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「英語抄録・口頭発表・論文作成虎の巻」解説シリーズというのをはじめてみようかと思います。
すこしは世間のお役に立つ(かもしれない)プログにしてみようかと。
続けられるかどうか自信はありませんが、今日は第1回です。
役に立つかどうかは、まったく保証の限りではありません(笑)。
ということで、興味のある方はお付き合いください。
論文を書くには、モチベーションを保ち続けることがもっとも大切です。
研究者が論文を書くのは当たり前です。それが仕事ですから。
ではなぜ臨床医が論文を書くのでしょうか?
お医者さんは患者さんを診るのが仕事のはずです。
論文を書いたりする暇があるのなら、医師不足だといっているくせに患者さんを一人でもたくさんみんかい!ということになるのではないでしょうか。
一般の方々はよくご存じないかもしれませんが、医療者の間では、勤務医を中心に日本では医療崩壊が叫ばれて久しいです。
中堅層の勤務医を中心に、急速に勤務医から開業医への「立ち去り」現象が起こっています。
医療に限らず、どの分野でもそうですが、30代後半から40代は、きついです。
どの分野でも、ある程度仕事をこなせるこの世代の労働賃金は、安くおさえられています。
その分企業は設備投資にまわすことができ、高度成長をもたらしたのです。そして、終身雇用制を支えていたのです。
むかしは、この搾取に耐えて乗り切れば、未来はばら色?でした。
少なくとも、終身雇用制のもとでは、年をとってからは実質労働にみあうよりも高い賃金を手にすることができたのです。いわば形を変えた投資信託のようなものだったのですね。
ところがこれは、崩れています。回収できるころには、首です。
勝ち組であるはずのトップクラスの管理職でさえも、割に合わないストレスの多いシビアな経営手腕を要求されます。桃源郷はなくなったのです。
官僚さんたちがかろうじて天下りという桃源郷を維持しようとしていますが、このご時勢では早晩むずかしそうです。官僚さんたち自身も若いころは労働を国に搾取されていますから、これから桃源郷もなしでは、モチベーションが下がってしまうでしょうね。これからの行政が心配です。
桃源郷がなくなった今、中堅層のモチベーションはなんでしょうか?
受身に仕事をこなすだけでは淘汰されてしまいます。
(かといって上司に逆らっても首ですけどね。)
自分を鍛えて、社会の役に立つ自分をつくっていくという、自己実現しか生き残る道はなさそうですね。
今はそういう意欲のある社員の自己実現の場をギブアンドテイクで提供できる会社が生き残っていくのだと思います。
翻って医師の場合、研修医のころは、日々の労働が自分の成長にダイレクトにつながっていきます。先輩に教えを受けながら、つきつぎと自分にとって新しい患者さんを経験し、先輩の指導の下で治療や、手技を覚えていきます。いつか独り立ちできる日を夢見て。
十年選手にちかづくと、専門分野では一通りのことはできるようになります。新しい経験をする喜びも少なくなります。自分の成長は遅くなります。
後輩の指導もしなくてはなりません。いままで先輩におせわになったのですから。
当直もあります。これはきついです。ほとんど「寝当直」というのはなくなりました。当直の翌日も通常勤務です。実質32時間以上ぶっとおしです。当直明けでやっと帰れた日の夜でも患者さんが悪くなれば呼び出されます。
しかもだんだん若くはなくなってきます。人の役に立つやりがいのある仕事であることはわかっているのでがんばろうとはするのですが、働くほうも人間です。心と体がついてこなくなります。
技術や知識の伸びもスローダウンしてきます。給料も伸びません。元気がなくなってきます。
そこで、立ち去りがおこります。べつに金儲けに走りたいわけではないのです。人間的な暮らしがしたいのです。
勤務医が減ります。
いったい、救急、重症疾患は誰がみるのでしょう?残された人たちに、さらに負荷がかかります。
さらに立ち去りがおこります。
学会活動、論文執筆をこなすということは、こういう状況で、ドクターにさらに追い討ちをかけるわけです。
とんでもないことです。
臨床病院は、臨床だけやってればいいんや。
と、私もそう思っていました。
実際、時間的、肉体的には、ますますきつくなります。
しかし、学会発表や論文発表の適切なサポートをしてあげることにより、驚いたことに、若手から中堅が元気になります。「俺たちはまるでマゾやなあ。」とぼやきつつも、立ち去りが食い止められたのです。そして、さらにうれしいことには、やる気のある若手が集まってくれて、そうこうするうちに人数が増え、労働条件も十分とはいえませんが改善されてきました。
もちろん、みんなのがんばりと周りのサポート、病院幹部の理解があってのことですが。「嬉しい驚き」でした。
論文を書くには、物事を論理的に考えなければなりません。これが、診断治療にも、役立つのです。ガイドラインだけでは割り切れない、現実の医療を深く観察し、考察しなければ書けません。
臨床論文を書いた先生方は、臨床医としても格段に成長してくれます。
そして、なによりも、もともとサボりのドクトル虎の巻が恥ずかしくなるくらい、やる気を出してくれます。
まさに自己実現の場の提供ですね。
ドクターでも十年選手ぐらいになると、すごく「やる気」に個人差がでてきます。
腰が軽く、何事もポジティブ思考で気持ちのよいドクターもいれば、なかには役人根性丸出し(いいお役人に失礼ですね。すみません。)の、ネガティブなドクターもでてきます。
この違いは、いろんな意味で自分を成長させ続けることができるかどうかによるような気がします。
学会発表や論文は、勤務医を元気にします。 あまり高尚な答えではないかもしれませんが、タイトルの質問に対する答えは、「勤務医が元気になるため」です。
担当医が元気になれば、患者さんも元気になります。医療の質も高まります。勤務医が気持ちよく患者さんを受け入れることができれば地域の開業医さんもハッピーになります。
基幹病院が生き残っていけるかどうかは、極論すれば、そこのプロである職員が論文を書くかどうか、それを病院がどの程度サポートできるかにかかっているのではとさえ感じます。
しかし、忙しい中で論文をかくには、「ちょっと書いてみよーかなー」では、必ず途中で挫折します。
明確な動機付けと周囲のサポートが必要です。
最初は怖い部長の命令でもよいかもしれませんが(笑)。
ひとたび成功体験があれば、どんどん自分からはまっていきます。
元気になります。
指導するほうもされるほうも大変ですけどね(笑)。
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たまった仕事を片付けようといざパソコンに向かうと、なぜか仕事と関係のない、ブログの文章が浮かんでくるという、ドクトル虎の巻は病気かもしれません(笑)。
「仕事したくない病」でしょうか。
一種の逃避行動でしょうね。方々から、はよ仕事片付けんかい!という声が聞こえてきそうです。どなたかよい治療法をご存知ありませんか?
それはさておき、「初心忘るべからず」というのは、「学び始めた当時の未熟さや経験を忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意(広辞苑)。」ということだそうです。
ベテランのマンネリ化を戒める言葉とされています。
しかし、最近、これはちょっと違うのではと思いはじめました。
やっぱり、ベテランはベテランです。名人は名人です。心臓カテーテル一筋20年のドクターが、習い初めて2年目のレジデントに負けるわけがありません。バイオリンを始めて2年目の人が出す音色が、30年弾いている名人が出す音色にかなうわけはありません。
ベテランに対して、習い始めのころのことを忘れるなという必要はあまりないような気がするのです。
これはもしかすると、ベテランに対して、「常に何か新しいことにチャレンジしていなさい。」という意味ではないかと。
またまた珍解釈です(笑)。
経験の少ないころは、日常がそのままチャレンジの連続です。ドキドキ、ハラハラです。
ところが、だんだん年をとると、マンネリ化します。保守的になります。
環境が変わっても、それに応じて自分を変えるのはしんどい。でも、自然界はそれを許してくれない。そして、ホメオスターシスがくずれ、この世を去っていく。ある意味、自然の摂理です。
ベテランになると、まちがっていても若い人たちは注意してくれなくなります。先輩や上司には意見しにくいですよね。
かくして自分は正しいと思い込み、だんだん頑固になり、へんなプライドもでてきて、聴く耳を持たなくなる。周りの環境が少しずつ変わってきていることに気づかない。
「なんでこんなことがでけへんのや。」「俺が若いころにはもっとがんばっとったで。」云々。
でも、過去は美化されているのです。おかれていた環境も今とは違ったのです。
気をつけなくっちゃ。
一方、自分ができないことを新たに習得しようとすると、いくら年寄りでも謙虚に先生の言うことに耳を傾けなければなりません。
じゃまなさび付いたプライドの鎧も捨てねばなりません。
聴く耳を持つようになるのです。
「初心忘るべからず」です。
ドクトル虎の巻も、人生の折り返し点を越え、後半に突入していますが、恥ずかしながら、いままでやっていなかったこと、できなかったことにチャレンジしてみようと思っています。
それが何かは、「ひ・み・つ」です。
十年後に白状します(笑)。
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人様に迷惑をかけてはいけません。
子供のころ、よく言われました。
そりゃそうでしょう。 でも、ちょっと待ってください。
物事の本質を考えるには、外国語に訳してみるのがよいのです。
英語に訳してみましょう。
なんと訳せばいいのでしょうか。
私の英語力では、ぴったり来る訳文がありません。
Be a good guy!とか、Behave yourself!でしょうか?
こちらのほうが、なんだかポジティブですね。
そういえば、英語圏ではあまり「人様に迷惑をかけてはいけない」ということは言わないような気がします。
生物というのは、エントロピーを減少させることにより存在する特異点なのです。従って周囲のエントロピーを増大させなければ存在し得ないのです。
つまり、生物は「周りに迷惑」をかけなければ、生きていけないのです。 生きていく限り、どんな生物でも、周囲の環境に多少の負荷をかけているのです。
したがって、「人様に迷惑をかけてはいけません。」ということを、とことん追求すると、理論的には「死」しかありません。
明治時代に、「人生すべて不可解なり。」という言葉を残して自殺した超秀才の第一高等学校の学生がいたそうですが、全く人に迷惑をかけずに生きようとすると、そういう結論になってしまうのはわかります。
もしも迷惑をかけないということをとことん追及すると、老人や、病人や、体の不自由な人は、「人様に迷惑」なので、よくない存在だということになります。
このばあい「人様に迷惑をかけてはいけない」という言葉は、とても冷たく響きます。
たとえ健康で仕事をバリバリこなし、国に税金を十分払っている人であっても、何らかの迷惑をかけずには生きていられないはずなのです。宇宙全体から見れば、所詮、「目くそ鼻くそ」の違いです。
環境に多少の負荷をかけながら、すなわち人様に多少の迷惑をかけながら、それをはっきりと自覚し、相手に感謝しつつ、自分もできる範囲で人様に迷惑をかけられることによって、お互いに共存共栄を計っていくというのが、宇宙の生物の新参者としての人間の本来あるべき姿なのではないでしょうか。
「人様に迷惑をかけてはいけない。」とだけ教えるのは、理論的には正しくないのです。
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素人が書くにはちょっと重いテーマかもしれません。
もしも気が向けばお付き合いください。
日本人は、自称「無宗教」の人が多いです。
私は、ときかれると、無宗教と言い切る自信はないので、「仏教」と答えています。
実家には仏壇があり、できる限り法事にも参加しているので、嘘ではありません。が、本当に仏教を信じているの?ときかれると、答えに窮します。お釈迦さまや仏教のことはよく知らんのです。
そんな日本人って多いのではないでしょうか。
自称「無宗教」の人は多いです。
しかし、本当に「無宗教」の人は無宗教なのでしょうか。
本人の自覚の有無に関わらず、その実人間は何かを信じて生きているような気がします。
しらずしらずのうちに何かをたてまつってはいないでしょうか。
マルクス主義は、唯物史観です。「宗教は阿片だ!」といって宗教を弾圧しました。ところが、神ならぬ「物」や「科学」など、人間の五感で扱えるものを奉ってしまいました。
その結果が、皆さんご存知の通りです。旧ソ連では、カルトに走る若者が出現し、経済的にも破綻してベルリンの壁はくずれました。
お隣の中国では、聞くところによると、宗教を弾圧した結果、お金が神様になってきているようです。
一部だとは思いますが、お金のためなら何でもする人が出てきているようです。環境問題、格差問題などが出てきています。「お金」教ですね。
お金は確かによいものですが、決して神様ではありません。
人間は無意識のうちに何らかの「神」を求め、崇拝するようです。
おもしろい存在ですね。
別に仏像やマリア像やモアイ像を拝むことが偶像崇拝ではないのです。
柄にもなく、坊様のようなことをいってすみません。
日本人はどうでしょうか?
葬式は仏教なのに、結婚式はキリスト教で挙げる人が多いですね。どうやら形式的に仏教徒であっても実質は唯物史観に近いように思います。
世界で最も成功した社会主義といわれる所以です。
実は神でないものが神のふりをしやすい国です。
実際とんでもないカルト集団も発生しました。
自覚症状が乏しい分、かなり危険なにおいがします。
高度成長時代には、大企業が神だったのです。
下請け企業や社員は皆「神」に使えていたのです。
社長が「法王」で、社員は修行僧でした。
自らの健康や家族をなげうっても「神」につかえました。
そして若いころ「神」に忠実に修行をつむと、年取ってから「高級神官」に任じられ、それなりの報酬をもらえました。
これはもはや一種の新興宗教ですね。
今はさすがにそれは崩れてしまいました。
医療分野はどうでしょう?
サイエンスとしての医学を絶対化し、神様にしてはいないでしょうか?
ところが、医学は、あくまで人間に奉仕すべき学問の一分野で、統計的に原則を指し示すに過ぎません。大事なのは、人間そのものなのです。
医師はサイエンティストであるべきですが、サイエンスで扱えない個々の領域にも対応しなければ、現実の医療は行えないのです。
いつでもcureできるわけではなく、relieveやcomfort も重要なのです。
僻地の医療と、都会の医療とでは、医学的には差はあるべきではなくても、現実の医療には違いがあります。
死亡率が劇的に改善することがわかっていても、世界中すべての地域で、急性心筋梗塞に緊急カテーテルをおこない、ステントを入れられるわけではありません。
専門医にできることが必ずしも専門外のドクターにはできるとはかぎりません。
でも数の限られた専門医を各病院に24時間待機させることは現実には難しいのです。
じっとしていない小さな子供のCTをとったり採血したりすることは、かなり困難です。言うは安く、行うは難しです。
疾患の可能性との戦いになります。リスク・ベネフィット・レシオです。
臨床医はリアルタイムに最適化問題をといていかねばなりません。サイエンスだけではわりきれません。
レトロスペクティブに、医学的にはこうやるべきだったと責めるのはあまりにも安易なのです。
現場にいた人しかわからないこともあるのです。
あまりにもサイエンスとしての医学が強調されすぎると、サイエンスでは対応できない領域に、神の顔をして代替医療がしのびこんできます。
もっとも代替医療も役にたつものなら歓迎です。WHOは実際Witch doctorによる癌性疼痛の軽減を評価しています。
しかし中には明らかに弱いものにつけこんだ悪徳商法もどきのものもあるようです。
たくさんのお金がサプリメントに消えていきます。これは日本だけではありません。
サイエンスは大切なもの、必要なものですが、神でないものを神にすべきではありません。
日本の専門医たちも、ある意味医学を「神」にして仕えてきたのではないでしょうか。
フランス人のとある心臓外科医の方が、日本の心臓外科医の仕事ぶりをきいて、「Oh, you are a saint!(お前は聖人か!)」といったそうです。
医学を「神」にしていると考えると、日本人の外科医たちの修行僧のような仕事ぶりが説明できます。(私生活は知りませんよ(笑))。
「修行僧」は、ある意味ではすばらしいことで、尊敬に値します。若いころにはある程度必要なことでもあります。
しかし決して全人に強制すべきものではありません。 「神」でないものを「神」とせず、「聖職だ」で片付けず、社会全体で、もっと冷静に理論立てて医療を考えていかなければならないのではないでしょうか。
どうも、国民には「知らしむべからず」、医療関係者には「おまえらは修行僧だ。問答無用で神に仕えろ」といったアプローチが多いような気がします。
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ブッシュ大統領は、イラク戦争を始める際に、
We'll bring them to justice.
といったそうです。
俺は正しい。裁いてやる。正義の鉄槌を下してやる!
ということでしょう。
考えてみると、すべての紛争のはじまりには、「自分は正しい」という思い込み、「聴く耳を持たぬ」という姿勢があるような気がします。
すべての命題には、前提条件があるのです。前提条件が違えば、結論も異なるのです。
仕事ですが、インドに行く機会がありました。
ヒンズー教には、カースト制度というのがあります。
我々からみれば、とんでもない差別主義の制度です。
ヒンズー教の人たちには申し訳ないのですが、宗教のくせに、なんというけしから教えだと常々思っていました。
しかし、インドを訪れ、実際に貧しい人たちの暮らしぶりをみて、思いました。
カースト制度は、このどうしようもない目の前の厳しい現実に対する、一つの「慰め」としての役目もあったのではないかと。
「この世の現実を受け入れなさい、そして、置かれた環境の中で精一杯生きれば、次の世ではよいことがあるのですよ。」という。
勿論、マルクスの言うように「宗教は阿片」なのかもしれません。
確かに、この論理は次の世がなければ単なるまやかしにしか過ぎません。
気休めかもしれません。 でも、私たちは死に瀕している人に向かって、あえて「あなたはもうすぐ死にますよ」というでしょうか。気休めを必要とする人がいるのです。
大勢の貧しい人たちが懸命に生きているのを現実に目にしたとき、輪廻転生や、悪名高いカースト制でさえも、人間が生きていくために、生まれるべくして生まれてきた思想なのかもしれないと思ってしまいました。
ヒンズー教の人たちは、私たち異教徒に寛容です。自分たちは豚や牛を食べませんが、私たちが食べることはとやかく言いません。
このようなことは、日本にいて、机の上で勉強するだけでは、まったく考えなかったことでした。
理論は大切だといっても、「机上の空論」は危険なのですね。実際に見聞し、体験することによって、理解は深まります。
最近よく取り上げられるようになった終末期医療の問題にしても、現場をはなれた机上の議論が、問題を複雑にしているような気がします。
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業界以外の人のために、初めにちょっと説明を加えますね。
ムンテラとは、業界用語で、患者さんや家族の方に説明することです。ドイツ語のMund Therapie(口で治療する)ということから来ています。
和製英語ならぬ和製独語でしょうか。 最近、ムンテラという言葉は使うべきではないとされています。かわりにインフォームド・コンセントという言葉が使われます。
ある程度以上の年代の先生方は今でも会話ではよく使います。
「口で治療する。」べつに使ってもかまわないと思うのですがね。手術や、薬に頼らず、口で治療できれば、それに越したことはないのですから。
でも、「病院機能評価機構」という、天下御免の天下り組織によると、使ってはいけない言葉ということになっています。
ちょっと脱線しますが、医療現場では、病○機○評○機構はコストや現場の人的要素を無視して、メイドインUSAの基準を建前として押し付けるので悪名高い団体です。
現場の人間はもっぱら、「評○機構」を評価する「評価機構」がいるんじゃないかと思っています。でも天下りには必要な組織なのでしょうね、きっと(笑)。
話をムンテラに戻しましょう。
少し前のことですが、学会発表の帰りにアメリカは東海岸のとある大学病院を訪れました。そこは○リ○トン前大統領なんかもかかりつけの、超有名病院です。
びっくりするぐらい、流れ作業的に、心臓カテーテル検査が行われています。
日本では、検査の説明や手術の説明は、担当医がします。ところが、ここでは、何と、インフォームドコンセント専門のムンテラ係りのおばさんがいて、書類にサインをもらってくれるのです。
ドクターは、ほとんど説明しないのです。
説明には、時間がかかります。
医師にそんな時間を使わせるぐらいなら、血管内治療の一つもふやさんかい!という経営上の発想なのでしょうね。
びっくりしました。 なんとええかげんな!と思いました。
でも、考えてみると、別に説明するのに医師免許はいらないはずです。 おばさんのほうが、説明は手馴れているのです。患者さんの気持ちもわかるのです。患者さんも、「あの先生は大丈夫?」「あんたなら受ける?」などと、おばさんに訊くようです(笑)。
私が米国に滞在していたころには、そんなおばさんはいませんでした。米国すべての病院がやっているわけではないと思います。高度医療の発達による相対的医師不足に対処する一つの方法なのでしょうね。
善し悪しは別として、彼の国のプラグマティズムと柔軟さをみた気がしました。
PRコーナーです。
英語抄録・口頭発表・論文作成のお供に是非m(^^)m。
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物事を冷静に判断するためには「ロゴス」が重要であることは間違いありません。「屁理屈こねるな!」といってはいけないと、常々思っています。
しかし、普段の話し合いや会議などで、どうもへんだな、なんか違うな、と思いながらも理屈で攻めてくる相手に反論できないことって、ありませんか。
そうです、なんかへんだなと感じているほうが正しいかも知れないのです。でも理屈では負けてしまいます。
実は、議論は大切ですが、おかしな議論(屁理屈)がまかり通ることも多いのです。
そこで、本日は「屁理屈」を撃退する方法です。
「ロゴス」は、両刃の剣です。正しく使えば強力な武器になります。でも、ひとつ使い方を間違えると、とんでもない結論が出てしまいます。
「机上の空論」というやつです。
例を挙げましょう。
太平洋戦争末期の、神風特攻隊です。
たくさんの優秀な若者が、「おとうさん、おかあさんのために」「残される弟や妹のために」「恋人のために」「お国のために」と思いつつ、半分地下に埋もれた木造の粗末な小屋から出陣し、命令に従って散っていきました。
悲惨なことですが、彼らの純粋な気持ちを思うと、涙が溢れます。
これは、「エトス」と「パトス」に偏った、理論的には明らかに破綻した作戦です。
飛行機は資金と工場そして原料さえあればいくらでも補充することができます。しかし、熟練パイロットをつくるには、母の胎内に種がやどってから、慈しみ育てられ、教育を、訓練を受けて二十年以上もかかるのです。
たとえ人道的見地を無視したとしても、二十年以上かかってやっとできた貴重な「パーツ」を、いとも簡単に使い捨ててしまう作戦だったのです。当然、補充はききません。
熟練パイロットを養成するには、時間と費用がかかるという、無視し得ない前提条件を無視したのです。
確信犯かどうかは判りませんが、これを日本でもっとも優秀といわれた人たちがやったのです。
対する米軍は、航空機の動力性能を犠牲にしてもパイロットを厚い防護壁で守りました。これは、かならずしも人道的見地からだけではなかったのです。
ドクトル虎の巻の考えでは、議論の際に重要なことは、
1. 命題の前提条件、定義をはっきりさせること。
2. それぞれの命題の確率を考えること。
です。
解説します。
3段論法というのがあります。AならばB。BならばC。よってAならばC。というやつです。集合の概念を使って図で書くと、こうなります。

ところが、それぞれの命題の前提条件がことなると、AならばB, BならばCが成立しても、AならばCは成立しないのです。図で書くと、こうです。

AとCは全く重なりません。よってAならばCは成り立たないのです。
詐欺師がよくつかうテクニックです。
2の確率について考えてみましょう。
たとえば、AならばBである確率が70%、BならばCである確率が70%であるとすると、たとえ前提条件が同じであったとしても、AならばCである確率は49%、つまり、五分五分でどちらだかわからないということになります。
ちなみに、70%ぐらい正しい事象は、一般に受け入れられやすいのです。
たとえば、
「ドクトル虎の巻は男である。」(これはほぼ正しいでしょう。)
「男というものは、『女たらし』である。」(これもだいたい賛成でしょう。)
従って、ドクトル虎の巻は「女たらし」である。
これは、一つ目の命題が成り立つ確率と二つ目の命題が成り立つ確率を掛け合わせた確率で正しいのです。
決して100%正しいわけではありません。
これを100%だと思い込むと、「ねえねえ、ドクトル虎の巻は女たらしなんだって!」ということになってしまい、次の日から看護師さんたちに白い目で見られてしまいます(笑)。
ちょっと例題に説得力がなかったでしょうか(笑)。
長々と書いてしまいましたが、議論するとき、(1)前提条件、定義、(2)事象の確率、この2つの要素を考えることによって、かなりの「屁理屈」を退治することができ、会議を円滑に進めることができます。
えらそうなことをいっていますが、家族に言わせると、「お父さんはチョー人に騙されやすい!」のだそうです。
最後にエトスを下げてしまいました(笑)。
ロゴスを鍛える本もご覧ください。
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厚労省課長補佐殿
厚労省の急ハンドル、急発進、急ブレーキ連発のおかげで、全国の医師、看護師は乗り物酔いです。このままでは、全員げーげー吐いてしまいそうです。
トップの文系官僚の力が強いことは理解できますが、厚労省には、医系技官もおられるはずです。医師免許も持っておられるはずです。失礼ながら少しは臨床経験もお持ちのはずですよね?
官僚機構のことはよくわかりませんが、課長補佐クラスでは結構行政の実質を握っているはずです。私たちからはあなたがたの顔が見えませんが。
もう少し、机上の空論をやめ、統計のマジックに騙されずに、医療の現実に目をむけ、実世界のいろいろな要素を考慮して、最適化問題をうまく解いていただけないでしょうか。
我々は世界有数の経済圏に暮らしています。「短期楽観、長期悲観」という思い込みで洗脳するのではなく、医療を取り巻く前提条件や定義をよく吟味し、根本から考え直していただけないでしょうか。
エリートであるあなたがたはそれだけの能力はお持ちのはずです。
暴走族反対です!
あまり年寄りの先輩や若い後輩をいじめないで!
やっとこれから専門的な医療の経験をつめると頑張っている、GPとしても未熟な3年目を、指導医のいない僻地で単独診療させたり、60代、70代でもなお勉強会にでてこられ、地域医療のために尽くしておられる高齢の先輩方に24時間労働を強制したりすることが、医療をよくするとお考えですか。
酔い止め薬がほしいです。
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厚労省は循環器科や、呼吸器科、消化器科などの診療科を標榜できなくしようとしています。
医師不足を、医師数を増やさずに、専門医から「総合医」へシフトさせることによって対応しようとする、医療費抑制の魂胆がミエミエです。
それですむなら、それでもいいのです。しかし、個人の能力には限界があるのです。
理論的に考えると、(「驚愕の事実」を参照ください)別に専門医とプライマリーケア医に能力の差があるのではなく、対応疾患と重症度が異なるだけなのです。従って、「総合医」だけを増やしても、すべての疾患、特に重症疾患には対応しきれず、医療崩壊は進むのです。
専門医も増やし、プライマリケア医も養成し、双方をうまく連携させる体制をつくるこそ重要なのです。
ところで、ドクトル虎の巻は、循環器医です。
一般の方はご存じなく、循環器医自身も自覚症状を伴わないことが多いのですが、実は、循環器医は院内の嫌われ者なのです!?
理由:
1. 気が短く、切れやすい。
2. 態度がでかい。
3. 周囲に無理難題(スピード)を要求する。
4. 時間を守らない。
5. 内科のくせに慢性疾患、全身疾患、悪性疾患をみるのが不得意。
6. 目で見え、動きのあるものしか信じようとしない。
7. すぐにカテ室の鍵をあけろと要求する。
8. 運転が荒い。
若手医師には勿論のこと、看護師さんや、技師さんたちにも、「なんででけへんねん。すぐに動かんか!」と、怒鳴ったりします。
ドクトル虎の巻は、生来おっとりした性格だったのですが(?)、最近、家族からも、気が短くなった、態度がでかくなった、性格が悪くなった(?)といわれます(笑)。
職業病かもしれません。
循環器医一同になりかわりまして、これまで被害に会われた皆様にふかくお詫び申し上げます。
でも、ちょっとだけ言い訳させていただくと、循環器は、「カップ麺対応」をしなければなりません。
心停止がおこれば、3分以内に処置しないとやばいのです。
それで、見かけ上の?性格が悪くなるのです。
決して人が悪いわけではありません。m(^^)m固定リンク | コメント (7) | トラックバック (0)
産科、小児科医は絶滅種といわれて久しいですが、ついに循環器科も心臓血管外科もお上の命により診療科としては消滅するようですね。
なくせば、診療科が「わかりやすく」なるのだそうです。
米国の医療が必ずしもよいとは思いませんが、Cardiology(循環器病学)では最先端を走っている米国では、Cardiology(循環器科)とInternal medicine(内科)とは研修体制も研修年数も全く異なっていました。
(古い話なので、現役の留学生の方、フォローお願いしますね。)
それには、歴史的必然性があったのです。
以前にも書いたことがありますが、急性心筋梗塞は、それまで一般病院では半数ぐらいがなくなっていたのが、1960年代に米国でCCUが整備されだしてから、死亡率は30%程度にまで改善しました。
最近では、direct PCI(緊急でカテーテル治療を行うこと)などの専門的な治療のおかげで、専門の循環器科チームのある病院では9%前後まで改善してきています。
心の準備もないまま天国に召されるか、元気に復職できるかの差は個人的にも、社会的にも大きいのです。 一般病棟で一般内科医が急性心筋梗塞をみるのと、Cardiologyの専門チームがみるのとでは、こんなに違うのです。
別に循環器医がえらいのではありません。専門性の違いなのです。
逆に、循環器医一本でやってきた我々が突然内視鏡で胃の粘膜下腫瘍切除をやれといわれたら...(そんな無謀なことを受け入れる循環器医はいませんが)恐ろしいことが起こります。私が患者なら絶対受けません。
残念ながら、わが国からは、循環器科は相棒の心臓血管外科とともに消滅させられようとしています。
日本の心臓外科医の人数は多いという意見もありますが、日本の心臓外科の先生方は身を挺して術後管理や外来フォローや検査までされているのです。
アメリカの心臓外科医がいろんなスタッフに囲まれて手術に専念しているのとえらい違いです。
医療費削減の一環でしょうね。
いままで我々が文字通り夜も寝ずに歯を食いしばって患者さんを助けようとがんばってきたことを、「いらんことやりやがって」と無碍に否定されたような気がします。
国民の皆様は覚悟を決めておいてください。
せいぜい心筋梗塞になどならないように気をつけてください。
これからは運悪く急性心筋梗塞になられた方は、どうぞお祈りしてください。
旧ソ連では、軍備にお金を投入しすぎたため、医療費は削減され、医療レベルは低下し、大統領といえども、自国のドクターからは冠動脈バイパス術を受けられず、敵国アメリカから心臓血管外科チームを招聘しました。
私たちも同じ道を歩むのでしょうか。
そうなれば世界中から、日本の医療行政は笑いものになるでしょう。
もしも本当に診療科としての循環器科がなくなったら、ドクトル虎の巻もそろそろ立ち去りを考えなければなりません。
ウン十年前に失効させてしまったECFMGが悔やまれます(笑)。
私たちは世界有数の経済圏にいるのです。必要なものにお金をつぎ込む経済力はあるのです。
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