ボクは大した医者でもないけど、自治体病院に19年ほど勤務していた。その間、大学の内科の併任助手、学内講師、講師という肩書きをもらっていた。で、私の勤務する病院には大学から3ヶ月交代で1名ずつ研修医がやってきた(病院全体に4名、そのうち1名が私のいる神経内科に配属された,ということ)。その頃の想い出話を少し。(この記事は肩は凝らないよ)=============================================================研修医は大学卒業から2年間。今と違って研修医は日雇い形式で月に14〜17万くらいの給与で朝から晩までよく働いていた。でも、1年目のあまり経験のない研修医と2年目の後半くらいの研修医とでは雲泥の差で、前者がやってくるとこっちも大変だった。大学で点滴もろくに習ってない医者が、老人の多い当院の点滴当番をすると、ひどいものだった。個人差がかなりあったが、点滴の針を先端だけわずかに挿入するのですぐ漏れてしまい、全部病棟の看護婦が後から回って入れ直していた,なんてこともあった。2年目の後半になると、ほとんどの連中はそこそこうまく入れていた。でも、ちょっと経験を積んだだけで天狗になるのやら要領だけうまい奴もいて、午後5時になるとサッと帰る医者もいた(当時は夜遅くまで病院にいるのがふつうだった。)。−−−−−−神経内科のカルテってのは、真剣に書くとかなり複雑で,意識レベル、精神状態から、脳神経系、四肢体幹の運動機能、感覚、深部腱反射、小脳機能、脊椎の状態、自律神経など詳しく書くと、3〜4ページ使うこともあり、そこに担当した入院患者の問題点、方針など書き込むと、5〜6ページにもなることがあった。だから、ある程度大学で習って来た優秀な研修医は入院患者を担当すると30分以上かけて神経所見、全身所見を観察し,1時間以上かけて指導者の私もビックリの詳細なカルテを作っていた。さらには業者に頼んで症例に関連する文献(医学論文のコピー)を山ほど集めたりもしていた。でも、あまり神経に興味がないけど神経内科に配属されてしまった研修医もいる訳で、入院患者の所見やら方針やら、1ページで済ましてしまう医師もいた。当然,大学であまり神経内科を習って来なかった研修医は何を書いていいかわからない感じだった。−−−−−−でも、私からみて出来の悪そうな医者の中にも、ある症例に興味を持ったら俄然頑張り始めるのもいた。また、神経は興味がなさそうでも、ある患者が心不全になったとたん、循環器の医者にいろいろ相談しながら勉強して必死に治療したり、とか、各人の特徴が面白かった。−−−−−−−−−あの頃は楽しかったと思う。ボクにとっても医療の原点だったし、当初(昭和59年から5年ほどの間)は40床を常勤3人と研修医1名で担当し、何年も入院している寝たきり状態の患者も結構いたが(今のように平均在院日数を気にしなくてもよかった)、新患もそこそこ入り、毎週2〜3人は脳血管撮影をして、血管の老化(動脈硬化)をまざまざと知ることとなった。そして、2ヶ月,3ヶ月さらに長期のリハビリをする脳血管障害の患者も多数観察することが出来た。リハビリの可能性と限界は、長期間入院することも可能な施設でなければ理解できなかったろう。(今のように平均在院日数14日とか26日とか言っていたら、リハビリの醍醐味など無に等しい。追い出すためのリハでしかない。)でも、重症患者は多く,特に私の上司などはいつもお泊りセットを持って来ていて、自分の患者が重症になるといつも病院に寝泊まりしていた。私は家が近かったので上司のマネはしないで済んだが、それでも夜間や休日もしょっちゅう病院に出向く習慣が身に付いた。そして、精神的に余裕があったから、深夜まで学会発表の準備をしたり(院長が自分で発表する、と言った時は手伝いが大変だった。学会直前3日間、毎晩午前2時まで発表スライドの図を作ったりもした)、月に一度は病棟の看護婦さんや研修医達と宴会をして、これまた午前1〜2時頃までカラオケ三昧で遊んで、翌日はまた張り切って仕事をしていた。(出費は時々きつかった。上司が金払いのいい人で、1回の宴会で5万程度は覚悟していた。病院全体の宴会ともなると、最高で20万頼む、と言われて、目が点になったこともあったっけ。でも、この頃は、カネがなくなってもいいと思っていた。女房には苦労をかけたけど、仕事に喜びを感じていたから。)−−−−−−−−−−この頃の印象はといえば、病棟のチームワークが良く、皆、仲が良かった。古い病院だけど、皆、生き甲斐を感じていた。看護婦も患者さんをほんとに大事にしていた。そう言えば,3ヶ月研修して、看護を学べたのが一番良かった、って言ってた研修医もいたっけ。常勤医かつ指導者のボクの前で。「オレの顔つぶすな〜!」って言ったけど、本心はそれでいい、と思ってた。だって看護婦連中、みんなよく頑張ってたもんね。=========================================でも、医療事情が次第にかわり、一次救急を受けさせられる頃から、事態は厳しくなって行った。その頃から、経営改善が叫ばれるようになり、人手がたらないのに救急で振り回されるようになり,平均在院日数を減らすために入退院の回転が激しくなった。研修医も無償で何度も当直の手伝いをしたり、勉強にはなったろうが疲労も激しくなっていった。医者はふえずにベッド数は増やされ,ボクらの負担も著しく増えて、医者も看護婦も宴会をする元気も徐々になくなって、腹を割って話す機会も少なくなった。落ち着いて考えるというより、必死の形相で与えられた業務をこなす、って感じになって、とにかく余裕が年々なくなってしまった。===========================================================それがさらに進行したのが今の医療だと思うよ。若い人には可哀想だが、約20年前の医療を経験した医者と今の医療しか知らない医者とでは、患者さんに対する対応が違うと思うよ。今は、ムンテラは時間をかけて詳しくしているだろうが、心の余裕がない対応が増えていないか?。患者さんや家族と心が通じ合う場面が極端に少なくなってないか?。無理はするなよ。やっぱり原点は人間と人間の付き合いなんだから。ボクは20年前の医療制度は今と比べて決して悪くないと思っている。介護保険なんてなかったけど、その分を医療が背負っていた。少なくともボクのいた病院では。そして、今よりいい医療が出来ていたんじゃないかと思っている(医療費は大して変わらないと思う)。開業したボクの心のよりどころです。
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