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炎上もせずになんとか続いた というより 昨日の最終記事でも書いたように実に楽しんでブログを書き続けることが出来た。僕の「記憶喪失への保険」であり、「子供たちへの手紙」としてスタートしたので 実に個人的な記事ばかりで埋め尽くされている。
書いているうちに やはり両親や恩師への感謝の気持を抱くようになった。悩む度に助けてくれた友人たちや 過去に知り合った素敵な女性たち、そして愛する家族たちへも心から感謝したい気持は山々ではあるが、「匿名ブログ」ゆえ 感謝の気持を直接つたえられないのが残念と言えば残念である。
ブログの場を提供頂いている「m3」にも感謝したいし、これからもよろしく・・・とお願いしたい。

昨年の10月20日に当ブログを開始して 既に季節も一巡り・・・ 政治的・社会的・時事的な話題はさておき、僕は自分の書き残したい事を 何とか半分程度は書くことが出来た・・と大いに満足している。既に記事数は 当初の予想を遥かに超えて 600程にもなった。アクセス数は「m3」の中ではあまり多くないし、内容的にも 医学的・啓蒙的記事が少なくて 医師の端くれとしては少し恥ずかしいが、「自己満足」が本来の目的なので勘弁願いたい。マサカとは思うが、中には僕が医者であることに気付いていない人があるかもしれない・・
今後のことであるが・・・・・
少しだけ 構想のための時間を空けて、いずれ近い将来 再び 「m3 ブログ」を再開したいと願っている。多分、【 Back to the street ・・・】という このブログ名は変えることになると思う。ただ過去の記事のほとんどは削除せずに当分は残しておきたいので、「どんな医者がつまらない連載記事を書いてるのか?」と、もし興味があればお読みいただきたい。
今後の「ブログ名」はまだ決めてないが、ヤッパリ佐野元春さんのアルバムなどからのタイトルを借りるだろう。あるいは、1982年に始まった彼の最初の全国ツアーの名前【 Welcome to the Heartland 】にでもしようかな・・・
ブログの「テーマや内容」も チャンとは決めてはいないが、少しばかり短編恋愛小説風な文章に初めてチャレンジしてみたい・・・というのが現在の僕の願望だ。
佐野さんのファンで 小説家の小川洋子さんが、数年前に「アンジェリーナ」という短編小説集を出したことがあった。佐野元春の楽曲を10作ほど選んで、イメージを膨らましながら「彼女の小説」に仕立てていく趣向の短編集だ。
正直なところ、「面白い企画」だと思ったものの、僕の感じる楽曲のイメージとの差異がありすぎて、全く満足できなかったのである。それで、ず~っと長い間、僕なりのイメージで同じような手法を使って佐野元春の楽曲の短編集を書いてみたいと思っていた。【僕のHeartlandの中の 彼と彼女の物語 】を いつの日か描いてみたかった。
「登場人物」も「 シチュエーション」も 出来れば僕の人生のどこかで出合ったようなものであれば尚いいかな・・と思いつつ 昨日までの記事をシコシコと書いてきたような気がしている。だから、いくつかは「過去の記事」から連想可能かもしれないし、ほとんど「実話」かもしれない。登場する女性たちは、実在か 空想か 願望か・・・ たとえ彼女らの「本名」を使っても 僕と本人だけにしか気付かれないだろう・・・ そんな世界を上手に描ける小説家や詩人や音楽家が限りなく羨ましい。
出版もしたプロの小川洋子さんは、「アンジェリーナ」の作品を書く際には佐野元春さんに承諾を受けたと書いておられるが、アマの僕は・・・「大ファンの想い」を免罪符に、勝手に「佐野さんと僕の Heartland・・・」にチャレンジしてみようかと想う。
どんな内容になるか、どれだけ続くか、果して自己満足ができるか? 不安と同時に 勝手にウキウキした気持を今は抱いている・・・
スタート時期もまだ未定ではあるが、早ければ11月にはスタートしたい。もし、楽しみにして頂ける方があれば・・・よかったら「m3」内に探してみてほしい。今まで以上に 僕の「自己満足の世界に」驚かれるかもしれないが・・・ ご勘弁願いたい。
これが恐らく 僕の「とりあえず最後」の記事になると思う。最終日の明日19日は「今後の願望」を書こうかな・・と思う。
暇があったら読んで欲しいが、今日は 1978年3月の旅立ちの記憶である・・・
その前に、実は カウントダウンの「三回の旅立ちの記憶」を書こうとした後で、どの三回を選ぼうか相当迷ってしまった。最初に進路を自分で決めたのは「どこの中学に進むか」だったし、医学部に進路を定めた後も、「どこの医学部に進むか」も実に大きな決断を要したわけである。それなりにスンナリ決まらずに家族との対立も経験した。でも、僕に最も相応しいだろう・・と、最後の記事は「高校卒業」をテーマに選ぶ事にした。
何度か書いたことがあるが、僕は一年間の予備校生活を送った。別に恥だとも思わないし、実に多くの実りを人生にもたらしてくれた一年間だったと思う。
僕は高校2年の途中まで文系志望だった。最初は政治家、次は外交官、その後は検事か弁護士になりたいと思っていた。今でもそんな仕事が出来るなら してみたい。
そのせいだと言うと言い訳がましいが、僕は理系教科を怠けて仲間に遅れをとって受験に失敗した。旧制高校の名残のある大学医学部の受験が終わった時、「受かりそうだ・・」と感じたがダメだった。人生そんなに甘くは無かった。合格発表に名前を見出せずに、列車にのって家に帰り着くまでの長く苦しく悲しかったこと・・・合格して喜ぶ友人達と顔を合わせるのが辛かった。
進学校だったが、浪人生の多くは校内の「補習科」と称する学内予備校に通うのが普通だったが、僕には耐えられなかった。環境を新しく変えたいと感じたし、進路をもう一度考え直したかった。そして僕は仲間から離れて予備校に行く事にした。
予備校にも難しい受験があった。何たることか 駿台予備校のトップクラスには合格できず、再びショックが襲ってきた。何で予備校まで落第するの? 駿台の2番目のクラスに入ろうとして寮を見に行ったが、紹介された板橋区にあった寮への満員電車に乗ったら 気力が一気に失せていった。ここ板橋では僕は耐えられそうも無い・・・ そして、代わりに京都駿台のクラスを選ぶ事にした。それが僕にとっては良かった事だと今では確信している。
京都の予備校の【東山南寮】の話は以前ここで記事にしたと思う。憧れだった旧制高校の寮生活を髣髴とさせる古都の寮生活だった。
しかし、一度受験に失敗すると色んな事を考えてしまう。「このまま医学部へ進むべきか」 「次回は安全策へランクを下げるのか」 「どこの街で大学生活を送ろうか」 などなど、考える時間は勉強時間を削りさえすればタップリあるようで、京大へ進学した先輩などを訪ねながら 受験勉強そっちのけで思索にばかりふける困った予備校生だった。
実は予備校生も五月病にかかる。僕は「医学部進学コース」に籍は置きはしたものの、かつての文系への想いが再び甦ってしまった。東大文系に進むほうが幸せか? この答えはまだ出ていないが、医学部進学への決意が再び定まった時には既に季節は夏だった。ず~っと悩んでいた僕は、ある日 予備校をすっぽかして、金沢へ列車で向った。そして、一日かけて金沢と内灘を巡った。
志望校の一つであった金沢大学附属病院を見学したが、実は四高で学んだ井上靖の跡を辿りたかったのである。井上は漱石と共に僕が中学高校で最も好きだった作家の一人だった。あんなバンカラな旧制高校の生活に憧れていたわけである。
日本海を見下ろす内灘の丘の上の「井上の碑」を訪れて、僕は不思議と素直な気持ちになった。そして「迷い」が吹き切れた・・・ 「やっぱり医者になろう・・」と想いながら京都へ戻った。
その後、僕は金沢大学を受験はしなかったが、金沢は僕にとって色んな意味で大切な街になった。昨年の夏、僕は医者になって初めて金沢を訪れた。妻を連れての日帰り旅行だったが、僕の心を全て伝えることは簡単じゃない。この記事を妻が将来もしも読む機会があれば、僕の事を今より少しくらい判ってくれるかもしれないが・・・
さて、この一年間 駆け足で過去を振り返ってきたが、本当に楽しかった。僕の人生はこんなだったかな・・と子供たちには伝えたかったし、薄れ行く記憶を定着させるには貴重な作業だった。
小説家・詩人・音楽家・映画製作者などなど 自分の軌跡を鮮やかに残せる仕事の人が羨ましかったが、普通の医者である僕も、今回の一年間のブログ活動が「自分自身の再発見」には繋げられたかと感じている。川の流れをのぼり下って歩いて辿る様に人生を振り返る・・・ 実に楽しい作業だった。
最終回の明日は、今思い描いている「ブログ活動の今後」を書いてみたい。
みなさん 一年間 読んでくれてどうもありがとう。
二回目の今日は1985年5月の記憶である・・・
医師国家試験が終わった四月の初め、僕は旅行会社に行って初めての海外パッケージ旅行を探した。まだ卒業旅行とやらが流行していたわけではなく、とにかく試験が終わって・・という感じだったが、いざ暇になると 5月中旬の合否発表まで国内に居ては落ち着かない気がしてきたのである。
既にどれも締め切りで 選ぶ程ではなかったが、僕は最初で最後のパッケージ旅行のスタートを ギリシャに決めた。言うまでも無く、ヒポクラテスの故郷・・・まだ医師でもない宙ぶらりんの身ではあるが、これからの人生を医師として生きていくうえでギリシャへの旅は相応しいと感じた。実はこれがはじめての外国であった。
ギリシャでは、「ヒポクラテスの誓い」の銅版レプリカを購入した。この写真はそれとは違うが、似たようなものだ。引越しばかりしているうちに所在不明になってしまったが、そのうち探し出そう。

ギリシャからイタリア、オランダ、ベルギーと周り、念願のユーレイル特急でパリの北駅に入った。
その時までに親しくなったKさん、オペラ座のステップで旅行の最後の晩に二人で語り合った事を覚えているだろうか? 隣のル・グランの部屋に戻って・・・僕は旅行の間の事を思い返していたけど、どうしても眠れない一夜だったことを 貴方に後日伝えただろうか?
旅行から帰国した二日後が合否発表の日だった。合格率は高く、まさか落ちるとは考えなかったが、合格した翌日に「医局」へと出向く手はずになっていた。
僕は某国立大学を卒業したが、循環器科で有名だった某私立大学の第@内科に入局を決めていた。卒業直前まで産婦人科志望だったが、帝王切開手術の見学中に「ヒンケツ」という名の迷走神経反射を起してしまって・・・諦めてしまったのである。当時は産科医不足ではなかったので引き止められはしなかった。そして、佐野元春の「HEART BEAT」という曲に引きずられるように僕は志望を循環器科へ変更してしまった。実に安易な人生設計である。
幸いにも国家試験は合格した。そして、翌朝・・・古い建物の薄暗い医局とやらに新入医局員11名が勢ぞろいした。他大学からは僕とY君の二人で、何となく余所者の肩身の狭さを一瞬感じたが、良き仲間に恵まれたと直ぐに判った。国立から私立へ入局したので物好きだと思われたようだった・・・
医局長のS先生は、20年以上もたった今でも公私共に親しくさせていただいているが、僕の大学まで(僕みたいな優秀な学生を)スカウト?に来ていただいて凄く感謝している。S医局長の紹介で皆揃って当時の教授に初めて顔を合わせたが、噂とは違って良い雰囲気の権威を感じて安心したことを覚えている。

医局棟から病棟への長い道のりを 新品の白衣に身を包み 医局の同級生たちと一緒に歩みながら、僕は過去を振り返りつつ今日から始まる医師としての新たな生活に胸躍らせていた。そして、それは確かに素晴らしい医師人生の始まりだった・・・と 今のところ感じている。
教授の恩師の前教授に大学時代に出会い、なんとなく自然な流れで入局が決まったような錯覚さえしたくらい居心地の良い医局生活だった。
たった 27,350円という安い月給を除いては、僕はその医局が大好きだった。「白い巨塔」という「虚像」などクソ喰らえ・・・である。実際の医局生活には、実に温かな息遣いや指導や友情が確かに存在した。今の研修医たちは医局の本当の良さも知らず、悪い面だけを喧伝されて可哀想だと・・・僕は思う。
こうして、僕は医師として旅立った・・・ その医局生活で出合った全ての人々に僕は深く感謝している。
読んでくれてどうもありがとう。
(19日へ向けて 勝手にカウントダウン)
今日から三回に渡って(個人的な目的で)僕の「旅立ちの記憶」を書き残しておきたい。いずれも、大きく「場所」も「立場」も「環境」も変わり、将来への不安を抱きつつ 自分で選んだ「旅立ち」だったし、僕の人生における大きな転機だった。勿論、そこに至るには数年間の助走期間があるのではあるが、思い切って足を強くけりださないとボールは前に飛ばないのである・・・・
過去に遡ることにして、まず最初は1991年の1月の話から・・・

僕は正月明けの成田空港から ワシントンDCに向けて一人飛び立った。「留学」と言うにはあまりにも準備不足な無謀な冒険だったかもしれない。1年間の留学許可ビザ、多分2年間にはなろうと思っていたが 結果的には3年を過ぎた。途中で大学も研究内容も変わったし、結婚して子供まで生まれた。
不安はあまりにも多かった。医師になって6年目で 臨床を離れる不安、研究内容や成果への不安、英語や生活への不安、経済的な不安、健康への不安・・・正直なところ、不安で不安で 準備や考える事が苦痛に思えたこともあった。でも、「留学する事」そのものが医者になって以来の僕の夢だったので、最後は「エイヤ!」っと飛び立った気がする。
先輩が引いてくれたレールでもなかったし、自らの研究成果で獲得したステップアップや箔付けのための留学でもなく、云わば新規開拓に近い先の不透明な「留学」だった。我が医局からの留学はそれまで「引継ぎ留学」が多かっただけに、当時の主任教授も内心気にしてくれていたようだ。優しい眼差しの中に「ほんとに君は大丈夫なのかね?」という表情が読み取れた。
さらに僕は、直前に婚約した女性を日本に残して旅立った。生活を整えて いずれ留学先で二人で暮らすことになるだろう。もしも研究が上手く行かず精神的に落ち込めば、結婚生活自体も不幸なスタートとなるかもしれない・・・・それは避けたいことだった。

そんな事などをツラツラ考えながら、ANA便はワシントンのダレス空港に到着した。海外には何度も行ってはいたものの、アメリカには実は初めてだった。他の大学から数ヶ月前に同じ大学の別の研究室に留学していたT先生と手紙のやり取りをしていたが、今と違ってPCもメールも携帯電話も無くて、FAXと手紙でのやり取りは大変ではあった。
ダレス空港は雪だった。モバイル・ラウンジという運搬車両に早速カルチャーショックを受けて 僕は初めてアメリカの地を踏んだ。フィラデルフィアまでの飛行機は DCのナショナル空港からのシャトル便だったが、そこへのバス移動にまず戸惑った。沢山の手荷物を両手に持って、なまった英語に困惑しつつ やっとの思いでナショナル空港へ移動したが、予定の便は何故か欠航だった。いきなりのトラブルで、二時間後に迎えに来てもらう予定のT先生のラボに電話する必要が出来てしまった。
初めての公衆電話、しかも長距離・・・ 25セント硬貨が沢山必要らしいが 到着したばかりで小銭もなく、売店で両替を頼んでも小さな日本人には少ししかしてくれない。次は何時の便が出て、僕がのれるか乗れないかも判らず、電話も数回かける羽目になってしまった。あの時ほどアメリカの公衆電話を恨んだことは無い。今でも公衆電話は苦手だ。
やっと2時間遅れで飛び立った時には 時差ぼけと疲れで、動き出して飛び上がるまでのアッという間に眠ってしまったほどだった。起きた時には既にフィラに到着しており プロペラがゆっくりになりだしていた。
フィラの空港にはニコニコと笑う T先生がアメリカ人を連れて待っていてくれた。初対面のT先生は 二時間も予定が遅れたのに、笑顔で歓迎してくれた。その後もT先生は笑顔を絶やさなかった優しい人だった。
T先生家族は僕のアパートが決まるまで部屋に居候させてくれたが、初対面ながら二週間ほどもお世話になって深く感謝している。
到着の翌日には僕の所属するラボや大学案内をしてくれたが、買い物先や床屋や電車駅や銀行などなど・・まるで自分の医局の後輩の様に世話してくれて、時差ぼけでグッタリしつつもあり難く感じていた。
アメリカの大学のラボなどは最初の歓迎自体は日本よりも温かいような気がする。ただし、英語は通じないと悟ってしまった。
こうして僕はアメリカに旅立った・・・ その後の 3年数ヶ月間の全ての出来事に 僕は深く感謝している。
読んでくれてどうもありがとう。
(10月19日のラストに向けて 勝手にカウントダウン)
昨日は娘の学校の「定期演奏会」だった。多分その学校を中学では離れるだろうから、彼女の最後の「定期演奏会」になることだろう。娘は最初の2曲に出演したが、大きなコンサート会場での小さな姿・・・ビデオも写真も撮らずに瞼の奥に写し込んだ。
午後2時から夕方5時近くまで続いた演奏会、娘のパートが終わり 一度は会場を出たものの僕はまた舞い戻ってしまった。「第一部 ハンドベル演奏」 「第二部 コーラス」 「第三部 吹奏楽」 という三部構成だったが、全部聴いて本当によかったと思っている。そのとき、僕はず~っと昔の「コーラス大会」の事を想ってはいたのだが・・・
僕の通った高校では男子校ながら「コーラス大会」が凄く盛んだった。専門の指導教官も居らず、学園祭の時だけの臨時コーラスグループなのだが、その伝統がいまも続いているようで嬉しい。
クラス対抗の形式をとり、クラスの音楽経験の豊富な奴が皆で選んだ曲の編曲と伴奏と指揮を全てやるのである。ついでに各クラスから審査員を出し合って、自分達で審査をして順位をつける。クラスマッチ形式なので当然ながら審査は厳しく、亀田流のインチキ採点は全く通用しないのである。審査員は大会の数週間前に招集され、審査のコツやポイントなどを話し合い、重要な審査委員長を相互選考するのだ。
審査委員長自身が音楽が得意である必要はないのであるが・・・・・高校最後の年に、僕は栄えある審査委員長に選ばれた。審査員は「歌えない」ので・・・僕が歌が下手だったのが理由かもしれない。でも、僕の秘かな自慢なのである。多分 だ~れも覚えていないハズだが・・・
僕らのクラスは1~3年まで持ち上がりで息も合い、常に優勝を狙う位置に居た。最大の功労者は音楽一家のS君で、亀田家の様に幼くして音楽の英才教育を施されたS三兄弟だった。違いは上品な親に教育を受けて他人に危害を加えたり風紀を乱したりしなかった事だろうか・・・ だが、S君のお陰で何度か優勝できた。僕がコーラスを乱さなかったのも貢献度大と思う。
さて、思い出すのは曲だ・・・ 練習だ・・・ S君の指導だ。S君はピアノもギターも何でもゴザレ・・歌も上手いし指揮まで上手い。その後は指揮棒を「メス」に持ち替えて外科医として活躍したが、彼なくしては「優勝」は出来なかっただろう。
僕らは60年代後半~70年代初期のフォークソングを好んで歌った。一番の想い出は1969年の「風」で、はしだのりひことシューベルツの名曲だ。杉田二郎を擁したが、この曲は珍しく杉田のボーカルではなかったので良かったかもしれない。
はしだのりひこ は、その後 クライマックスと名を換え71年に名曲「花嫁」をヒットさせた。バンドを組んでたK君に、『ボーカルが急に休んだので今すぐ歌え・・』と誘われて 学園祭で他校の女子校生を前に「花嫁」を熱唱したのを僕はハッキリ覚えている。数年後に大学の学園祭の「喉自慢」で杉田二郎の『男どおし』をアカペラで熱唱したのと同じくらい気持ちよかった・・・ 佐野さんを愛してからも歌うのはフォークが多く、佐野さんの曲はほとんど歌わない・・・
『プラタナスの枯れ葉舞う冬の道で・・プラタナスの散る音に振り返る・・』 京都の御池通は銀杏で プラタナス並木では無かったが、「16インチの中古自転車」で毎日予備校に通いながら「風」を口ずさんでいた・・・ 
そんな高校の同窓会から 今日初めて「メーリングリストと掲示板のアドレス」が送られてきた。恐る恐る開いてみたが、懐かしい名前と見知らぬ顔写真・・・「え? これがN君? これ本当にH君?」といった感じで、恐らく「僕の姿」も同じように変わったことだろう。
中高6年間の友達は「医者」以外にも多岐に渡り 海外生活者も少なくなさそうだ。懐かしい・・ 自信はないが、僕も後でメールを送ってみようかと思う。このブログを紹介したら 僕の高校卒業後が一遍に紹介出来るが、「匿名ブログ」なので躊躇してしまう。でも、本当に仲の良かった旧友には多分あとで教える・・・と思う。
『人は誰も ただ一人 旅に出て 人は誰も ふるさとを 振り返る チョッピリ寂しくて 振り返っても そこには』 ・・・・多分、沢山の友人や 恩人や 女性たちが ニッコリ笑っていてくれる気がする・・・
読んでくれてどうもありがとう。
(10月20日で満一年、19日の最終記事まで 勝手にカウントダウン・・)
解凍を偽装と批判されている「赤福」の本店のある伊勢に僕が列車から降り立ったのは、亀田家が恥辱の反則連発をTVの生中継で指示した年齢と同じ頃だった。清らかな心と身体の若かりし僕は、亀田家の教育方針やら亀田用語やらは全く理解出来ない清らかな異次元で育ってきた・・・
もうじき一年、想い出話ばかりで恐縮です。暇じゃない人は読まなくていいです。
さて、近鉄で初めて三重入りした頃は、まだ三重も医療過疎地とは言われていなかった。今では全国大学病院で医学生に最低の人気を誇る三重は素敵なところだったと記憶している。今日は、その三重の3000万円で助教授が飛んでくるらしい尾鷲や、オリックそ社に騙されて三重と最下位を競争しつつある高知を愛車で駆け巡った 僕の「青春の想い出」を無理やり読ませようかと思う。
輪行して近鉄宇治山田駅で下車した僕は、伊勢神宮には見向きもせずに 上の愛車を組み立て南へと急いだ。今の歳になると伊勢神宮に参拝したくなり 赤福も食べたくなるが、当時の亀田並みの体力ではサドルにまたがる方が楽しいというものだ。歳のせいで記憶も少々薄れてしまったが、伊勢志摩スカイラインなどは選ばず、確か海沿いの平坦な道を選んで、鳥羽から真珠の養殖で有名な美しい賢島へと走ったかと思う。実は志摩に着くまでを良く覚えていないのである。なにせ25年以上も前の古い話である。

志摩観光ホテルには、一度「志摩カンファランス」で教授と宿泊した事があるが、学生だった当時はほとんど民宿を利用した。賢島の近くには合歓の郷というのがあって、多分ヤマハのポプコンの最初が開かれた場所じゃなかろうか? その近くに浜島町という長閑な海辺の町があって、医学部の親友M君の実家がある。別の県の公立病院で産科勤務医をやってるので 故郷の三重にかえると5000万円程もらえるかもしれないが、強くは奨めない・・・
この辺りを含めて、和歌山県境近くまで海岸線のアップダウンが続く紀伊半島・・・ 良い場所なんだが、生活には不便で 今や医療過疎地なんだそうだ。リアス式海岸の五ヶ所湾の奥の民宿で紀伊半島での初夜を迎えたが、船での移動の方が楽らしい。磯の香りのする静かな春休みの一夜だった。魚料理がこのツアー中 いつも出されていた事を思い出す。賢島より西に観光客が来るのは少ないらしい。ましてや サイクリストは・・・
色んな湾と海へ迫る山・・・武田鉄矢の「贈る言葉」がちょうど流行っていた時期だった。失恋に近い状況の僕にはピッタリ?のもの悲しい歌を口ずさみながらのサイクリングだった。紀伊長島に着くまでは山と海が交互に現れるが、その先は少し単調になった。そして山間のトンネルを抜け、産科の聖地、尾鷲に僕はたどり着いた。
海の傍なのに高台の様な場所の民宿からは美しい海が見えたし、民宿の娘さんも美しかった。どこでお産をしたのであろうか?
尾鷲からは時間を気にして 海沿いの道じゃなく、山の中の熊野街道を選んだと思う。長い長いトンネルが繰り返し、サイクリスト泣かせの尾鷲の西・・・確かに陸の孤島である事をサイクリストとしてハッキリその時に理解した。これなら最低でも3000万円は払わねば・・・ でも助教授は無理だろう。
やっとの思いで熊野へ抜けて、急に海が開けたときには、尾鷲とは別世界かと感じたほどだ。険しい海と穏やかな浜の対比・・・熊野と尾鷲、実はどちらも美しい。
そして僕はいつの間にかサラリと和歌山に入る。そこは新宮だ。新宮高校出身のW君と京都の予備校で親友だったが、彼が南の島の医学部に行って後の消息を知らない。知ってたら、読んでたら連絡をくれ・・W君。実はお前の故郷を訪問したんだよ、俺は。でも、熊野那智大社にも寄らずに残念だった。まだまだ周りが見えず、僕は若かったんだと思う、亀田みたいに。
太地で鯨の雰囲気に浸り、最南端の潮岬を訪ね、ひたすら距離を稼いで南紀白浜の近所の椿の民宿に泊まった。ここの娘さんも可愛くて 翌日付き合ってくれると云われたが、僕はクラクラとする誘惑を振り払い先を急いだ・・・ということにしておく。
で、御坊まで行ったところで時間が勿体なくて、愛車とともに輪行する事にした。紀勢本線で 和歌山港か大阪南港に向った。どっちか忘れてしまったが、徳島の小松島へフェリーで渡るためだった。そのフェリーを待つ港の安食堂で亀田の親父みたいな男に絡まれそうになった。その時から大阪の南の方には恐ろしくて行った事はない。
亀田から逃げるようにフェリーに乗って初めての四国へと渡った。医師数が足りているらしい徳島だ。ここから僕は、オリックそ被害の高知県に再び自転車で向う事になる。ちょうど弘法大師と同じ道のりであろうか?
まずは海がめで有名な日和佐の海岸・・・ここで四国での初夜を迎えた。海がめの産卵を夢に見ながら、静かな感動的な一夜だった。宍喰を越えて、トンネルを抜けて憧れの高知県に入る。三重県に比べると相当に穏やかな海岸が続きサイクリングにはいい道だと感じた。真っ直ぐな海岸を太平洋を左に眺めながらグイグイと室戸岬へと走る。東洋町もを抜け、ほぼ真南に進路を変えると切り立った半島が鋭く太平洋に突き刺さるように伸びている。そこが、サイクリストの聖地、室戸岬である。今では室戸の深層水の方が有名かもしれないが、伸びやかな「何も飾りの無い」鮮やかな岬だった。

その室戸岬を回り込んだ場所から半島の尾根を登り上がる道路があった。今は室戸広域公園として整備されているようだが、我々サイクリストが絶対に見逃す道ではない。尾根の上から振り返りざまに眺める太平洋は真っ青で春真っ盛りの風を感じて走った。麓の道路が平坦で綺麗過ぎたのであっけなかったので亀田並みの体力をもてましていたのでちょうど快感だった。
ただ、そこで妙な事が起こった。その尾根には(自衛隊の)レーダー基地や測候所があったと聞いたが、そこで撮影した写真が全部ブレまくっていたのである。他の場所では一度も無かった強烈なブレだったが、竹内まりあの歌の様に「磁気嵐」だったのではないかと僕は今でも思っている。
室戸岬を訪れてから先は、どこに泊まろうかばかりを考えながら走った。高知までは実に単調なサイクリスト泣かせの道路だったのだ。しかも、調べた民宿が軒並み休業中で、なかなか泊まれるところが見つからず、いつの間にか日没時間となり、安芸を過ぎたあたりから諦めて高知市内まで突っ走る事にした。街中だから暗くても大丈夫だったが、やっと探した安いビジネスホテルは悲しくなるほどの心寂しい雰囲気だった。まだ広末は生まれたばかりだったろう、人通りの少ないアーケード内の食堂で安い定食で明日への英気を養った。

翌朝は一応市内観光もチョットして、桂浜にも自転車で訪れて竜馬の気分を味わった。
あとは、中村を通り、四万十川を渡り、足摺岬を訪れ、宿毛へ向った。その間どこかに泊まったかもしれないが、良く覚えていない。ただ、室戸岬と足摺岬の対照的な景観に心奪われたことを覚えている。
しかし僕は宿毛で何故か急激にツアーの意欲を失ってしまい、フェリーで大分県の佐伯に渡った。そこからどうやって家に帰ったかを全く覚えていないのに、汽車を待つ間に駅前の薄暗い客の居ないパチンコ屋さんで 時間つぶししたのをハッキリと覚えているのは不思議だ・・・・・
読んでくれてどうもありがとう。
旭川は今日、いよいよ氷点下らしいですね。札幌は4度とか・・・ 僕の北海道の記憶(後編)は、その4度の朝から始まります。
道東、別海町・・・白鳥が飛来する風連湖の近くに広がる湿原の近くに「牧場の宿」とか言う名前の民宿がありまして、僕は、ウトロからの船を降りた羅臼から 約100kmほど走って「隣の家」が見えないくらい孤立した宿に泊まりました。まだ8月前半でしたが、着るつもりもなかったセーターを霧が水滴となって濡らし、吐く息も白くなって まるで晩秋の雰囲気でした。宿に客は僕一人・・・確かに人気がありそうな民宿ではなかったですが、歓迎はしてくれました。
『うそじゃねーべさ、郵便局の隣だべさ 2kmほどあっけど・・』とかなんとか笑われちゃいました。朝起きると 窓は結露でビショビショ・・・ 外の気温はホントに4度でした。南の島で生れた僕には寒すぎでした。今日の目的地は とりあえず納沙布岬を見て・・・あとは決めてません。
全く平坦な道路を根室へ向い、駅から15km離れた納沙布岬を目指します。どこで時間をくったのか、疲れが出てきてペースが落ちたのか、遠くに平坦な歯舞諸島をチラッと眺めて再び根室駅に戻った時には既に4時過ぎで、何となく暗くなりだしてました。この後どこまで走ろうか? 大雑把には襟裳岬の方へ向いたいのですが、根室と釧路の間に適当なYHや民宿が見当たらず、時間的にも日没が近く悩んでしまいました。
地図を眺めても、霧多布や厚岸は魅力的ながらも その先はしばらく平坦そうで、やむなく輪行して時間を稼ぐ事にしました。その夜は確か釧路?まで国鉄に乗ることにして、根室駅前で列車を待ちました。何やら珍しく美味しそうな蟹・・・花咲ガニの屋台が出てまして、足がもげて値を下げたのを大量に買い込んで車窓の人となり、生まれて初めて「花咲がに」を堪能しました。こんな美味い蟹があるのか?と想いました。暗闇の先には厚岸湾が広がっているはずでしたが、残念ながら暗くて見えませんでした。
釧路?の宿は決めてませんでしたし、翌日も早朝の汽車で多分 帯広経由して 広尾?辺りで汽車を降りたのではないでしょうか? 実はこの辺の記憶が薄れています。よく覚えていませんが、釧路市内の「オールナイト映画館」で朝5時まで寝たのはハッキリ覚えています。日活の「ロマンポルノ映画」で、交合や局部を隠す花瓶などの「小道具」が目障りでしたが、一晩中「悩ましい喘ぎ声」をものともせず眠りました。
でも僕の記憶にハッキリあるのは、広尾の南を襟裳岬に向けて必死に黄金道路を走っていた所からです。この記憶喪失はどうしたんでしょう? エロ映画で興奮し過ぎて全く眠れずに、汽車の中で爆睡したのが記憶喪失の真実かもしれません。
襟裳岬は深い霧でした。悲しい響きの霧笛が繰り返し聞こえてきて、岩が次第に海に消えて行き、実にいい雰囲気の岬でしたね。森進一の「えりも岬」と山本コータローの「岬めぐり」を僕はず~っと歌いながら走っていましたね。バイク野郎が多い場所でしたが、民宿で泊まり合わせても自転車野郎を彼らは内心羨ましがっていたようです。当然僕らは鼻高々でした・・・
その晩は様似の民宿に泊まった記憶がありますが、次の日の静内・新冠への想いで早く夜が明けてほしかったですね。
静内の牧場は素敵でしたが、やはり競馬馬の世界・・・ 乗馬や馬術とは違っていて、大学馬術部の夏合宿をお願いする感じではありませんでした。ちょうど、乗馬の日高ケンタッキーファームが出来たばかりの頃でしたが、僕は個人的に「競走馬の牧場」でのアルバイトをしてみたかったんですね。でも、諦めました・・・
しばらく色んな牧場を巡り、シンザンの厩舎にも行って、名残惜しくも 新冠から再び汽車で輪行して札幌へと向いました。
『札幌に無事戻ったら電話してくれ・・・』と全くの見ず知らずの二人のサラリーマンから10日前に大通り公園で電話番号を渡されていたのを僕は覚えていました。まだまだ、安全な時代だったのでしょう、僕は警戒感も多くは抱かず 安いビジネスホテルから思い切って電話しました。既に夜7時を過ぎていたのですが・・・
彼は30歳前後・・・電話は家庭の団欒の時に繋がったようです。『やあ、戻ってきたか・・ 約束ドウリ美味いもの食わせるよ。出てこいよ・・』といって本当に誘ってくれました。もう一人は連絡が取れず、僕と二人でススキノで落ち合いました。彼は夕食を済ましてましたが、僕に美味い物を喰わせてくれただけじゃなく、ススキノの行きつけの飲み屋にも連れてってくれ、僕をママに「自転車野郎だ」と紹介してくれました。今じゃ考えられないだろう・・・ 良い時代だったですね。携帯電話が無かったので有り得た話ではなかろうか?と思います。
北海道に大満足して空港バスで千歳に向ったのですが、市内の次のバス停で知った女性が乗り込んできました。札幌医大の女子学生で、北見の実家へ戻るという。北大のセミナーで秘かに好きになった女性だったので運命を感じました。でも携帯電話が無い時代・・・それっきりだったのが残念です。元気で医者をやってますか?
それが僕の「北海道の記憶」・・・ 既に30年近くになり、少し忘れてしまってるようです。でも、院内の自転車を眺めてると「前途洋洋」だった医学部の学生時代が懐かしく思い出されます。あの頃は元気でした。僕は思いっきり生きてきたんだろうか?と反省しています・・・・
読んでくれてどうもありがとう。
僕は他で「顔出しブログ」を最近始めたが、そこで初めてコメントを貰った。北海道の人から秋を報せる内容で、それゆえ僕は古い「北の大地」の記憶を呼び起こしていた。夏の想い出は夏にこそ書こうと思いつつ、その夏はいつのまにか過ぎ去った。一周年を前に忘れぬように書き残しておきたい。
僕は医学部に入学した年の夏休みに北海道に出かけた。目的は3つあった・・・
一つ目は、北大で開かれた「民医連」とやらの医学生セミナー。当時は何のセミナーか訳判らずに参加したが、憧れの恵迪寮やポプラ並木など北大見物ばかりで内容はよく覚えていない。参加していた髪の長い真っ白な肌の札幌医大の女子学生と話したことだけ覚えている。北見市から来ていた女性だが、二週間後の旅行の帰りに千歳空港へのバスで偶然再会して隣り合わせたのはラッキーだった。今頃どうしてるのだろう?
二つ目は、次年度の馬術部の夏合宿を北海道の静内方面の牧場で出来ないかを視察する事・・・・
三つ目が、そのついでに北海道を輪行してサイクリングすること・・・だった。
出発の前日に、アルバイトしたお金で買った自転車が届けられた。IWAI SPORTS という中野浩一も通った有名なサイクルショップにセミオーダーしていたシャンパン色の写真の愛車だ。今も診療所内に大事にしまっているが、消耗品が整備不良で 直ぐには乗れそうもない。でも、25年以上も前の大切な愛車である。コイツとは色々旅をして回った・・・
まず、千歳に飛んで国鉄で札幌へ。安宿に泊まり数日間のセミナー出席。最後の夜に汽車の時間を待つために大通り公園で涼んでいたら、若いサラリーマン二人に何故か声を掛けられた。輪行袋を下げていたのが興味を引いたのだろう。『北海道をぐるっと回って無事に札幌に戻ってきたら@@へ必ず電話しろよ・・美味い物喰いに連れてくぞ・・』
僕はそのまま稚内行きの宗谷本線の夜汽車に乗り込んで北へ向った。途中の音威子府村あたりで夏の早い朝があけたが、座席から見る両側の白樺林が実に美しく後ろへ流れていった。ぼんやり昨夜のサラリーマンの言葉を反芻したが悪人顔には見えなかった。ただ、これからの期待の方が大きくスッカリ忘れてしまった。

稚内港には朝早く着いたが、北端の駅舎内の風景と駅長さんの顔が何故か思い浮かぶ。礼文島へのフェリーは南の島の学生には最果ての雰囲気をもたらすに充分だった。勿論、夏の礼文島は素晴らしく、いつまでも居たくなる長閑な島だった。冬に訪れたらどんななのだろう・・・北海道を巡る間中、どこへ行ってもそんな想いが付いてまわった。誰も居ないスコトン岬から西海岸を自転車を担いで歩いたりしたが、トドが来そうで人恋しくも感じたものだ。
名残惜しくも礼文を離れ、いよいよ「北の大地」を愛車で走り出した。何故か宗谷岬へは向わず、猿払村から最初の目的地の浜頓別町へ。クッチャロ湖畔の宿で最初の夜を過ごした。YHだったかと思うが、今は閉鎖されたとか・・・。静かな湖と静かな宿を後に先を急ぐ・・・今日は長丁場だ。予定ではサロマ湖東岸の宿まで230km程だった。
しかし、オホーツク海を左に眺めながら 何も遮るものの無い海岸線の道をひたすら走った。どこまで行っても風は前から吹いてくる。アップダウンは少ないものの単調な道の「向かい風」は僕の体力を着実に奪って行った。枝幸を越え、ず~っと東へ東へ、雄武を越え紋別を過ぎて湧別へ。風の為に時速20kmをキープするのがヤットだった。次第に陽が傾き始め、サロマ湖西岸に着くころには日没を迎えてしまった。ただ、夏の夕焼けは凄いくらいに美しかったのを良く覚えている。
周囲に家も街灯も無く、車も殆ど通らない。しかも夏の夕方でも寒く感じてしまう天候で、汗が体温を奪うのも感じてしまう。日没が疲れきった僕の気持ちをプッツンさせた。あと10kmも無いだろう、多分30分とかからないはずだが、既に220kmほどの向かい風を走破していた両足と臀部は明らかに悲鳴をあげていた。ちょっとだけ休憩しよう・・・僕は愛車を道路脇に倒し、横になると睡魔がおそった。自動車なんて10分に一台も通らない道路だった。寒さの中、睡魔が襲い、あと30分が・・・我慢できない。
何台目かの自動車が通り過ぎたかと思ったら30mほど先で停車した。男性が二人・・・何やら話していたかと思ったら一人を残して車は行ってしまった。僕は会話が聞こえた。『おい、男が倒れてたぞ、多分事故だろう・・・直ぐ警察を呼んで来い』
困った事になったと僕は否定したかったが、身体が疲れて自由にならない。残った男性が恐る恐る近づいて来るので、やっとの思いで僕は座ってみせた。『い、生きてたか? だ、大丈夫か?』と驚いた様子だった。まもなく、パトカーを引き連れて車が戻ってきたが、『疲れているかもしれないが、こんな姿で道端に寝転んでると車にはねられたかと勘違いされますよ。で、どこまで行くの?』と聞かれた。
『サロマ湖の「船長の家」という民宿です』 『そうか、もう走れないだろ? 乗せてくから・・』と、結局最後の10kmを送ってもらった。民宿では到着が遅くて心配されていたが、既に食事は冷えて風呂もぬるかったのを覚えている。

翌朝は、サロマ湖で「ホタテ釣り」をした後にイザ出発。若かったのだろう、スッカリ体力は回復していた。今日の目的地は弟子屈の民宿。横綱の故郷だったが、誰だったか? 網走から美幌峠を越えて屈斜路湖から弟子屈へ一旦降りて民宿に。宿の看板娘さんは綺麗だったな~。
翌日は霧もかからぬ摩周湖へ登り 一気に川湯へ下って斜里から知床半島のウトロへ。ウトロで海釣りをしたり未舗装の道を知床五湖方面へ自転車を巡らせ ゆっくりと丸一日遊び、翌朝に船で岬を回って東海岸の羅臼町へ渡った。峠を越える方法もあるが、知床岬の平坦な突端は印象深い岬だった。北海道の数ある岬のうち、僕の基準では最も美しいのではあるまいか?
羅臼に渡った日は非常に寒かった。真夏なのに最低気温は4度。霧が出て セーター着てても寒さで震えるほどだった。今日の目的地は、尾岱沼の先の春別付近の「牧場の宿」という民宿だったが、野付半島に寄り道してトドワラ・ナナワラ見物をした。確かに国後島がまじかに良く見えた。民宿の場所を聞いて「郵便局の隣ですよ・・・」と宿の人が教えてくれたが、隣まで2kmもあったので発見が困難で、ダマサレタと感じたほどだった。

後編は、また後ほど書こう。今日はここまで・・・
読んでくれてどうもありがとう。
ご承知のように僕は佐野元春が大好きだが、物心ついた時から「佐野ファン」ではない。当然、その前の経過がある。皆さん全然興味は無かろうが、今日は勝手に「僕の音楽趣味」について書き残しておこう。一応、幼稚園や小学校で奨められる音楽や映画を除いた話にここでは限定する。
最初に覚えているのは、残念ながらビートルズではない。僕は少し遅れた世代だった。最初に買ったレコードはタイガースのレコードで、最初に見た子供向けでない映画もタイガースの映画だった。

1968年のタイガースの第2作目の映画 【華やかなる招待】を地元の映画館で観たときの興奮と感動を今も忘れない。僕は小学校の3年生の頃で、自作の学生ズボンを縫製しなおした黒い「らっぱズボン」をはいて親戚のお姉さんと観に行った。そのズボンは母が作ってくれたが学校には穿いていけない代物だった。
映画でもっとも好きなのは、京都の高校生素人バンドが東京に出るシーンである。タイガースには他に数本の映画があるが、第1作目よりこちらが素敵だ。僕の「京都好き」もこの時にスタートしたと思う。京都はフォークソングのメッカでもあるが、同時にGSの故郷だとも感じている。
その映画が今月26日にDVDになるらしい。さっそく注文してしまった。家族が知ったら笑われそうだし、スタッフからもわらわれるかもしれない。でもスタッフも同年代が多いので、案外見せて欲しいとせがまれるかもしれない。
タイガースの記事を書こうとしていたら上のサイトを見つけた。これ以上のタイガースの記事はかけそうも無かったし、僕もそっくり知っておきたかったのでリンクさせてみた。良かったら見て欲しい。
タイガースの何が良いのか? 69年の3月にトッポが脱退してからは急速に人気が落ちて 71年には解散したが、岸部シローを恨む気持ちは今はない。でも、「花の首飾り」を歌えなくなったタイガースは終わったと小学生なりに感じたものだし、シローとサリーは正直憎かった・・・
ベスト曲を選ぶのも難しい。【君だけに愛を】が小学2年生の僕にはベストだったが、3年生になると【青い鳥】、4年生になると【花の首飾り】がベストと感じるようになった。【銀河のロマンス】も捨てがたい。でも、「京都から上京してスターダムに昇る高校生の姿」こそが僕にとって最も大切な要素だったと思う。
その後はフォークソング、映画音楽、歌謡曲、クラシック、ニューミュージック、カントリー、フォークソング・・・・と戻った末に「佐野元春」に行き着いたわけである。それで、基本は「フォークロック」が僕の興味の中心だった・・・と今は感じる。
一人だけ、どうしても歌謡曲歌手で好きだったのは 【1973年の百恵チャン】である。まだ流行直前の「百恵ちゃん」の写真を雑誌から切り取って教室の掲示板に掲示したことがあった。僕の【14】に雰囲気が似てたので・・・が好きな最大の理由だったが、あれ程の人気になるとは思わなかった。でも、75年が近づく頃には・・・現実の世界が忙しくなって、「百恵ちゃん」などどうでも良くなってしまった。
今は・・・・また「フォークソング」に僕の興味は回帰してしまった。子供たちに聴かそうとするが、ノーサンキューらしい。ちょっと残念だ・・・・
読んでくれてどうもありがとう。
もうじきブログ開始後一年になる。その後も続けるかどうか決めてないが、その前に書いておきたいことがある。
一年で600近い記事を書いてきたが、僕の「投稿した時刻」を気にしていた人は皆無だろう。もし貴方が暇人だったら数えて教えて欲しいが、僕の記事の多くが【@@時14分】に投稿されているはずだ。僕には、それこそ14歳の頃から 【14】という数字には非常にこだわりがある。そんなこだわりをブログ記事の投稿時刻に使うなんて 僕は変人なのかも知れないが、どうしても【14】が好きなのである。
別に秘密にしてたわけじゃないが、僕は 【ヨハン クライフ】の大フアンなのである。他にも、【14】に縁のある名前の女性を今もず~っと片思いしているし、彼女に初めてラブレターを書いたのも14歳の頃で・・・ そう、僕の神様と女神様なのだ。
野球の季節にサッカーの話とは変な感じだが・・・ 実はこれが僕の初めてのサッカーの記事でもある。良いタイミングが見つからずにタイムアップ寸前の投稿になってしまったが、まあよかろう。
僕の高校はサッカーが盛んで、全員参加の「三日間のサッカー大会」と同好チームの「土曜マッチ」というのがあった。これは土曜の午後に毎週行うリーグ戦形式のサッカー大会、クラスもクラブもバラしてのチームで戦う。先に書いた「三日間の体育祭」にもサッカーが組み込まれていた。僕のチームは「土曜マッチ」で優勝したが、これが高校時代の最大の思い出かもしれない。
「空飛ぶオランダ人」の天才クライフの絶頂期は恐らく「1974年のワールドカップ大会」であろう。準優勝ながら最優秀選手賞を彼は取っている。71年、73年、74年と立て続けに欧州年間最優秀選手に選ばれているが、ちょうど僕が中学から高校にかけての時期で、寝ても冷めても「クライフ クライフ クライフ・・・・」だった。僕にとっては ドイツのヒーローであるミュラーやベッケンバウワーは悪役で、クライフこそがサッカーの神様だったのである。

今やアヤックスの永久欠番である【14】は、天才クライフに実によく似合っていた。176cmとあまり大きくはなかったが、たった一人で大国ドイツを翻弄してしまう王子のようなクライフ・・・ サッカー狂いの中学生に 単なる数字の【14】を 30年以上も胸に抱き続けさせる「僕の神様」である。
もう一人の【14】、永遠なる「僕の女神様」の事は 恐れ多くて こんなブログでは書けそうもない。
読んでくれてどうもありがとう。