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2007.08.13 21:30 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 3

京都【三畳】物語

以前から何度も恥を晒す様だが、僕は一年間浪人した。しかし、その京都で過ごした一年間こそ僕の人生で最も大切な一年間であったようだ。浪人しても平凡な国立大に入学するのがヤットの出来の良くない頭脳ではあったが、人生を楽しむコツを何処かで会得する事は出来たようだ。

さて、暑い真夏にお盆も仕事をしながら【四畳半神話大系】なる森見さんの本を昨日から読んでいる。そこには、下鴨泉川町にあるらしい下鴨幽水荘なる木造三階建ての学生アパート?が登場する。幕末に建てられ廃墟寸前の九龍城に迷い込んだかと錯覚しそうな建物らしい。そこに仙人並みの8回生や単位など何処吹く風の主人公が四畳半一間に香織さんという名のラブドールと一緒に住んでいるらしい・・・

 

さて、僕の「京都の住まい」はというと、【四畳半一間】も真っ青の【三畳一間】であった。今どき【三畳一間】の賃貸物件を探すのは相当難しいだろうが、ナントそこは「窓も無かった」のである。別に寮生活を悔やんでるとか批難しているわけではなく、僕は最大限に愛おしく懐かしく想い出しているのである。最高に素晴らしい京都生活・・・ドウ考えてもあの年が無ければ今の僕はありえなかった。そういう意味で非常に感謝している。

そこで、敬意を表して【京都三畳物語】を書き残したい。三条ではない、三畳である。もっともそこは浪人生の惨状が散らかり、受験の神様の参上を待ちくたびれた記念碑的・歴史的建物だった。

 

その名は、京都駿台予備校 【東山南寮】である。

まずは写真を見てもらおう。美しいレンガ造りの大きな建物である。二階と三階が僕らの予備校の寮になっていた・・・と言っても三階は全然見えないと思う・・・見えないはずだ。二階は4人部屋で3部屋程あり、三階が僕のいた三畳一間の個室で10部屋程あったかと思う。

 

 

三階といっても実際には屋根裏部屋で、天井は屋根に沿って斜めになり、窓はなく、真ん中を貫く廊下側に明り取りを兼ねた磨りガラスのドアと窓があったが、開けると勉強や惰眠の邪魔をする悪友達が顔を突っ込んでくるので開けにくい。天井の下がったあたりに簡素なベッドがあって、その下が荷物置き場。収納スペースは他に無く、机と椅子を置けば歩く場所を見つけるのがヤットと言う生活であった。

 

写真で一部突出して見えると思うが、廊下の天井は大きく吹き抜け構造になっていた。そこにあるガラス窓から明かりと風が入らぬではないが、老人が簡単に陥る昼夜逆転現象を妨げるほどの明るさは期待できない。しかし、その明り取りの高窓こそは我らが秘密の場所であり、埃に塗れた秘密の梯子段を登って到達する事も出来た。当然、オーナーや寮長に知れたら退寮になって故郷の両親を再び悲しませることになるので、僕は2~3度しか登らなかった。そこに登って聴いた除夜の鐘は今も聴こえる様だ。恐らく最寄の方広寺の鐘が一番大きく響いていたと思う。

 

お洒落な赤い絨毯の廊下同様に、建物自体が非常にお洒落であった。ここはタバコ王の明治の工場後、沢山の馬車馬を繋ぐ金具がレンガ壁に認められる。ココだけ極端に道幅が広くなっていた。稀代の芸術家、河井寛治郎記念館からも程近い。僕はそこに住んだ事が今では誇りである。

 

髪を伸ばしてピッピー風の京大理学部?の寮長が居て、世話というか相談役をしてくれた。今頃どうされておられることだろう・・いかにも京大生と言う感じで、何となく憧れだった。

共同のトイレと洗面所は渡り廊下の吹きさらし、そこからは女子大の寮の窓が見えたので僕らは冬でも大して苦にはならなかった。しかし、若い女子大生の屈託の無い笑い声は禁欲的な予備校生の精神を苦しめたのもまた確かであった。ある日、僕らの仲間の一人が軒を伝って女子大寮に忍び込もう?として御用となってしまった。捕り物帳を観戦していた僕らの前に良く知る「仲間の顔」が現れた時、皆はひどいショックだったようだ。僕らはその時、紙一重で自分の人生だって狂うかもしれないことを痛感した。

 

しかし、若者達は生活をエンジョイする事も忘れない。幸か不幸か、その古いレンガ造りの寮にはお風呂が無くて、僕らは毎日毎日銭湯に通った。そこから半径1km以内には少なくとも6~7箇所の銭湯があって、僕らは近い2~3箇所に主に出かけたが、女子大や女子大の寮が沢山あって、どこも若い女子学生で賑やかだった。僕らの中にはエッチな奴が少なからずいて、受験勉強のはけ口を銭湯で晴らそうとたくらむ奴も多かった。

番台では、出来るだけお釣が出るような支払いをして相棒が敵地を眺め、次回は交代して・・そして帰りの振り向きざまの不意の一瞥・・。男風呂が自分達だけになると、素早くし切りに手をかけよじ登りざまに一瞥・・。しかし、時には「発見・通報」の悲惨なめにあって【出入り禁止】になることも・・ しばらく他へアウェイの転戦に出て出入り禁止になるとまた次のアウェイへ・・・ しばらくしてホトボリが冷めると最初に戻って・・とイナゴの大移動のような「銭湯巡り」を勉強もそこそこに楽しんでいた可哀想な「友人達」・・もいたと聞く。

 

とりわけ夏は悲惨であった。タダでさえ暑い京都の古い建物の三畳一間、窓が無いので風は通らないが陽も射さないので案外過ごしやすかった?かどうかハッキリしない。ただ暑いのは嫌いじゃなかったので、真夏の真昼間に分厚いトレーナーを着込んで京都女子大へ続く女坂を汗流して精神鍛錬?で走りまわった。眼の鍛錬というか保養というか・・・実際には予備校生の眼には毒であった、女子大生のノースリーブ姿は・・ 勉強が捗らず、一流大学への道のりは険しかった。

その僕の聖地、【東山南寮】は老朽化もあってか、平成16年3月に、昭和50年から続いた長い歴史を閉じたという。僕は昭和53年に過ごしたと思うのだが、寮長さんの名前が思い出せない。大学教授になられた寮長さんも多いらしく、現在京都府立医大教授をされておられるF先生も寮長をされていたと聞く。

 

この寮を巣立った人は何人おられるのだろうか?単純計算して800人近いかも知れない。医師になった人も100以上居ることであろう。僕は予備校の寮の時の友人達が非常に懐かしく恋しい。とっても再会したい、と願っている。予備校に問いあわせたが寮生の名簿は既に無いという。

どなたか昭和53~4年頃の寮生の方で当ブログを読まれた方、もし良かったら連絡いただけないか?と思う。よろしくお願いししたい・・・

もしお会いできたら、僕らの【京都三畳物語】を語り明かそう・・・

 

読んでくれてどうもありがとう。

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コメント

コメント一覧

おもぶき深いお話ですね。
若い頃の思い出は、その当時に一途に生きていた分だけ美しくなるのでしょうね。
私も先生のように素敵な年の取り方をしたいものです。
written by rinzaru / 2007.08.14 12:04
「東山南寮」、懐かしいです。私は平成2年頃にいたので、およそ10年ほど後になろうかと思います。そのときには、煉瓦の建物(関西テーラー)に寮はなく、税務署裏のコンクリート4階建ての建物が南寮、関西テーラー北側の煉瓦造りの建物が北寮と呼ばれてました。
私にとっても、まさにこの寮生活がもっとも記憶に残る生活でした。「銭湯巡り」も懐かしい思い出です。森見作品・万城目作品を見ると、いつもこの京都時代を思い出します。ただ、森見作品の京都には「四条にOPA」が存在しており、時の流れを感じます。

@@便乗コメント失礼します by murajun@@
同じ場所で思い出深い時間を過ごせた人とこうしてコミュニケーション取れると嬉しいです。僕は寮の同窓会を開きたかったのですが、個人情報保護法の関係で駿台にも関西テーラーにも名簿が無くて残念です。
関西テーラーの上の暗い寮は結構貴重な寮だったんですね。
よろしければ、これからも読んでコメントをお寄せ下さい。
written by keri / 2008.02.16 15:06
私も東山南寮の大先輩とお話できて光栄です。関西テーラー建物の寮は、その後ワープロ教室を経た後に、中がワンルームマンション並に改装され「IVY東山寮」として復活したと聞いております。4階建ての東山南寮、煉瓦造りの東山北寮が廃寮となった後も、このIVYだけは残ったと聞きましたが、もう今はなくなったのでしょうか?
寮長のお話、そして女子寮についてのお話は、我々の時も同じような感じでした。(さすがに、忍び込んだ人はいませんでしたが…)そして、今でも最も付き合いの深い友人が、このときの寮生仲間です。

@@便乗コメント失礼します by murajun@@
関西テーラーの富田氏のメール、一部転載しますね・・・僕は一度、同窓会がしたいです・・・
 昭和50年頃より関西テーラーの仕事の傍ら親父の助手として、駿台東山南寮の雑務をし、平成元年より南寮・北寮の仕事に専念しました。親父は平成@年永眠。母は現在9@歳ですが、今だ頭脳明晰で日々日本の将来と世界平和を憂いております。
 その後、アイビーハイム東山寮を加えまして三寮を駿台京都校の寮生の世話をさせていただきましたが、平成16年3月を持ちまして三寮を閉寮いたしました。長年本当に良い仕事をさせていただきました・・・(続きあり)
written by keri / 2008.02.16 22:43
murajun先生!、日本は狭いですね。
実は今回のお話、私にも懐かしく思い出すことがありました。
関西テーラーの富田さん、私もよく存じてます。
先生が寮におられた時期からずれますが、昭和59年から、東山五条の洛東病院に勤務しました。それから数年後、東山五条の南西角のマンションに移り10年ほど住みました。ですから、東山南寮のすぐ近く(徒歩5分以内)にいたんです。しょっちゅう南寮の前は通ってました。
一方、当時の関西テーラーの富田さんは某短大の寮もやっておられて、私の父がその短大の教授、学長をやってたことから、しばしば富田さんのところを訪問してました。私も何度かご挨拶をしています。かなり長いお付き合いだったんです。赤煉瓦の建物は、最近見る機会はほとんどありませんが、私にもとても懐かしいものです。なお、富田さんのお父様は私の病院に運ばれそのままお亡くなりになられました。残念ながら私には何もできませんでした。
(注)某短大の寮に入ったことはありません...念のため・・

@@便乗コメント失礼します  by murajun@@
洛東病院は知ってます。あの辺りは女子大が多く、銭湯も女学生ばかりで浪人生の目の保養というか毒でした。多分、友人が忍び込んだ女子寮がそれですね。僕は夏場に覗いただけでしたが・・・
written by Doctor Takechan / 2008.02.17 15:48
情報ありがとうございます。そですか、全寮閉鎖となったのですね。何か、元寮生の集いみたいなものがあればいいですね。これまでのOBですと凄い数になるのでしょうね。いろいろな伝説も聞いてみたいです。また、理事長や寮母さんにもお会いしたいです。
私がいた、コンクリート4階の「東山南寮」は、ここで出てくる「女子寮」だったのでしょうか? なんか、そういう噂を聞いたことがあるような…。ここも3畳1間の狭~い部屋でした。屋上からの見晴らし(覗きではないです、…たぶん)はなかなかのものでした。

@@便乗コメント失礼します  by murajun@@
お蔭様で、Takechan先生が関西テーラーと懇意にされてることまで判りました。
女子寮というのは、絵に描かれてる路地を北に入り、突き当たった所が「北寮」で、その道を挟んで南西側に入り口のある建物でした。覗いた限りでは三畳ではなく、数人部屋のようで、屋上らしきものは無かったです。コンクリではなくて、明るいレンガ色でした。入ったことはありません。何となく、IVY東山寮が元の女子大寮ではないでしょうか?
なお、富田さんは良い人のようでした。
written by keri / 2008.02.19 23:33
ネットの検索でこのサイトと巡り逢うことができ、懐かしい思いで一杯です。私は、東山南寮ではなく、昭和51年度の北寮の住人でしたので、書き込みを遠慮すべきかと迷いましたが、飛び入りでの参加をお許しいただけると幸いです。
murajun先生が書いておられる府立医大のF先生とは、当時に府立医大生として南寮と北寮の寮生たちの面倒見役をしてくださったFさんのことではないかと思います。
中間に女子寮があった関係で、南寮側への出入りを自粛していましたので、残念ながら富田さんのことは覚えていませんが、北寮の寮母さんが昭和61~62年頃に亡くなられた少し後の頃に、その訃報をとても御丁寧なお手紙で知らせてくださった人が富田さんという御苗字だったことを思い出しました。
たしか、その手紙では、北寮の寮母さんのことを、姉か妹(あるいは義姉か義妹)と書いておられ、御遺品を整理するうちに卒寮後も私と親交があったことがわかって手紙を書かれた、ということも書かれていたように記憶しています。まるで太陽のように優しかった寮母さんの訃報に動転したせいか、富田さんという御苗字しか記憶に残りませんでしたが、たしか女性名だったと思いますので、murajun先生が書いておられる富田さんの母上ではないかと思います。
卒寮後の親交と言いましても、手紙類の交換はなく、何度か北寮を訪れた程度でした。その手紙は、当時の下宿から転送されてきましたから、当時に自分の下宿の住所を走り書きしたメモ用紙を寮母さんが大事に保管してくださったのだろうと思うだけでも目頭が熱くなります。そのうえ、御遺品の中からそれを見つけられた富田さんの母上がわざわざ御丁寧なお手紙を書いてくださったと思うと、目頭がますます熱くなります。
自分自身の受験のことで頭が一杯という寮生時代ではありましたが、一人一人の寮生たちはもちろんのこと、卒寮生にまでも深い愛情を注いでくださる人たちに育てていただいて、私たちは本当に幸せ者だったのですね。

@@便乗コメント失礼します  by murajun@@
先輩の方にコメントいただき、素敵なエピソードにも触れることが出来、大変感謝しています。このコメントを富田さんにお知らせさせて欲しいです。また、よろしくお願いします。
written by azaran / 2008.03.27 12:03
M君、久しぶり。Wです。君と出会ったのはちょうど30年前だ。1978年(昭和53年)、サザンがデビューし、新京極では勝手にシンドバッドがかかっていた。秋には京都市電が廃止され、最後の日に東山馬町の電停では小学生が10円玉をレールに置き、電車に踏ませて「記念硬貨」を作っていた。
その年の寮長はYYさんだ。彼は南寮で1年間浪人し、1978年の春に京大に入りその後2年間寮長を務めた。M君はヒッピー風と書いてあるが、僕はみなみらんぼうも思い出す。
東山南寮にはテレビがなかった。唯一寮長室だけにあった。ある時、宇宙戦艦ヤマトの映画が放送された。誰かが寮長に頼んでドアを開けてテレビを廊下に向けてもらい、僕らは廊下のカウンターに並んで鑑賞した。
カウンターには電話があった。9926=苦苦二浪、すごい番号だった。食堂には牛乳の自動販売機が置いてあった。コーヒー牛乳は少なかったので、「俺がビンの音を聞いて(3階から降りて)買いに行っても、いつも2階の奴に先に買われてしまう」と、言っていたのはM君だったか?違った?
2階は4人部屋が7~8室あった。広さは12畳程度で、一人当たりの面積は3階3畳と同じくらいだったが、天井が高いし、窓もあったから狭苦しいとは感じなかった。但し、窓には鉄格子が入っており、侵入防止ではなく逃亡防止だと聞いた。
2階の部屋割りはクジ引きで決まった。同室のHH君(兵庫)はどの部屋でも入っていって世間話をしてきて、僕らの部屋に戻ってその話をしてくれた。KY君(大阪)はそれをうれしそうに聞いていた。彼はどの部屋にも入っていくと言う訳ではなかったが、なぜか色んな事を知っていた。KA君(長野)はよく勉強をしていた。浪人生としては、当たり前だが・・。そして勉強に疲れると、気分転換に電気カミソリでヒゲを剃っていた。国立大KA教授のホームページには、相変わらずヒゲの濃い顔の写真が載っている。
202号室は居心地の良い部屋だった。30年前の春に白髪のオーナーから引いた「202C」と書かれたクジを今も持っている。
いろいろ話したいが、手紙を出すよ。「ちょっと待っててー」  

@@便乗コメント失礼します  by murajun@@
良く覚えてるな~ そんなに頭良かったか、W君? 同窓会がしたいもんだ・・な。
written by W / 2008.06.09 23:40

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