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大阪音大の教授で、コンサート・ピアニストで、かつ文筆家でもある青柳いづみこさん。
朝日新聞の書評も担当されていた、異色のピアニストです。
中央公論新社刊「ピアニストは指先で考える」という本の中で、アーティストの進路について述べられていました。
「就職することだけを考えたら、たぶん留学しないほうが有利なのである。(中略)それでも、私は留学をすすめる。だって、やっぱり全然違うことですよ。留学のいちばんの効用は、それまでのルーティンワークを一度リセットする機会を与えられることだと思う。」
「ここで頭にとめておいてほしいのは、それぞれ選び取った進路でも、そのとき最善だと思った道が必ずしもそうではないことがあるということだ。裏を返せば、そのときは最善ではなかった道が、本当に自分に適していたというケースもある。」
お医者さんの世界でも、一、二年留学したからといって、英語がペラペラになったり、英語論文がすらすら書けたり、そんな魔法のようなことはおこりません(汗)。
ドク虎のように、留学中にボスがどこかにとんでっちゃって、帰るところがなくなるということも・・・それでも、それまでの職場を失ったとしても、環境が変って得られる貴重なものがあると思います。
それまでの職場がリセットされますが、それもまた経験という意味ではよいかも知れません。
井戸の外の世界を知ることになります。
これが、事務屋さんと違って、退職金や失業保険はもらえませんが、お医者さんの強みかもしれません。「包丁一本、さらしにまいて・・・」の世界です(笑)。
言葉はうまくならなくても、外国人としての異文化体験は、貴重です。人生に幅ができます。
そういうお前、幅ないやんか、と突っ込まないで・・・横幅はないけれど腹はでています(笑)。
備え在れば憂いなし。何事も早めの準備、大切です。
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題名のない音楽会
長寿番組です。
世界中でクラシック音楽離れが言われている中、地味な番組なのによく続いているなーと思います。
4月から、佐渡裕さん(指揮者)が司会者です。背が高くて、中年ながらかっこいい。ドク虎のようなおっさんにファンになられても、あまりうれしくないかもしれませんが。
リハーサル風景が写りました。本場ベルリンは、ベルリン交響楽団(ベルリンフィルではありません)です。
英語かとおもいきや、何と、ドイツ語です。
パリは、ラムルー交響楽団の常任指揮者ですから、普段はフランス語でしょうね。
指揮者として一流であるばかりか、日本語、英語、フランス語、ドイツ語が話せる日本人だったのです。
しびれました。
共演者に、なぜそんなにドイツ語ができるのですかと聞かれて、レナードバーンスタインの弟子だったときにウイーンに2-3年住んでいたから、とさりげなく答えておられました。
しかし、これはうそです(たぶん)。謙遜です。
もはやおっさんになってから(失礼)外国に2-3年住んだからといって、それだけではペラペラにならないことは、ドク虎がよーく知っています(汗)。
これから留学する先生方、幻想を抱かないでくださいね(笑)。
もっとも外国人の彼女(彼)をつくれば上達するかも(笑)。日本人の場合、カップルになっちゃうと言葉によるコミュニケーションをあまりとらなくなるのでだめかも(汗)。
きっと佐渡さんは耳がよいうえに、何とか自分の思いを相手に伝えたいという、音楽に対する熱い思いが半端じゃないのでしょうね。
彼が言っていたことは、英語でも通じるけれど、ドイツのオーケストラにはドイツ語でやるのがいいと。
音楽のように、non-verbal communicationが大事な分野でも、やはり言葉による意思疎通を大切にされているようです。
かっこいい指揮の水面下には、大変な努力が隠されているように思います。彼のいう、「苦しいけど楽しい、くるたのしい」世界です。
われわれの仕事でも、苦しいけどやっぱり苦しいだけ、ではなく、佐渡さんのような「くるたのしい」世界を創ることができたら・・・
くる楽しい世界へのパスポート、なんちゃって。
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もうすぐAHAの締め切りです。
ことしは、ジャズの街、ニューオーリンズです。
最後の駆け込みのお役に立てるかもしれません。
備え在れば憂いなし。
何事も早めの準備、大切です。やろうと思っていると、緊カテがはじまりますよ(汗)。
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あまり書きたくないトピックです。
書いていて勤務医としてのモチベーションが下がるからです。
しかし、KYJ(空気の読めない爺)かもしれませんが、最近ちょっと気になっているのであえて書いてみます。
最近マスコミなどでもやっと、仕事の割に勤務医の給与は低いという論調が見られだしました。
しかし、これこそ今はやりのKYです。
平均1420万円(日経)という、公立病院勤務医の平均年収が低いという議論は、同年代の40―44歳男性の給与所得者の平均年収(627万円)からすれば、一般にはとうてい受け入れられないでしょう。
勤務医にも色々言い分はあります。
新聞等の勤務医の年収に関するデータにも、恣意的なものがあります。
前出の公立病院勤務医の平均年収を聞いて、実際の国公立系病院の勤務医(少なくとも私の周りのひとたち)は、えーっ、皆そんなにもらっているのー、と驚いているからです。
いったいどんな母集団で計算したのでしょう。副院長クラスの平均をとったのでしょうか。母集団をゆがめてサンプリングしたとしか思えません。
それでも、世間から見れば、勤務医の給与は高給にみえます。
たしかに、医師たち、とくに必死で受験勉強をして医学部に入り、一生懸命努力して医師になったような人たち、いくつになっても自腹で研鑽を積まなければならない医師たちにとっては、同程度の学歴の、他職種で<成功している>人たちの給与と比較すれば、勤務医の給与は決して多いとはいえないでしょう。
しかし、超一流企業の部長、取締役は、人口の何パーセントを占めますか。
受験生で医学部と同等の難易度の大学に入れるような人は、何パーセントですか。
そんなものを基準にだしても、世間は納得しません。
それこそ、KYです(私の嫌いな言葉ですが)。
出る杭は打たれる日本です。何事も、平均だと安心する日本です。
それよりも、何よりも、勤務医の労働環境、労働時間、そして多くの医師たちの頭の中に常にある医療訴訟や刑事罰に対するプレッシャーをまず問題にしなければならないのです。
収入総額を出して、労働時間の割りに安いと訴えてみても、労働基準法に守られず、学会発表中と夏休み以外は、事実上24時間、年がら年中道義的に病院に拘束される、急性期病院の主治医の実情は世間には伝わりません。
多くの場合、お金だけの問題にすり替わり、こいつら何贅沢いってんねんと思われて終わりです。
急性期医療は、見た目の重症度に係らず、故障した飛行機を嵐の中で飛ばせるようなものです。それを32時間(実質はそれ以上)単独でぶっつづけでやれば、注意力が続くはずかありません。
リンドバーグに、毎週大西洋横断単独飛行を要求するバカはいないでしょう。
若いうちはまだいいですが、今の日本のシステムでは、年をとったらいくらお金をつまれてもできなくなります。いくらお金をつまれても、過労死してしまったら、残された家族はどうなるのでしょう。
かくしてベテラン組は立ち去ります。貴重な経験と技術が失われます。
ところがどっこい、日本の厚生労働省の医師人口は、医籍登録された人数であって、実際に診療活動をしている医師の人数ではありません。それでもOECDの中ではびりケツに近い人数なのです。
ますます頑張っている人たちに負担がかかります。
患者さんにとってもよくないことです。事故のものとです。医療安全の話が出るたび、そう思います。
豪華宿舎を建てたり、年棒ウン千万だせば解決するだろうといった類の話は、本質を誤っているのです。
いまさらと思われるかもしれませんが、経験はあるが体力の衰えた年寄り(失礼)や、子育て中の女医さんも脱落せずに参加できるような、段階を追った中長期的なシステムの再構築が必要です。
精神論だけでは解決しません。
自らは現場にいない人が叫ぶ精神論ほど、むなしくひびくものはありません。
医療技術の進歩、医療の高密度化、そして要求水準の増大にともない、昔ながらのシステムが破綻をきたしています。財務省も、頭の固い検察も、ぐるになって日本の医療にとどめをさそうとしています。
大局にたった、システムの再構築が必要です。
そのためには、医師のみではなく、システム工学的な発想が必要です。
医療現場からのフィードバックも必要です。
現場を知らない、古臭い文系のお上にまるなげでは、またまたとんでもないことになってしまいます。
応援します。
備え在れば憂いなし。何事も早めの準備、大切です。
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すべてのものは過ぎ去り
そして消えていく。
その過ぎ去り消え去っていくものの
奥に在る
永遠なるもののことを
静かに考えよう。
武宮隼人
記憶にあるまま書いてみたので、細かい文言は若干違っているかもしれません。母校の高校にある、でかい花崗岩に刻まれた、初代校長の手になる句です。
皇居遥拝をしないものは、非国民というレッテルを貼られた時代、校風が敵性である、自由主義にかぶれているとして、閉校されそうになったそうです。
それを、視察に訪れた将校と酒を酌み交わし、体を張って阻止した人だと聞いています。
ある意味、KYだったのです。
生前お会いする機会はなかったのですが、石碑の言葉は、なぜか何十年も経った今でも記憶に残っています。 在学当時は石碑のことなんて、なにも気にとめていなかったのに。
おそらく、作者は宗教的な意図で書かれたのだと思いますが、科学者の姿勢にも一脈通じるものがあります。
この世の中にはいろんな現象起こります。
多くの現象はトランジェントです。過ぎ去り、そして消えていきます。
それらを詳細に観察することによって、その奥に在る、できるだけシンプルな普遍的原理を抽出することが科学者の仕事です。
翻って、日常生活でも、はたまた仕事でも、「困難にぶつかったときには、物事のうわべだけをみるのではなく、もう一つ根本に立ち返りなさい。」そういわれているように思います。
ちょっと抹香臭くなっちまいました(笑)。
発表や論文だけではなく、何事にも、感情のエネルギーと、論理によるコントロールと、そして倫理性とが必要です。エトス、パトス、ロゴスです。ギリシャ人はいいこといいましたねえ。
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KY、つまり「空気の読めない」人。
いったい空気とはなんでしょう。物事を考える場合、まず定義をはっきりさせなければなりません。
「空気」とは、広辞苑によれば、「その場の気分。雰囲気。」です。
つまりその場の気分を絶対視するのです。
ここには、人と異なることに対する恐怖があります。
正々堂々、理論を戦わせるより、付和雷同を選ぶのです。
「みんなちがって、みんないい。」の、金子みすずの詩とは対極にあります。
KYでない人は、裸の王様をみても、「結構なお召し物でございます。」といい、自らの保身を図ろうとするのですが、その保身も長続きしません。
そこには論理性のかけらもありません。
今を去ること60年前、多くの優秀な若者たちが、「空気を読んで」、全く勝ち目のない戦で死んでいきました。
今また若者たちの間で、そしてなぜか知性を代表すべきマスコミの間で、ふたたび論理を無視したKYを非難するような言葉が使われています。
きなくさいにおいがします。
「和して同ぜず」
私はこちらの論語の言葉の方が好きです。
KYJ(空気の読めない爺)でした。
人間の感情は大切なエネルギー、しかし、理論によるコントロールが必要です。
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別にえっちなお話ではありません。
英語抄録・口頭発表・論文作成虎の巻 解説シリーズ第60回です。
スポーツは、一流選手のファインプレーを見るだけで元気をもらえますが、たとえへたくそ、珍プレーでも、汗を流して自分でやるのもまた気持ちのいいものです。
見るスポーツの場合は、えらそーに、あーだ、こーだ、と、プロフェッショナルに向かって呼び捨てで批評できますが、いざ自分がやってみると、とても、とても。
苦しいけれど、楽しいという、なんともいえない状況ですね。
自分でプレーする人は、スポーツの見方だって深まります。へたくそが、すこしでも上達すると、なんともうれしいものです。
論文も同じです。一流誌の論文を読むことも大切ですが、あれこれ批判するだけではなく、自ら論文投稿にチャレンジすると、一段と読みが深まります。
苦しいけど、楽しいという状態です。一皮向けます(笑)。人間の脳は、こういう状態が好きらしいです。
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忙しい若手ドクターのために
まず日本語で論理構成を考えてから、頭を英語に切り替えて英語論文を作る方法を提案しています。 決して怪しい巻物ではありません(笑)。固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)
まだ子供たちが小さかったころ、留学中の身で、お金もないし、飛行機を使わずに、車でジョージア州からルイジアナ州にある、学会場のニューオーリンズまで、家族を連れて出かけました。
日本では考えられないと思いますが、アパートに家族だけ残しておくのも心配だったのです。
当時は円高、かつガソリンも安かったので、10ドル(当時千円弱)で、でかい外車が満タンにでき、おつりがもらえたのです。
もちろん、インターステート(高速道路)は無料です。但しサービスエリアなんてしゃれたものはないので、トイレ休憩はインターステートをおりてすぐのところにあるガソリンスタンドに入ります。
いまや、ガソリンは値上がりし、世の中、えらい変ってしまったものです。
飛行機代を節約した分、、ニューオーリンズでは、クラシックな中級ホテルを奮発しました。
案内してくれたやや年配の愛想のいいポーターさんは、はしゃぐ子供たちを見て、独り言のようにしみじみいいました。
「我々みんな、小さかったころはエネルギーをもてあますぐらい持っていたのにね・・・あの力はどこへいってしまうのだろう。」
もう15年以上前のことなのに、なぜか印象に残っています。
大人と子供の違いってなんでしょう。
やっぱり「成長」の程度でしょうね。
こどもたちのできることは大人の目からはたいしたことなくても、それまでできなかったことができるようになることが元気つながっていくのでしょうね。
大人になっても、いろんなことにチャレンジし、成長しつづけている人は、元気なのです。
まあ、年をとっても無理やりチャレンジさせられるという面も無きにしもあらずですが(笑)。
新しいことにチャレンジしてみませんか。
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