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ほぼすべての病院、医院が、医師賠償責任保険に入っていると思います。
勤務医であっても、学会等の団体扱いの医師賠償責任保険に入っている先生方は多いことでしょう。
しかし、最近某病院の院長に指摘されてはっとしました。
異状死とされ、刑事告訴された場合には、民事ではないので医師賠償責任保険はつかえないのだそうです。
自分で弁護士を頼むしかありません。
本来善意の医師が刑事告訴されるという事態は想定されていなかったのでしょうね。
日本は医療の内容に司法が介入するという、世界の中でも特異な国になってしまったようです。
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CertificationとCredentialing
米国のある著名なDrが、生涯教育講演の中で、医療の質の担保には、双方をしっかり考えることが重要だという話をしていました。
日本語ではなんていうのでしょうね。
資格証明と信任でしょうか。
どうやらよい日本語訳はなさそうです。ちゅうことは、日本ではあまり区別して考えられてないということでしょうね。
Certificationはある人がある資格を有することの証明です。例えば、医師免許がこれに当たります。医師免許があったって、すべての高度医療をできるわけではありません。
Credentialingとは、資格を有する人が、カテや手術等の専門的な業務を行う場合、それを認めるかどうかの判定をおこなうことという感じでしょうか。
うまく訳せなくてすみません。
わが国では、certificationは結構厳密に行うのですが、credentialingについては、だいたい部長の裁量ということになるのでしょうね。そういえば、日本にはセクハラ委員会はあっても、Credentialing Committeeなんて組織、大学でも病院でもありませんよね(笑)。
他の職種でも、歴史が新しく、欧米から制度を輸入した航空関係は、きびしく乗務員のCredentialingを行いますが、たとえば司法の分野では、裁判官や、検事、弁護士さんにシステムとしてCredentialingを行うという話はあまり聞きません。私が知らないだけかもしれませんが、だいたい経験をつんで、年功序列で上がっていくのではないでしょうか。検察が起訴すればほぼ有罪になるという国では、アウトカムはわかっているので裁判官のCredentialsは評価のしようもないのかもしれません。
医師でも、一旦certificationを受けて医師免許をもらうと、そのまま生涯有効です。
こんなことを言うと、5年ごとに試験を受けろという話が出てくるのですが、それはcertificationとcredentialingを混同した考え方です。Certificationの見直しをするには社会的コストがべらぼうにかかり、それでなくても少ない医師がもっとへり、えらいことになってしまいます。後でも述べますが、ペーパーテストは却ってヤバイのです。必要数の医師を養成してこなかった政策がわるいのですが、今日はそんなことをいいたいのではありません。
Credentialingには、必ずしも試験は必要ないのです。だいだい試験をする立場の医学部教授が日本では現場であまり臨床をやっていないものだから、そういう人たちが問題を作ってもお話になりません。Credentialingには、筆記試験ではなく、分野にもよるでしょうが、どこでどういう修行をしたか、どういう症例をどれだけ経験したか、アウトカムは標準的だったか、どれだけ勉強したか(CME)、同僚の評価はどうか、本来はそういう評価をしなければなりません。
事故が起こってしまってから調査することも必要ですが、マニュアル通り行かない医療の世界では、まず予めCredentialingを適切に行うことのほうが重要ではないでしょうか。
日本人は基本的に控えめな人が多い(たぶん)ので、いままでcredentialingはあまり大きな問題にはなってこなかったのだと思います。やりたがりの多いアメリカ人では、credentialingをきっちりしておかないと、とんでもないことになりそうです。ドク虎の偏見かも知れません。日本語の読めるアメリカ人の方、ごめんなさい(ペコリ)。
でもcredentialingを行政にマル投げすると、またとんでもないことになりそうです。本来プロフェッショナルな集団である医学会、あるいは医師会の仕事ではないでしょうか。シニアドクター達のしんどいけれども大切な仕事だと思います。
「ロゴス」<の>弱い日本人。「エトス」と「パトス」<に>弱い日本人。私も典型的日本人なので、あまり人のことは言えませんが、それでも「ロゴス」の重要性を強調するのがだんだんむなしくなりつつあるこの頃です。
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政府与党や厚労省の考えているところの医療事故調査委員会がいろいろ物議をかもしています。
もし正しく事故調査ができるのならばそんな結構なことはなく、誰も反対しないのですが、医療現場を知っているものから言わせてもらえば、この医療事故調査委員会、とても正しい判定が可能だとは思えません。
理由はシンプルです。
「病気」というのは、ホメオスターシスが崩れた状況です。
つまり、正常な制御機構が破綻した状態です。以前どなたかがおっしゃっていましたが、医療とはまさに暴風雨の中を飛ばざるを得ない飛行機のようなものです。
通常の状態が破綻しているのです。
暴風雨の中を強制的に飛行させておいて、墜落した場合、パイロットの技量が足りなかったのか、なにか重大なミスをしでかしたのか、機体に欠陥があったのか、はたまた天候が悪すぎたのか、墜落してからの調査で正しく判明するのでしょうか。
しかも、嵐の中を飛んでくれるパイロットがもはや極めて不足している状況下で、調査にまわすまともなパイロットはいるのでしょうか。
それとも地上勤務しか経験したことのない人、あるいは航空業界以外のひとたちが調査するのでしょうか。
「事故」の定義も曖昧です。
すべての死亡例が対象だとすると、究極的には人間いつかは死にますから、医療を受ける国民の数だけ調査をしなければならないはずです。医療費は削るというのに、すごい予算がかかります。
一部の死亡例に限るとすると、まずその「一部」をどう選ぶのかが難しいです。最初にあやしいという結論がなければエンロールできないことになります。この時点でセレクション・バイアスがかかります。でも調査しなければ、怪しいかどうかはわかりません。理論的矛盾です。かくして声の大きいものが勝ちます。
さらに、十分な調査には、かなりの人手とコストがかかります。医療費を削っておきながら、その予算は出すとでも言うのでしょうか。十分な予算の裏づけのない事故調査なんて、絵に描いたもち、建前のみになってしまいます。
ドク虎には、このような問題山積の制度を性急につくってしまおうという人たちの発想がよく理解できません。
ちょっと考えただけでも理論的に破綻していることがわかるシステムを大まじめで提案するとは、政府与党も厚生労働省も焼きがまわったものです。
まあ、薬の添付文書は絶対だというようなとんでもないことを言う弁護士さん(教授)が委員に入っていますからねえ。
添付文書を厳密に守れば、薬剤溶出性ステントを留置された人たちは抗血小板薬を飲めなくなり、遅発性血栓症で急性心筋梗塞が頻発し、日本は世界の笑いものになるかもしれません。似たような事例が多々あります。
いやしくも法律の専門家が医療について発言するなら、そういうことまで勉強して責任を持って発言して欲しいです。
教授という人種は、論理的思考能力には長けているはずなのですが・・・
「添付文書は正しく、必要十分な内容が記載されている」という、根拠のない前提に基づいて理論を組み立てているのです。
ンなこと、あるわけないやん。
論理的思考能力に長けている人たちのなかから弁護士や教授になるというのも、単なる思い込みだったのでしょうか・・・
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忙しい若手ドクターのために
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加藤良夫先生
南山大学法科大学院教授
弁護士
M3でみつけました。
法律家としての意見でしょうが、このままでは由々しき事態です。
(以下M3より引用)
「薬の有効性や安全性、化学的な構造などに関する知識を最も蓄えているのは製造販売会社である」という前提のもと、添付文書は薬事法の定めに従って製造販売会社により作成、提供されています。薬は化学物質の塊です。その塊にはさまざまな“情報”が含まれています。
薬の成分としての化学物質の組成はどうか、どういう形で保存し、どのように投与するか、どうすれば副作用を最小限に抑えられるかなど、製造販売会社が持っているさまざまな情報の中で、重要なものを正確かつ明快に提供することが添付文書の大きな使命といえるでしょう。つまり、人命を左右しかねない情報が記載されているという点で大変に重みのある文書と考えられるのです。
その重要性が認識されながら、医師は「患者のために」という考えを優先してしまうことがあります。しかし、それが「患者さんのため」という気持ちから発したものであったとしても、添付文書から逸脱する行為は特段の合理的理由がない限り原則として許されないというのが法律の考え方です。」
(引用終わり)
医師から見ると、とんでもない考え方です。
添付文書は、神様ではありません。
この法律家が思っておられるほど、添付文書はサイエンティフィックではないのです。
PL法や経済効果、厚労省のからみなど、いろいろな思惑が働いているのです。
循環器分野に限っても、古い薬アスピリンが狭心症の治療薬として認可されたのはごく最近のことです。
それまでは、「適応外使用」でした。世界では虚血性心疾患に対する有効性は圧倒的なエビデンスに基づき常識だったにもかかわらず、日本では、添付文書上は長年使えなかったのです。
アスピリン内服は血小板を押さえますので、当然、消化管出血などの副作用も伴います。両刃の剣です。しかし、過去においては、保険適応がないからといって指導を受け、投与を中止した某循環器の病院では、それから明らかに急性冠症候群の頻度が増え、緊急カテーテルで大忙し、医師と患者さんは悲惨、医療費が上がって病院の事務はニコニコという、笑うに笑えないエピソードもあったようです。
でももし良かれと思って処方し、急性心筋梗塞にはならなかったとしても、消化管出血をおこしたら、適応外使用ということで訴えられ、負けるのですね。
こんな安いふるい薬の治験をしても、製薬会社は利益が上がりません。でも有効です。外国からも、「日本はどうなっとんねん」といわれます。
それでやっと低容量アスピリンが認可されました。
ステント後のパナルジンも、実は添付文書上は使えないのですが、使わないと薬剤溶出性ステントは遅発性血栓症を起こして危険なので、黙認です。
これでも添付文書に従えというのでしょうか。
もうため息がいくつもでます。
抗生物質も、特に古いアミノグリコシド系などは、安くてよい薬であるにもかかわらず、TDMからみると、添付文書の量では到底効きません。添付文書に従っていては理論的にきくはずがないことを、恥ずかしながら最近知りました。
添付文書の通りに使って有効なのは、新しい高価な抗生剤のみのようです。どこかの陰謀かもしれませんね。
ちなみに、ドク虎が講演をお聞きしたある薬学部の学長は、「どうぞ訴えませんから、私には添付文書に従わずに古い薬を有効量だけつかってください。」と苦笑いしながらおっしゃっていました。
ちなみに、添付文書の「禁忌」にも、臨床医として納得し難いものが多々あります。
この法律家の教授先生、そういうことはまったくご存じないようです。医学の根源的な性質をご理解なさっておられないようです。臨床経験がなく、法律家だから仕方がないのかもしれません。
ご高説通りにすると、EBMではなく、完全にlegal based medicineになります。そんな医療、私自身は受けたくありません。医療は自分自身が受けたい医療を人に行うというのが基本哲学です。
もちろん、法律家らしく逃げ道をつくっておられます。
「特段の合理的理由がない限り」
なるほど。さすが法律家です。でもそれなら世の中「特段の合理的理由」だらけになってしまいます(笑)。
添付文書はあくまでガイドラインとしての範疇にとどめるべきで、法的効力を有すべきものではないはずです。この先生が、「医療事故調査委員」になったとしたら、ぞっとします。
しかも、このサイトは製薬会社がスポンサーです。
やれやれ。
製薬会社の担当者でさえわかっとらんのですね。
本来は、ドク虎のような臨床現場の雑魚が吠えるのではなく、医師会、医学会の重鎮の先生方が音頭をとって、早急に法曹界に申し入れをしていただかなければ、おそろしくて人のためになる医療はできません。
誰に言えばいいのでしょうか。医学会の重鎮たち、極楽トンボすぎませんかねえ。
医師っておめでたい人種??
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わが国の国民皆保険制度の下では、医療の値段はすべて国が決めます。統制経済です。
驚くべきことに、そこにはコスト計算という概念が全くないのです。
これこれこういう処置を安全に行うためには、医師、看護師、薬剤師、放射線技師、ME技師、臨床検査技師が何人、何時間必要で、人件費がいくら、薬剤がいくら、高額な医療機器の減価償却がいくら、などなど。
資本主義経済では常識の、コスト計算が無視されているのです。
たとえ手抜きでやっても、ベテランが丁寧にマンパワーをつぎ込んでやっても一定額が支払われます。
専門医が行う再診料が、500円ちょっとというのも笑わせます。
これでは、とても医師、看護師、事務員さんたちの給与や、オーダリングコンピュータの高額な減価償却費は出ません。事実上、病院は外来診療をするなということなのです。
日本ではコスト計算をせずにエビデンスのないまま診療報酬が決められていることは、米国系の某コンサル会社にとっては、驚きだったようです。
医療安全やインフォームドコンセントが強調されますが、今の日本の診療報酬を考えると、とても安全な医療、納得のいく時間をとった説明などができるようなコストではありません。
そうはいっても、そのままでは危なくて仕方がないので、現場のボランティア精神でなんとかまかなっている状態です。まるで神風特別攻撃隊です。
病院でも、やっとコスト計算をやろうということになってきているようですが、コスト計算をしたとしても、現状の医療費で、専門職に諸外国並みの正当な報酬を払えば、日本の医療は崩壊します。
日本の医療制度はソビエト連邦の社会主義と同じ運命をたどるのでしょうか。
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忙しい若手ドクターのために
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通勤の車の中で、ニュースを聞いていると、厚労省は、小児科、産科医不足をうけて、一年目の研修医のローテーションで、小児科、産科を回れるように変えるようです。
理由は、
「研修医が一年目にローテートする科に惹かれ、二年目にローテートする小児科、産科が減るから」
だそうです。
そのことの是非はともかくとして、理由は笑止千万です。
一年目にローテートするところに惹かれるのなら、内科や外科の志望者が増えたのでしょうか。
連続入局者ゼロという、某外科を知っています。
内科の入局者も増えていません。
これって、ローテートの制度がまずかったので、ちょっと後戻りさせるということに他ならないでしょう。はっきり認めたらどうですか。
医師の世界は、残念ながら、数ヶ月ローテートしたからといって、できるようになるほど、甘いものではありません。
数ヶ月ずつ各科をローテートしてきた3年目の人たち、高度医療をになう急性期病院の戦力としては、はっきりいってあぶなっかしくて使い物になりません。
以前の3年目の人たちとはえらい違いです。
中堅以上のドクターの髪の毛が抜けつつあります。
決して、研修医の先生たちの能力が劣っているのではありません。
個人的にはとても優秀な人たちです。
しかし、今の研修医制度は、極論すれば2年間学生の期間を延長したようなものです。
2年間、医師免許を持ちながら、責任は先輩がとってくれる、まるで学生実習のようなものです。
これでは、医師として成長できません。
最初からすべてを見ることのできる医師を速成栽培しようなんて、無理なのです。
制度が悪いのです。
立場上いいにくいのですが、はっきりいいます。
現場を無視して、医療費削減のみをはかり、制度を猫の目のようにコロコロ改悪し、年数パーセントずつ、まるで蛙の生ゆでのように、外国に比べて圧倒的に低い診療報酬をさらに削り、医療を破綻させ、国民の健康をないがしろにする、今の日本国政府は、万死に値します。
医療費がなければ、プライオリティーを考え、経済的に工面するのが、政治、行政の仕事なのではないでしょうか。
医療現場や弱った病人を苦しめてどうする!!
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たとえ大切なものであっても、それを絶対化するところから悲劇が始まります。
お金
仕事
名誉
地位
安全
命
不老不死
この世の中に「絶対」はない。
これらを「偶像崇拝」してしまってはいけないのです。
「偶像崇拝」した結果は、歴史が教えてくれる通りです。
物理学の教えるところによると、時間、空間さえ相対的です。
あのニュートンでさえ、絶対的な空間座標や時間があると考えてしまったのでした。
すべては、「相対的」です。
自分単独で存在するのではなく、相手があってこそ自分があるのです。
相手の気持ちを想像すること、人の意見を聞くことが大切な気がします。
あまりにも忙しすぎると、難しくなりますが(反省)。
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イスラームについての講演の話の続きです。
中東のイスラーム諸国で、バスに乗るとします。
バスが、ある目的地を通るかどうかを尋ねると、通らない場合は、「通らない」といってもらえるそうですが、通る場合は、「はい」とは言わないそうです。
何というのでしょう?
「アッラーが思し召されるならば・・・」という答えが返ってくるそうです。
びっくりしますよね。
いったい、行くのか行かんのか、はっきりせい、なんとええかげんな、と。
しかし、よく考えてみると、そこを通ることになってはいるけれども、それは人間が仮に決めたことで、われわれ人間には厳密にはほんとうのことはわからない。
ただ、アッラーのみが知る、ということらしいのです。
その発想の謙虚さに、ちょっと、感動しました。
私たち日本人、普段、恵まれすぎて、思い上がっていますよね。
電車が時刻表通り発着するのは当たり前。
飛行機がちゃんと時刻通り飛ぶのは当たり前。
救急車がすぐに来て、当たり前。
お産が無事なのは、当たり前。
予約無しで、飛び込みですぐに見てもらえて、当たり前。
専門医がいつも対応してくれて、当たり前。
病気が治るのは、当たり前。
当たり前のことが起こらないのは、誰かが悪い。
しかし、世界の国々では、こんなことが当たり前の国のほうが、実は少ないのです。
本当は、「アッラーが思し召され」ないと、起こらないかもしれないのです。
たとえ「アッラーが思し召され」ても、多くの人たちが陰ではたらいてくれないと、実現しないことなのです。
厳しい自然環境、社会環境におかれた人たちの発想なのかもしれません。
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もし急ブレーキの効かない自動車の運転をさせられたら、どうしますか?
あぶなくて、運転できませんね。
輸血は、急ブレーキです。
必要ないなら安易にしないほうがよいにきまっているのです。
でも、どうしても必要なことがあります。
すべての観血的手技には、たとえ確率は低くても出血のリスクがあります。
輸血ができるという前提で、いろんな高度な医療行為が発展してきたのです。
高性能のブレーキがあってこそ、高性能エンジンをつめるのです。
しかし、すべての医療行為は受け入れるが、輸血だけは拒否するという人たちがいます。
その人たちの主張の論理性、正当性をここで議論しても仕方がありません。
しかし、これは、急ブレーキを使わずに運転しろという要求と同じです。
別に目的地にたどり着けなくても文句は言いませんといわれても、そういう問題ではありません。
急ブレーキをかけなくてよいように安全運転していても、とづぜん目の前に子供が飛び出してきたら、運転手はブレーキをふむでしょう。
急ブレーキをかけた医師を責めないでください。
みずからの信念に従うのもよいですが、これ以上、医師を苦しめないでください。
おねがいします。
考えてみてください。
たとえ人が飛び出してきても絶対急ブレーキはかけないと約束して運転してくれるプロのドライバーっているでしょうか?
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木を見て森を見ず。
細かい点に注意しすぎて大きく全体をつかまない(広辞苑)こと。
森を見て木を見ず。
これは、全体ばかりを見て細かいことに注意しないということになるのでしょうか。
現場は「木」です。
組織は「森」です。
組織の長は、「森」に目を奪われがちです。
自分の組織が、もっと大きな「森」、すなわち、社会においてどうかということまでも考えなければなりません。
長といえどもスーパーマンではありません。
組織が大きくなればなるほど、現場のひとつひとつに気を配ることは難しくなります。
翻って、現場の人間は、全体像がつかめません。
仕事が忙しければ忙しいほど、目の前の仕事をこなすのに精一杯で、自分の所属する部署以外はどういう状況なのかを知る機会に乏しいのです。
周囲の状況が安定していれば、「木を見て森を見ず」「森を見て木を見ず」でも、ほとんど舵取りをする必要がないわけですから、そうそう問題は生じません。
しかし、不安定な状況、一刻一刻変化するような状況では、えらいことになってしまいます。
朝令暮改、現場は右往左往です。
今の日本の医療がおかれた根底には、こういうシステム工学的な欠陥があるのではないでしょうか。
これを解決するには、一度システム工学的に社会機構を考え直し、再構築していかなければならないように思います。
江戸時代から続いた、○×大臣+官僚システムが、これだけ変化のはげしい世の中で、うまく機能しているとは思えません。
現場とトップのフィードバックをいかにかけるか。
日本は、「物言えば唇寒し」で、現場からトップへのフィードバックがかかりにくい(というか、正式なフィードバックシステムが構築されていない)社会です。
国は、「ほう・れん・そう」なしで動いているのです。
キーワードは、フィードバックだと思います。
このままでは、トップは裸の王様、現場も不幸です。
システムエンジニアの出番です!?
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