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障害児者に対する差別が今よりもっと大きかった'78年(今から28年前)に出版された本です。この本の題名にもなった「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」という詩は本人が作った詩です。

今から40年以上も前に生まれた重度脳性麻痺児の日々の成長の過程と、それをと支える家族や養護学校の仲間達のことについて書いてあります。そして題名となった詩ができるまでの過程と、悲しい最期の瞬間と、その後についても書かれています。

この本は2003年に改訂版として復刊されていて、本の巻頭に書いてある「復刊に至るまで」の部分をHPで見つけたので、興味のある方はのぞいてみて下さい。(この部分だけでも充分に泣けました)

実際にボクはこのHPを見て本を購入し、通勤途中の電車の中で読んでいたらアゴまで涙をこぼしていました。人前であんなに涙を流したのは初めてで、久々に思いっきり泣いてしまいました。
そしてハンデを持った子供達やその家族に、こんなコトを言わせないようにしたいとも思いました。
そのためには、まずは目の前の患者さんをしっかり診ること。そして家族を支えること。
さらに若いスタッフや医学生さんにも、共感を得られるように指導すること。

そして、分をわきまえること。(つまり、あんまり出しゃばらないこと)
 (↑時々いるんです。家族の気持ちが分からない関係者が・・・)

最後になって↑ヘンになってしまいましたが、「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」の「復刊に至るまで」の部分だけでも目を通してみてはいかがでしょうか?
 
  
 
↓続きは復刊に至るまで

復刊に至るまで

産経新聞社総合企画室

松原英夫

「ごめんなさいねおかあさん」と呼びかける、この詩にめぐりあい、本書を復刊するまでに至ったのは、ひとつの投書がきっかけでした。

産経新聞の愛読者が集う「ウェーブ産経」(注)の特集で、「私の周りの勇気ある人・勇気づけられた話」というテーマ投稿に、石川県七尾市の主婦、高崎千賀子さんからこんな体験談が寄せられたのです。

〈「美術館なんて趣味に合わないし、書道なんてつまらない」という女子高生の一団の言葉が、美術館でボランティア監視員をしていた私の耳に入り、思わず口にしました。
「あそこにお母さんのことを書いた書があるの。お願いだからあの作品だけは読んでいって」と。
女子高生たちは不承不承、私の指さした書を鑑賞しました。すると一人がすすり泣き、そこにいた生徒全員が耐え切れずに、泣きだしたのです。その書は、生まれたときから母に抱かれ背負われてきた脳性マヒの人が、世間の目を払いのけて育ててくださった、強いお母さんへの感耐の気持ちを縦った詩でした。
「今の健康と幸福を忘れていました」と女子高生たちは話し、引率の先生方の目もうるんでいました〉
「母への感謝を綴った詩に涙」というタイトルで、高崎さんの投書が新聞に載りました。
すると、「いまどき、女子高生を涙させるって、どんな詩ですか。私も読みたいし、うちの子供たちにも読ませたいと思います。紙面に掲載して頂けないでしょうか」という主婦や、「健常児はなかなか障害児のことが理解できず、心ない言葉で傷つけたりします。
小学生に通じるかどうかわかりませんが、その詩を読ませたいのです。出典があれば、教えてください」という小学校の先生など、読者からの要望が東京と大阪の産経新聞本社に寄せられたのです。
こうした声に応えようと、どんな詩なのか、そしてどんな人が作ったのかを、調べ始めました。
七尾市内の美術館に展示されていた書というのは、書道家でもある同市の願正寺の住職、三藤観映さんが二年ほど前、「ごめんなさいねおかあさん」の詩に感動して筆をとり、地元の美術展に出品したものでした。
詩の内容はわかっても、どこのだれの作品かはわかりません。
三藤さんは、石川県内の別の住職が書いた冊子に引用されていたものを読んだ、といいます。
その冊子は、京都の大谷派のお寺で編集しているニュースレターから披枠しており、その“線”をたどってさらに取材を続けました。
そうして、ようやくこの詩が、生まれながらにして重度の脳性マヒだった奈良県の少年の作品とわかったのです。
やっちゃんです。
彼はすでに二十七年も前、昭和五十年六月十一日に亡くなっていました。十五歳の誕生日を迎えた直後だったそうです。
本書の著者、向野幾世さんはかつて、やっちゃんが通っていた奈良県明日香村の明日香養護学校の担任として、一年生のときから彼を見守っていました。
その向野先生に、この詩が生まれた経緯をうかがいました。
「当時、奈良で、からだの不自由な人たちが集う施設『たんぽぽの家』を作ろうという運動が、お母さん方やボランティアの皆さんの手で進められていました。やっちゃんのお母さんも熱心でしたね。その資金集めのためにフォークコンサートをやろうということになったんです。障害者の詩をメロディーにのせて伝える『わたぼうしコンサート』です。
やっちゃんは話すことはできませんでしたが、キャーキャーと声をあげ、詩を作りたいという意欲をみせたのです」
向野先生はそのころ明日香養護学校で、言葉も十分に話せず手足も不自由な子供たちに、言語訓練をしていたそうです。
やっちゃんとも、顔の表情や手足の緊張ぐあいなどから、彼の心に近づけたといいます。
本書でくわしく触れられていますが、向野先生があげる言葉と、やっちゃんが表現したいこととが一致すれば、目をぎゅつとつぶってイエスのサイン、違っていれば舌を出してノーのサインを送るという方法で、詩作はすすめられました。
「思い浮かぶありったけの言葉を、『やっちゃん、こうか?こうか?』とあげるんです。
山のような言葉の組み合わせでしたね。
出だしは『ごめんね』も『ごめんなさい』もノー。
『ごめんなさいね』で、やっとイエスなんです。
『ごめんなさいねおかあさん』だけで、一カ月ぐらいかかりました」と、向野先生は振り返ります。
「第一回わたぼうしコンサート」は昭和五十年四月二十六日、奈良市内で開かれました。
やっちゃんも車椅子でステージにあがり、向野先生がその詩を朗読しました。
彼の後ろにはお母さんもつきそっていました。
それからニカ月もたたずに、やっちゃんは亡くなりました。
このコンサートは、彼にとって最後の晴れ舞台だったそうです。
向野先生はその後、やっちゃんを中心に、この時代の障害をもつ子供たちの歩んだ道を本にまとめます。
『お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい』というタイトルで、昭和五十三年十二月にサンケイ出版(現・扶桑社)から世に出ました。
やがて絶版になったものを、一部修正して復刊したのが本書です。
やっちゃんの詩はまだまだ、旅をします。
七尾市の三藤さんの手で、書に形を変えて現代の女子高生に「生命の大切さ」を訴えた詩は、やはりそれに心を打たれた市内の病院の院長夫人に譲られ、いま待合室に飾られているそうです。
ブラジルで福祉活動を行っている身障者の日本人や、新潟県のキリスト教の牧師もホームページなどで、以前からこの詩を紹介。
中学生用の道徳の教材になったこともありました。
こうした経緯とともにやっちゃんの詩を、読者との“キャッチボール”のコーナー「双方向プラザ」(産経新聞、毎週日曜日掲載)で紹介すると、「うちの子も病気で耳が聞こえませんが、親としてこの詩に勇気づけられました」「泣かされました。本も読んでみたい」といった声が 再び、産経新聞社に寄せられました。
兵庫県の主婦は「ママさんコーラスのグループで十五年ほど前、この詩に曲をつけ歌ったこ とがあります。『あの詩だ1』と驚きました」と、古い楽譜を送ってくれました。歌といえば、 やっちゃんが亡くなった後、作曲家の遠藤実さんが彼の詩にメロディーをつけ、フジテレビの 人気番組『小川宏ショー』で、歌手の森昌子さんが涙ながらに歌ったエピソードも本書に出て きます。
本書のテーマともいえる、「ごめんなさいねおかあさん」で始まるやっちゃんの詩は、時 を超えて、大勢の人の心を今なお動かし続けていたのです。
彼が生きたのは、まさに日本が高度経済成長をとげ、そして終焉を迎えつつあった時代です。
「七〇年安保闘争」の嵐が大学に吹き荒れるさなか、昭和四十五年には大阪府吹田市で日本万 国博覧会が開かれ、昭和四十七年には浅間山荘事件が起きました。
激動の時代でした。
そのころに比べ、世の中は大きく変わりました。
やっちゃんたちが夢見た「たんぽぽの家」は完成して二十年を超え、その母体となった奈良の「たんぽぽの会」は結成三十年になります。
からだの不自由な人たちへの理解も進み、「バリアフリー」は当たり前の環境として語られます。
かつてはマイナスイメージだったからだの障害について、いまは「個性」とか「たんなる身体的な特徴」とみる考え方もあります。
評論家の櫻田淳さん、『五体不満足』(講談社)の著者の乙武洋匡さんのように、ハンディをもちながらも活躍している人は少なくありません。
障害をもつ人たちは、どんどん社会に出ています。
しかし、それを可能にした社会の変化も、やっちゃんたちの時代の障害者(児)とその家族の苦労、経験の積み重ねがあったからこそなのでしょう。
いま、「障害をもつ人も、もたない人も、分け隔てのない時代」に向かっているとすれば、その原点のひとつをここにみることができるはずです。
本書を復刊するのも、そうした考えからです。
向野先生は、「ごめんなさいねおかあさん」というフレーズは、やっちゃんにとって「ありがとうおかあさん」という言葉と背中合わせになっている、といいます。
復刊にあたって、先生はこう語りました。
「あの子の詩は、障害者が『ごめんなさいね』なんて、いわなくてもすむような世の中であってほしい、というメッセージ。今もこうして皆さんの心に、呼びかけているんですね、いま、障害者の問題は、高齢者の方たちの問題でもあります。『老いる』というのは、障害が先送りされているということ。歳をとると、足腰が不自由になって車椅子が必要になったり、知的障 害になったり……。健常者の方も、たいていはいつか障害者になるんですよ。だから、やっちゃんたちは私たちの先輩。世の中をよりよくするよう切り開いてきた、パイオニアなんです」
そして、こうもいいます。
「福祉をとりまく環境がよくなっても、善意とか情けの意識が残っている以上、まだまだ発展途上。
それに、いまの世の中、人と人の『愛」というものが希薄になっているような気がします」と。
生まれてきた子供が障害をもっていたがゆえに、悩みながらもたっぷりと注がれた親の愛。
そして、それと同じだけ応えた子供の愛。
この本は、あの時代のやっちゃんたち障害者の記録であると同時に、「ごめんなさいねおかあさん」「ありがとうおかあさん」に象徴される、母と子の絆、家族の絆という永遠のテーマを問いかける物語でもあるのです。

(注)「ウェーブ産経」「紙面の向上」「読者と記者・筆者との交流」「伝統文化の尊重と社会貢献」などを柱に活動している、いわば産経新聞のファンクラブ。
美しい日本の文化を守り継承する、日本や世界の勇気ある人たち・恵まれない人たちを応援するなど、スローガンにそったテーマで一ヵ月にほぼ一回、「ウェーブ産経」の特集を産経新聞に掲載しています。
(本書 復刊に至るまで より引用)

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 ひょんな事から、この本を、外国で、手にして、読みました。私は、やちゃんと 同じ世代です。私が、通っていた小学校にも
7組と言うクラスがありましたが、6組までの、クラスとは、全く交流がなく、今思えば、せっかく、同じ学校にいたのに、どうして、もっと生きた教育をしてくれなかったのだろうと、残念に思います。今住んでいる国では、ふつうに、障害者の方が、一緒に暮らしていますが、日本は、果たして やっちゃんの時代と大きく、変わったと、いえるでしょうか?私は、あまり、変わっていない気が、するのですが・・・
written by ひつじの国に住んで / 2009.06.09 20:46

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