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勤務医の皆さん、お身体ダイジョウブですか~? 元気に頑張ってますか~? 田舎のシガナイ開業医が、自分の経験を元にご忠告しますョ。
格言 【健康第一 命あってのモノダネ 妻子を泣かすな 親より先に死ぬな】
昔と今との単純比較は出来ませんが、少なくとも【勤務時間】に関しては昔もほぼ同じでしょう。少しばかり、雑用や強制労働が増えたかもしれませんし、常識ハズレの患者さんや幼稚なマスコミやピントハズレの官僚やズレマクリの政治家にイラつくことは増えたかもしれませんね。
今から11年前のちょうど今頃、僕は勤務先の大学病院の特別室に【入院】していました。幼稚園に進んで以来、最初で最期の入院ですし、2日続けて寝込んだ事の無い僕が10日間程の入院をしてしまいました。入院患者さんの担当はなく、外来と研究と教育が主な生活でした。GWも無関係に、循環器系で最も大事な学会AHA(その年はニューオーリンズ)の演題提出期限に向けて連日ほぼ徹夜作業でした。その当時40分位かけて自動車通勤していましたが、週の半分は大学の当直室に泊まり、帰る時も家に4~5時間の滞在でトンボ帰りでしたね。当直バイトは月に5~6回だったかな。診療:研究=5:5くらいで、今流行の多忙な【勤務医】ではありませんでした。ま、普通の【大学勤務医師】でしたね。
ある日、何となく気分が乗らずに、早めに夜の12時頃大学を離れて家に運転して向かいました。ちょうど中間地点で運転しながら度々吐きそうになりました。レストランの駐車場に停めて休んだら気分が改善しましたが、10分も進まないうちに再び吐きそうになります。ひどく疲れていたのは確かですが、ヤットの思いで家にたどり着き玄関に入った途端、眩暈が出てきて座りこんでしまいました。10分ほど座って少し歩けるようになりましたのでスグ寝てしまいました。
あくる朝は眩暈も無くほぼいつもの体調でしたから、大学で外来診療をしてました。数人診たところで何故か冷や汗が出てきます。一人終わる毎に休憩して診察をこなしていましたが、とうとう吐き気が止まらなくなりトイレに向かいました。何度か吐いても改善しませんでしたが、まだ患者さんが残っていましたので無理して診察室に戻る事にしました。
しかし、数歩しか歩かない段階で回転性の眩暈が増強してきました。僕の診察室どころか受付へも到達できず、最寄の暗い心エコー室のベッドに倒れこみました。運悪く誰もその時いなくて、僕は動けずに暫らく「行方不明者」になりました。「外来診療を抜け出してM先生が行方不明」ということで捜索隊が出ましたが、灯台基暗しで誰も心エコー室へは探しに来てくれません。意識はありましたが、ねてても眩暈と吐き気は強烈で、大きな声は出せません。やっと発見されてからもひと騒動でした。前身汗びっしょりで空吐きを繰り返し、眼は虚ろ・・・自分では正確にはわかりませんが、せっかくの美男子が台無しでした。
サボりや嘘つく性格ではないし、外来患者を待たせて寝る医師は居ないでしょうから、周囲では先輩が『ストレッチャーを用意しろ・・ 頭部CT検査押さえろ・・ 特別室空けとけ・・ 点滴確保・・ さあ、運べ・・』などという言葉が飛び交っています。僕は全く座る事も出来ず、メニエールの経験もなくて、『小脳梗塞かな? もうダメかな? これからも医師できるかな? 死にはしないかな?』などと少し心配でした。
CTは「素晴らしい脳」を写し出し、耳鼻科の助教授が呼ばれ、『メニエールというより前庭神経炎のほうかな?ひどいから多分長引くよ・・しばらく入院だね』と診断が下されました。脳梗塞が否定的だったのは良かったのですが、『前庭神経炎は繰り返してまともな医師活動が出来なくなる人がイルゾ』と、アメリカ帰りの教授に脅されました。とりあえずAHAの提出は済んでましたが、座れないのに研究も診療も出来ません。
その後、耳鼻科の先生の予言どうり3~4日は座るのがヤットで、7日間は10mも歩けませんでした。10日ほどで退院しましたが、心配するので両親には報せませんでした。従姉が教授秘書をしてたので退院直前にはばれてしまいましたがね。
でも、その時色々考えました。
研究室の後輩の事も心配でしたし、後遺症の眩暈で自分が医師を続けられるかも心配でした。過労死しても不思議じゃないような無茶苦茶な生活をしていましたので【休む】という事が不思議な事に思われ、非常に辛く情けなくもありました。数日間は点滴に繋がれ寝てばっかり・・
しかし「研究の遅れ」は直に気にならなくなりました。【研究者として上を目指す】という気持ちは入院中にプッツリ切れてしまいました。『生きてノンビリ子供達と暮らして、医師を続けられればそれでいい・・・ 生きてるなら医師が出来なくても構わない・・』という気持ちでしたね。退院後、まだ頭を振ると吐きそうになる状態で近所のリゾートホテルに家族で泊まりに行きました。海岸線を2歳の子供と歩き、0歳の子供のベビーカーを押して歩くだけで幸せでした。研究や出世というものには自分は向かないと判断を下し、2年後をメドに開業する決心をしました。
決断を教授に伝えた時は辛かったですが、入院したことで僕の過労やストレスが極限に達していた事は周囲の皆が知っていましたので、あまり強くは引き止められずにスムーズに開業医への道を歩き始めました。
流行の【逃散】とは少し違うんですね、自分の中では。【出世願望を諦めた】という方が近いでしょうね。開業医を選んだのは、昔からなるなら【大学研究者か開業医】というものしか医師の仕事として考えた事が無かったからでしょうね。『誰かに命令されて組織の一員として滅私奉公する』という勤務医魂が沸かなかったんですね、僕には。サラリーマンの出来る性格じゃないんです。
当時の知人や研究仲間や親戚たちが次々に最近教授になっていますが、大学病院も色々厳しいようで、『教授にはなったものの辛い事ばっかり・・』という声もよく聞く。ドロップアウトした僕と教授になった彼らとどっちが本当に幸せか?まだ、人生終わってみなけりゃ分かりませんね。
そんなわけで、全国の頑張っている勤務医の皆さん、今後は開業医も大変ですが、最も大切なものは【自分の健康】です。絶対に過労死してはいけません。親より先に死んではいけません。妻子を不幸にしてはいけません。苦しくて倒れそうになったら必ず「ペースダウンやギアチェンジ」をしてください。
幼稚なマスコミやピントハズレな官僚のために自分の健康を害してはいけません。絶対に死んではいけません。
田舎のシガナイ開業医の体験談でした。時代も違い、あまり参考にならないでしょうが・・・
呼んでくれてどうもありがとう。
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