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あほう総理とバカ殿様..



 我が家のソプラノ奥様は、夫(つまり私)が勤務医のときは、それなりにふつうの奥様であった。しかし、夫が開業したため毎月の経費支払い、生活費捻出に奔走する毎日となり、しだいに追いつめられるようになった。仕方なく神社仏閣に足を運び、しばし瞑想することが増えたという。すると、あ〜ら不思議、目をつむるといろんなものが浮かんでは消えることが多くなったという。あるときは聖徳太子、あるときは大黒様、またあるときはきつね様が浮かぶ、など、互いに関連のなさそうなものがいろいろと浮かぶんだって。

 そこで自宅に戻ってネットでいろいろと調べていると、その日のテレビで放映する内容だったり、翌日の新聞に特集があったり...まあ、関連妄想的というか..予言者的というか...?、次第に予知夢的な状況になりつつあるという..。

 ま、世間的には鈍感な夫に敏感な妻..かな?

 あるいは、無心論者的な夫と信心深い妻..?



てなわけで、まるで話の噛み合ないこともしばしば(というか、奥様が目をキラキラさせて、目に浮かんだものを説明してくれても、私にはまるで????という感じ..)なのだが、今回は、彼女の話に私はぴくんと感じてしまった。



彼女は、突然、何の脈絡もなくこう言い放った。

○○神社で拝んでたら、志村けんのバカ殿が出てきたんよ。そんで調べてみたら、バカ殿のモデルは徳川家重なんやて。でな、家重は増税して一揆がいっぱい起こったんやて。

消費税増税なんて、3年後でも絶対したらあかんわ。国民生活が3年でよくなるはずないし。やっぱり総理は『バカ殿様』やね♪〜


は..? 『バカ殿様』? そ、そら、オレもそうやと思ってはいるが..なぜ、ウチの奥様はブロガーみたいな口を聞くねん??



すると、奥様はWikipediaのコピーを見せて、自慢げに次のような説明をしてくれた。



『志村けんのバカ殿様』のモデルは徳川 家重(江戸幕府の第九代将軍)。

 家重は、病気もあったけど、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害し、将軍には不適格だと言われていたが、長男ということで将軍にはなった。しかし、父の吉宗が推進した享保の改革のという負の遺産があった。家重の時代、幾つかの独自の経済政策を行ったが、負の遺産である享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。

結局、家重は、非常に優秀な側近のおかげで実質的に統治を続けられたが、自分では何も出来なかったということ。

 つまり、あほう総理とおんなじやね。負の遺産と増税で社会不安は増すばかりなんや。




う〜む。政治に疎い奥様だと思っていたけど、ポイントはついているぞ。あなどってはいかん...。



 あほう総理様、今は、サイバー奥様が全国にいて、日々刻々と政治情勢も観察してるぞ。そればかりか、ウチの霊感奥様?みたいに、政治に無関心と思えた層まで、ネット調べて情報を得ている。コイズミの負の遺産の反省をしないうちにバラマキ政策したところで、3年後の消費税増税につながっている以上、国民はダマされませんよ。って〜か、追加経済対策とやらで、現在困っている人達はまるっきり救われないではありませんか?

 そこそこカネのある人だけ救ったところで、社会不安が解消されるはずはないですよね? あなたが居座っている間、ず〜〜っと政治空白が続くだけなんですよ。



   =====================

<参考資料:Wikipediaより抜粋>

『志村けんのバカ殿様』(しむらけんのばかとのさま)は、フジテレビ系列で放送されているバラエティ番組である。単発の特別番組として年3回、特に1月、4月、10月頃に放送される。2006年4月12日の放送で20周年を迎え長寿番組となった。通称「バカ殿」。元々はTBS系の番組『8時だョ!全員集合』のコントの1つであった。本稿では特に断り書きの無い限りフジテレビ系列の独立した番組のことを記述する。志村藩の殿であるバカ殿を中心に、城内・城下で起こるさまざまな出来事を一連のコントとして番組化している。



殿志村けん)

本名:志村 けんのすけ(しむら けんのすけ)、通称「バカ殿」。名前通りバカな殿。あまりのバカぶりに爺から「こんなバカは珍しい…珍バカだ!!」「バカのオリンピックに出たら金メダルが取れる」と評されるほどである。服は殿様らしいが顔は真っ白で口紅を塗っており、ちょんまげをしている。羽織る羽織の色は、初期は銀色系のものであったが、『8時だョ!全員集合』末期の頃から朱色系のものになった。下ネタセクハラ悪戯が大好きで、城内にもからくりをたくさんしかけている。また、超オンチでもあり、宴会で吉幾三の「雪國」を歌ったところ、宴会場が半壊したこともあった。こんな殿様でも家来は沢山おり、誰もが忠臣ばかり。父親である先代の殿が名君だったためであり、いつも家老からはそのことを絡めて小言を言われている。親藩であり(その証拠に「丸に三つ葵」の徳川家の家紋が城内に見られる)、モデルは江戸幕府第9代将軍徳川家重である。幼名は「竹千代」。志村城の城主、志村12万石の領主(初期は50万石)。奥方はおらず、爺や家来からしばしば「いつ結婚するんだ」「早く結婚しろ」などと言われている。



徳川家重

徳川 家重(とくがわ いえしげ)は、日本の武士江戸幕府の第九代将軍

将軍になるまで

正徳元年12月21日(1712年1月28日)、御三家紀州藩の第5代藩主(後に第8代将軍)・徳川吉宗の長男として江戸赤坂の紀州藩邸で生まれる。母は側室・大久保氏(お須磨の方・深徳院)。幼名は長福丸(ながとみまる)。父・吉宗に正室との間の子がいなかったため世子とされた。

父・吉宗が将軍に就任すると同時に江戸城に入り、享保10年(1725年)に元服する。家重は生来虚弱の上、脳性麻痺とも推測されている障害により言語が不明瞭であった(『徳川実紀』には「御多病にて、御言葉さはやかならざりし故、近侍の臣といへども聞き取り奉る事難し」とある。)ため、幼少から大奥に籠りがちで酒色にふけって健康を害した。享保16年12月(1731年)、比宮増子と結婚した。

言語不明瞭に加え、猿楽)を好んで文武を怠ったため、文武に長けた次弟・徳川宗武と比べて将軍の継嗣として不適格と見られることも多く(一条兼香の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず、酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。)、父・吉宗や幕閣を散々悩ましたとされる。このため、一時は老中・松平乗邑によって廃嫡されかけられたこともあった。しかし長子相続ということで、延享2年11月2日1745年11月24日)に吉宗は隠居して大御所となり、家重は将軍職を譲られて第9代将軍に就任した。しかし宝暦元年(1751年)までは吉宗が大御所として実権を握り続けた。家重への将軍職継承は家重の長男・徳川家治が非常に聡明であったことも背景にあったと言われている。

将軍として

家重の時代は吉宗の推進した享保の改革の遺産があり、綱吉が創設した勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度を確立する等、幾つかの独自の経済政策を行った。しかしながら負の遺産も背負うこととなり、享保の改革による増税策により一揆が続発し(直接には宝暦5年(1755年)の凶作がきっかけであるが、本質的には増税が原因である)、社会不安が増していった。

また、健康を害した後の家重はますます言語不明瞭が進み、側近の大岡忠光のみが聞き分けることが出来たため忠光を重用し、側用人制度を復活させた。田沼意次大名に取り立てられたのも家重の時代である。(家重、大岡、田沼にあたるのが、自民党が誇るNASA(中川昭一、甘利、菅、麻生)ではね..、ご利益NASAげです...)



あ、補足でげすが...家重は、いろんな病気もあって、肖像画では常にひょっとこみたいな顔で描かれているそうです。そういえば、誰かさんも...(まあ、身体の特徴をあまりあげつらうことは...ですが..、でも、似てるって言えば似てるかな...)




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