の厳しい診療科や地域では深刻な状況となっている。その結果として、満足な診療が受けられない“医療難民”が出てしまう危険性が高まっている。なぜそうした事態が進行しているのか? 医者不足の現場を取材し、問題解決のために奮闘する人々の取り組みを追う。
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追記:再放送のスケジュールです
BSJ再放送:日曜日朝9時(テレビ東京本放送の5日後)
日経CNBC:土曜日昼12時(テレビ東京本放送の4日後)
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先日、大森医師会の50周年記念誌を目にする機会がありました。皆保険制度導入をめぐって医師会の活動について興味深い文章がありました。日本医師会に所属していないので、「医師会について常識不足」の自分としては大いに勉強になりました。
今は患者さん主体の時代であり、「医療をめぐる環境」が違いますが、やはり当時も今も「医療費を抑える」ことを最優先に政府が活動していたのは明白であり、今のような時代だからこそ、当時の活動を「患者さんのための日医」をアピールすることも必要な時代に入ったのだと思います。
また、健康保険の75歳以上の「定額パケ割」の制度の導入を前に、健康保険の歴史についても興味深いものがありました。ぽち→![]()
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健康保険制度は大正12年施行の筈であったが、関東大震災のため延期され、昭和2年に発足した。
職工、職人など低所得の人を救済するのが目的で、一般の月給取りなどは対象外だった。当初は人頭式といい、1年分の医療費の総額を日本医師会がまとめて受け取り、さらに全国道府県を通して各保険医に分けた。
当時の慣行料金は、初診料1円、散・水薬が1剤25銭。保険は1点20銭であったが、請け負い制のため患者を多く診るほど単価が下がり、ときには1点7銭ということもあった。
多くの医院は保険診療の曜日を定めていたが、患者といえば保険証を持っていても貧民視されることを嫌い、使用しない人が多かったという。
昭和の始め、かけそばが1杯10銭、新しいスリッパを備えてもその日のうちに2、3足なくなってしまうような時代であった。(仁科岩男)
「昭和32年」
昭和31年6月混乱のうちに健保改正案は廃案になったが、厚生省は12月の国会に再び法案を提出した。
日医は全面反対を打ち出し、32年に入ると東京の各医師会が次々と大会を開き、特に監査の強化につながる二重指定制度に絶対反対を決議した。
しかし法案は一部修正のみにで衆院を通過した為医師側の不満は高まり日医の小幡会長以下執行部は総辞職の事態となった。
総辞職翌日の3月18日、東京両国の旧国技館で、医師会と歯科医師会が主催する「健保改悪絶対反対全国医師、歯科医師総決起大会」が開かれた。
主催者発表で2万人を超える医師、歯科医師が会場を埋めつくし健保法改正案の即時撤回を要求すると決議し、医療給付費の2割以上の国庫負担や1点単価の即時引き上げも要求に盛り込んだ。
しかしこの決議にもかかわらず改正案は修正の上3月31日に成立した。
健保改正案が成立して間もない4月14日、日本医師会は臨時代議員会を開いて武見太郎氏を会長に選出した。
武見氏は弱冠53歳、当選確実とされていた対立候補の松田善四郎東京都医師会長を大差で破っての当選であった。
武見新会長は官僚に統治されることなく、医学の倫理にしたがって行動すると表明し、吉田茂首相と姻戚関係にあたり閣僚とも親交があることから、以後の医療行政のあり方に大きな影響を与えた。
「昭和36年」
昭和36年4月1日、国民皆保険が達成されたものの、一方で医療担当者側の不満が高まり、行政と医療側に保険者を巻き込む形で闘争が続いてきた。
日本医師会は保険医総辞退を切り札に、行政に譲歩を迫り、期限を8月1日とした。7月31日、日本医師会の武見太郎会長は、与党代表の田中角栄氏、灘尾弘吉厚相と最後の意見調整を終え、合意文書を携えて戻ってきた。午後4時10分前のことである。8月1日まで残すところ8時間というギリギリの時点で総辞退は回避され、この結果が臨時ニュースで報じられると、実施に備えて戦術の説明に奔走していた医師会幹部は、急転直下の解決に戸惑う人も多かったという。
その時の合意四原則は①医療保険制度の抜本的改正 ②医学研究と教育の向上と国民福祉の結合 ③医師と患者の人間関係に基づく自由の確保 ④自由経済社会における診療報酬制度の確立
なお、右により、8月1日に予定の保険医総辞退は行われないこと、厚生大臣の設置する懇談会に日本医師会会長と日本歯科医師会会長が参加することなどをうたっている。
「昭和37年」
診療報酬の地域差制度は昭和19年に都市と地方の物価の相違から設けられたが、その矛盾を指摘されながら18年が経過した。
日医の武見太郎会長はこの歴史的懸案を解決しようと全国に呼びかけ、昭和37年4月24日東京・台東体育館において「公約違反糾弾・地域差撤廃 全国医師・歯科医師・薬剤師大会」を開催し、大田区医師会も呼び掛けに応じた。
このとき日医は医政活動に初めて薬剤師を加えることにより運動の裾野を広げ、地方での支持を固めた。
結局良く38年9月ようやく乙地はすべて甲地並みとなり乙表は乙の一のみになった。
しかし大会のもうひとつのテーマである再診料については日医の総辞退を賭けた取り組みにもかかわらず結論を得るに至らなかった。
「昭和44年」
日本医師会は11月28日政府の低医療政策に抗議するため、各都道府県医師会に対し、12月1日を期して一斉休診を実施するよう要請した。これを受け、12月5日の静岡県を皮切りに全国各地で一斉休診に踏み切る医師会が続出した。
この結果、平均7.72%だった引き上げ幅を9.74%とし、超材料の固定点数化をはずし入院時医学管理料の新設も認める案が提示されたが、これに反発した健保組合との調整がつかなかった。
12月21日都医は各地区医師会の副会長、担当理事を招集し一斉休診の実施方法について討議した。1月1日の医療費改定実施日に間に合うギリギリの12月24日、都医傘下の地区医師会は足並みをそろえて一斉休診に突入した。
大森医師会はこの事態について患者はもちろん、地域の一般住民に趣旨を理解してもらうことが大切であるとの認識から、あらかじめ事情を説明するチラシを印刷し、患者に配布。そのためもあって、休診当日もあまり混乱がなく推移した。また会員にさらなる協力を要請する広報誌を郵送したほか、再度の一斉休診実施に備え、チラシ一万枚を区民に配布して理解を求めた。
このような取り組みの結果、45年2月1日ようやく8.77%の引き上げが決定、また内科再診料3点が新設された。
「昭和46年」
昭和36年の保険医総辞退は直前に回避されたものの、後に禍根を残す形となった。根本的な是正策が示されぬまま10年が経過し、医療システムのひずみが蓄積されていった。46年1月、中医協全員懇談会の席上、医師側委員が、スライド制の導入や薬価基準改正のマイナス分補填などを含む医療報酬緊急是正についての審議を求めた。
これに対し公益側は問題点を整理して議論のたたき台を作り、次回に提出すると提案した。
2月18日、中医協に配布された「診療報酬体系の適正化について」という文書がいわゆる「審議用メモ」として物議をかもすことになった。
これは各方面の意見をまとめた資料という形をとってはいるが従来の行政姿勢を押しつけるもので、黙過できない重大な問題を含んでいるとして医師会側は反発を強めた。
46年4月14日、医師会側は一斉休診を実施し、神田共立講堂で全国より2500名が参加して全国大会を開き、保険医総辞退をもって抗議することを決議した。
これを受け、大森医師会は5月13日保険医抹消届け提出決定の臨時総会を開いた。
この総会の決議により、大森医師会は日医、都医の指示に従い、6月30日を期して一斉に辞退届けを提出、7月1日保険医辞退に突入した。7月28日に至り佐藤栄作首相、斉藤昇厚生大臣、武見太郎日医会長の三者会談が行われ合意に達したとして、保険医の辞退体制を解除することになり、8月1日健康保険による正常診療を再開した。
三者合意の条件は、物価や人件費スライド制を加味した医療費引き上げ問題に積極的に取り組む、医療保険の抜本改正について次の通常北海に健保改正案を提出するなどの条項を含む12カ条。
大森医師会は8月6日臨時総会を開き、経過報告と保険医辞退取り下げを了承した。
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写真の垂れ幕には「医療の主体は医師である」という主張は…ちょっと今とは環境が全く異なりますが、当時は中医協の解体なども求めていたのがわかります。当時の平均寿命は67歳くらい、乳児死亡率は今の10倍(当時は子供が多かった‥小児科産婦人科は今よりもたくさん診ていたと思われます)。
http://www.pref.miyagi.jp/kasen/pdf/chisui-shiryou-17-t(1-4).pdf
さらに医師の人数が異なります。昭和30年は9.4万人、昭和40年でも10.9万人。人口10万人あたりで昭和30年105人、昭和40年111人。今の半数以下しかいなかった計算になります‥循環器内科など昭和30年はたった3,631人‥心臓カテーテルなどなかった時代ですから当たり前です。
http://www.jhf.or.jp/junkanki_db/no7.htm
自分としては「いつから日医は戦わなくなったのだろう?」って思いましたし、やはり参考になりました。自分の生れる前の時代、日医は常に先頭を切ってお役所や政権と戦っていた。今は?
「最近の日医はお達者クラブのようだ」と日医会員の先生は僕にメールを下さいました。まぁ、首脳部は危機感あると思いたいですが、この辺、「変わらなきゃ」ですね。
以下、今回は参考にしませんでしたが…医師会についての記載があるリンクです。
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