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土手通りから明治通りへ常磐線の方に戻って
三ノ輪の浄閑寺に着いた

浄閑寺は古くから投げ込み寺と呼ばれた
遊女が亡くなると多くの場合
遺体の引き取り手はなく
この浄閑寺や土手の道哲と呼ばれた浄土宗の西方寺、今戸にあった西憶院に持ち込まれた
今も当時の場所にあるのは浄閑寺だけである
埋葬は一穴に葬る簡単なもので
その様を以て投げ込み寺と呼ばれるようになった

案内板では投げ込み寺の語源を
安政江戸地震 (1855) の多数の犠牲者を埋葬する様子に求めている
ところで安政年間の地震はすごい wikipediaより
安政江戸地震発生の前年である安政元年11月4日(1854年12月23日)には安政東海地震(M8.4)、その約32時間後に安政南海地震(M8.4)が発生しており、安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」と呼ばれる。また、安政南海地震の二日後には豊予海峡地震(M7.4)も起きている。この他にも安政年間には安政元年6月15日(1854年7月9日)に伊賀上野地震(M7.4)、安政2年2月1日(1855年3月18日)に飛騨地震(M6.8)、安政5年2月26日(1858年4月9日)に飛越地震(M6.7)が発生している
浄閑寺にはいろいろ史跡がある
一つ一つ検索すると興味深い

幕府も人身売買を禁じていた
従って遊女は形式的に年季と給金が定められた奉公人であった
実際は東北や北陸の貧農が 3-5両に困り 娘を売る
女衒(ぜげん)が買い回り 妓楼に売る
年齢に つ が残るような年頃で
時に5-6歳で妓楼に入る
これが禿(かむろ)で妓楼で養われる
13-15歳になれば客を取る
当然、即戦力の娘の売買もあり
武家の娘で18両で売られた記録がある
揚代 要するにプレイ代は超高級遊女で1両1分で
それ以外は遊女の格付けによって1昼夜 金1分-3分
夜のみはその半分である
金1両は金4分で金1分は金4朱である
遊女は裁縫をしないので妓楼出入りのお針(裁縫女)がいる
このお針の給金は年4-5両で
大工のような職人は1日銭500文 蕎麦1杯24文
金1両は銭6500文
夜だけ遊ぶとなると金2朱つまり1/8両の遊女なら
銭にすれば約800文 職人1.5日分の給金にあたる
吉原は幕府公許の遊郭であったが
しばしば取り締まりの対象となる闇の営業の岡場所、街娼の夜鷹がいた
岡場所の女が銭400文、夜鷹が蕎麦一杯の値段だったとのこと
年季奉公は約10年であったがお礼奉公もあり
おおむね27歳くらいで年季があけることになった
もちろん稼ぎが悪かったり病気のために
生きるほどに借金が重なり
いつまでも年季があけないものもいた
これらはみんなこの本の受け売りです

何でも勉強してみるものです
相変わらず明日の診療には役立ちませんが
いろは会商店街を抜けると
土手通りにでて左に曲がる
歌川広重の名所江戸百景よし原日本堤

日本堤は荒川・隅田川の氾濫が江戸市中に及ぶのを防ぐために築かれた
吉原が当地に移ってからは吉原通いの道となる
この客を当て込んで土手には食べ物屋や商店が並んだ
今ちょうどこの土手を歩いてるわけだ
忽然と現れた町屋
天麩羅、天丼の 土手の伊勢屋さん

創業110年 東京の大空襲にも奇跡的に生き残って今日に至る

隣は桜鍋の中江さん

まだ開店には早く仕込み中
ということでぶらぶら
大門(おおもん)と言っても門はありません

今は有名なトル・・・いや おソープ街

格子の張り見世もないし遣手(やりて)のばばあもいない
愛想のいいおっちゃんがパネルを見せに来る
今なら2万円と言われちゃって
どきどきしながら通り過ぎた
いやいや どこかの有名な板みたいに
そこまではじけませんよ
ということで土手の伊勢屋に戻ると待ちの列はぐるり半周
40分待ってやっと店内へ
ちょっと薄暗い これも懐かしい暗さだ

店内も一見の価値ありです
ゆっくり見て回りたかったのですが満員です
これは厨房 ここから天丼が出てきます
もうおそらく来ることはありません
たっぷり歩いたし
いろいろ言い訳を並べて
最上級のイロハのハ 2300円 吸い物150円を注文
待つこと15分
わーーー

ふたを取るとふわーっと何ともいえぬいい香り
しばらく眺めてしまいました

右のエビ天を取ると
貝柱のかき揚げが見ました

うまい あつい ぷりぷりのエビ
穴子もスーパーのよりうまい
シシトウの香りの高さに驚く
うまいけど さいごはもう 何食ってるかわからない
ひたすら食ってしまった
お吸い物
実は穴子の肝吸い
三つ葉と椎茸の香りでほっとした

うまかった でもしんどい うー 腹が重い
明日はどっちだ じゃなくて また徘徊
少し先に馬肉専門店

馬刺しに煮こごり うー いまはもうどうでもいい

吉原帰りの 江戸っ子のように三ノ輪の方へ土手通りを歩いた
知識は学ぶもの
目の前の問題は知識でその場の解決を図ることができる
しかしそれは常に正しい解決だったかどうかはわからない
知識は10年もすれば古くなる
評価が正反対ということもありうる
10年前の今日の診療は使えない
知恵は教えがあって悟るもの
教えを得て日々精進しないとそれに沿った行動は取れない
腹八分目医者いらずは千年前も千年後も真実だ
知識の塊の防潮堤は津波の前に無力であったが
津波てんでんこはきわめて有効であった
想定外というのは知識の限界に他ならない
すべての行動原理を知識に求めれば
知に溺れるというやつで
誰のために何のためにと言うことがすっぽり抜けてくる
大抵自分の論理に酔って大声で整合性だけを追求するが
丁寧に見れば反例を挙げるのは容易だ
すべてを智恵に求めるなら
チベットの修行僧になってしまう
虫垂炎でも死を受け入れなければなるまい
意図を持って両者を使い分ける必要はある
時代が変わるときどちらを行動原理にすべきか
知恵を頼りにする方が堅そうだ
イソップ物語は知恵が詰まっている
紀元前のギリシアの奴隷が語った話と言うが
2千数百年の検証を経ている
アリとキリギリス (アリとセミ) はとても有名だけど
お膝元のギリシアではすっかり忘れ去られたようだ
イソップ物語にしてもとりわけ論語にしても
発祥の地では全く生かされてないから不思議だ
いや その地で特に必要だから生まれたのかもしれない
イソップ物語で最近よく思い出す話が
王様を求めるカエルの話
沼のカエルたちが
自分たちにも誇れるような立派な王様がほしいと言いだした
ゼウスに願い出ると
ゼウスは彼らに丸太を与えた
最初のうちは丸太を敬っていたが
そのうちその丸太に飛び乗ったり勝手放題
カエルたちはもっと威厳のある立派な王をゼウスに求めた
ゼウスは仕方なくヘビを遣わせた
案の定、沼の蛙は全部食べられた
いつの世も支配者がすべてを食いつくすことは想像がつくが
その支配者も元を正せば民衆が求めたものだ
そこまで見抜いているところがすごいと思う
延命寺から南に下る
陸橋から左手に広大な操車場が見える

このあたりが荒川やその支流の氾濫原だったことがよくわかる
過去1万年くらいをちょっとコマ送りすると
荒川や隅田川が手を離したホースのように大暴れしている様子が目に浮かぶ
実際、大水害の時は首切り地蔵の首まで水が来たとのこと
タイみたいな状況を想像すればいいのかな
これからもう少し散歩を続けるのだけど
役に立ったホームページと地図を無断拝借
家康入城の頃のこの辺
地図の真ん中に三ノ輪(水ノ輪)がある
ちょうどこの右上あたりが骨が原
その右下の池を隔てたところに浅草寺がある
この池・湿地帯を横切るように日本堤が築かれた

家光の頃のこの辺
治水事業の伸展と共に陸地化、農地化が進んでいる

http://www.ne.jp/asahi/woodsorrel/kodai/ より無断拝借
この地が湿地帯であったことがよくわかる
浅草に帯刀を許された穢多頭 弾左右衛門の屋敷跡がある
彼らがこの地に集住し穢れ仕事を一手に引き受け
皮革工芸や芸能まで文化の礎を作った
地図の日本堤は吉原へ行くまでの通路でもあるが
荒川治水の目的で築かれた
江戸と江戸情緒の理解にはこの地理は大切だ
さらに下ると泪橋交差点
今は暗渠になった思川(おもいかわ)に泪橋がかかっていた
思川に泪橋かあ
あしたのジョーに出てくる泪橋 確かたもとに丹下ジムがあったはず

大通りに沿うホテル街 昔は寄せ場で働く人たちの宿泊所だった
バックパッカー用のゲストハウスになってるところも多い
ドヤ街 整然としている

日曜というのもあってか人は少ない
普段はもう少し賑やかなのかもしれない
30年前に訪れたときは焚き火があったり
昼間から酒盛りがあったり刺激的だった
路上賭博に人が集まってて見ていると
地回りのヤクザがこっちに来て
兄ちゃん するのか? せんのだったらあっちへ行け といわれた
下からなめ回すような目は鋭かった
なにするかわからんよ と言う雰囲気は彼らの商売道具だ
どこかの市長さんも親がヤクザだけあって上手に使っているこのテクニック
今はお年寄りも多く道行く人にも要支援くらいの人は珍しくはない
寄せ場の盛衰はそのまま日本を映す鏡のようだ
いろは会商店街
やはりシャッター通りになってる
バナーが寂しく揺れる

あしたのジョーで町おこし

去年のふるさと祭りには尾藤イサオがテーマソングを歌いに来たそうだ
確か作詞は寺山修司
あしたはどっちだ? くーっ 使えるフレーズ

空き店舗のシャッターに張られた丹下段平のおっつあん
ジョーも張ってありました

商店街を抜けると吉原大門に出る

回向院の南側常磐線を挟んで延命寺がある
ちょうどここは小塚原の刑場になる
延命寺には首切り地蔵がある
見に行って驚いた

お地蔵様が台座から外され横の地べたにおいてある
腕も外れている
その大きさにも驚いたけど お地蔵様が余りに気の毒で

刑場は1651年にこの地にできて
1741年に首切り地蔵が建立された
近年、野ざらしもということもあって風化が進み左手から落ちたとのこと
崩壊の危険もあり胴切りにして解体されている
再建に向けて浄財を募っている
犯罪小説の西村望が
人が罪を犯すのは はずみ だと言ってた
貧しいほど、不遇であるほどはずみがつくのだろう
吉展事件の犯人Oも
その生い立ちは厳しい
執念でOのアリバイを崩し自供に導いた平塚八兵衛刑事も
気の毒なやつだといい
刑死後にただ埋葬されただけの土饅頭の前で号泣している
その境遇でなければまっとうな人間になっていたのかもしれない
もちろん被害者や遺族の応報感情を非難する気はない
一番理不尽な運命を強いられたのは被害者だから
悪の芽を摘んだところでまた芽はふくし
浜の真砂はつきぬとも だ
こういう理不尽さとその連鎖が業なのだろう
業を目の当たりにした人はなすすべくもない
もう手を合わせるしかない
そんな思いが首切り地蔵に詰まってるのだろう
回向院の境内の一角に観臓記念碑がある
1771年3月4日に前野良沢、杉田玄白らが
この地で行った腑分けを記念する碑だ
ちょうど自分が見に行った日も3月4日だったけど
誰もいなかった

前野良沢、杉田玄白らがターヘル・アナトミアの正確さを目の当たりにし
翻訳を決意し、苦労を重ねる話は有名だ
記念碑には日本医師会も名を連ねている
腑分けの経緯については
玄白の『蘭学事始』に書いてある
ご遺体の刑死者は渾名を青茶婆といい 京都生まれ
50歳の老婦なんて書いている
ゲキドする人もいるかもしれない
菊池寛の小説『蘭学事始』には
昔浮き名を流しただけある肉づきのよい50女で皺一つない体
養育費目的にもらい子をして殺害
というような話があるがどうも菊池寛の創作みたい
玄白の蘭学事始には出てこない
菊池寛の小説には出てこなかったが
腑分けの後、玄白らは
骨が原で骨拾いをする
やはりターヘルアナトミアの正確さに感動、興奮する様が描かれている
おっさんたちが渚の貝拾いよろしく
骨を拾いながらはしゃぐ様を想像するとおかしい
でも記載から考えると
骨の突起や切痕の重要さには気づいてもいない感じだ
ちなみに執刀はエタの虎松の予定だったが
当日、病のためその90歳の祖父が代行している
回向院には吉展地蔵がある

1963年3月31日当時4歳の幼児が誘拐された。
警察は犯人を取り逃がした上に身代金を奪われる失態を演じた
2年後に犯人は逮捕されたものの
被害者は誘拐された当日に殺害されていた
被害者が生きていれば自分と同じような年齢なので事件はリアルタイムで知っている
知らない人にはついて行くなとさんざん言われたのを覚えている
犯人は1971年に東京拘置所で死刑になっている。
回向院が被害者の菩提寺と言うことでここにお地蔵様が建ったようだ
回向院のパンフレット700円だったかな
少々高かったけど結構熱心に読んでしまった おもしろかった

東京メトロ日比谷線でで南千住へ
JR南千住駅の西の線路沿いに回向院がある

回向院

回向院の左、常磐線のガードを越えると延命寺があり
そこがが小塚原の刑場跡
市中引き回しの上獄門という判決なら
罪人は小伝馬町の牢屋から裸馬に乗せられ
罪状を記した札とともに江戸市中を引き回される
上の地図の下方に泪橋がある
この橋を渡る頃にはさすがに娑婆との永遠の別れを悟り涙する
ここからは徒歩約10分で刑場につき 斬首
生首は台の上に載せられ罪状を記した札とともに
3日2夜晒される
刑場は埋葬地でもあり遺体の上には浅く土が盛られる程度であり
その後の惨状は想像に難くない
小塚原を骨が原とも字を当てるがどちらがオリジナルかわからない
刑場自体は100m×50m ちょうど0.5haくらい
詳細は回向院の案内をご覧ください
回向院の墓地の一角にはには歴史的に有名な刑死者の墓石が集めてある
右の祠は橋本左内、左は吉田松陰

橋本左内は福井藩の藩医の家系に生まれ適塾に学んだ俊英
一橋慶喜擁立派で安政の大獄で死罪
即日小塚原で斬首 回向院に埋葬された 享年26歳
吉田松陰も同様に伝馬町の牢屋敷処刑場で 斬首、
遺体は小塚原に移され回向院に埋葬された 享年29歳
両者とも後年それぞれ改葬された
刑死人は無縁で墓石はないはずだが
回向院が表向き無縁として供養し
縁者には融通をつけた
下の墓石は右から腕の喜三郎、高橋お伝、片岡直次郎、鼠小僧次郎吉
それぞれ検索すると後世に名を残すだけの何かがある人々だ

無名の刑死人から2・26の実行犯まで回向院に葬られた
それだけでなく江戸のカタストロフの際に発生した
無数の無縁仏を回向院は受け入れてきた
その数計20万人超、200年で割っても年間1000人
あり得る数字だと思う
どこかの大虐殺とは異なる
久しぶり東京に出た
上野に泊まった翌朝
町中に梅祭りのポスターが張ってあったのを思い出した
そうだ湯島天神へ行こう

3月4日で四分咲きくらいかなあ
やっぱり少し遅いみたい
梅祭りは8日までなのに

六時半に行ったけど
境内に俺一人
はは 独り占め

ほのかな梅の香が気持ちいい
あっちでくんくん こっちでくんくん やってみた 一人だし
なんてったって湯島の天神さん 効きまっせ- 合格祈願

それから天神さんの牛
今にも舌でぺろっとやられそう

早起きは三文の得 よく言ったもんです
アニメの話です
それでも町は廻っている それ町
シャフトのアニメです 笑えます
女子高生 嵐山歩鳥 (あらしやまほとり) が
いろいろやんちゃやっちゃって
町中を引っかき回すお話です
高校生版まるちゃんと言ってる人がいましたが
確かにそうかも
とにかくセリフが生きてます!
青少年に見せておくだけではもったいなすぎるアニメはいっぱいあります
なつかしいDown town を使ったオープニング
エンディング
声優さんってかわいいなあ
何となくそれぞれのキャラクターに似てるから不思議