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今宵の報道ステーションの「病院崩壊」特集、皆さんどんな気持ちで見ましたか? 僕はその時刻まだ診療所で働いていましたから、残念ながら後半しか見ていませんが、古館氏の最後の締めの言葉には大変悔しい思いがしました。自分達の報道の仕方にも問題があり反省するような言い方をするにもかかわらず、あんなまとめをするとは・・・この人は何にも分かっちゃいないな、と感じました。
『医師の皆さん、完全なる自己犠牲というのは大変かもしれませんが、昔のお医者さんはもっと自己犠牲の精神が多かったような気が私にはしますけど・・・・』と結ぶ古館氏。確かに以前の方が「自己犠牲をし易い」時代背景だったとは思うが、マスコミが後押しするこの殺伐たる訴訟社会で、医師個人の自己犠牲にこれ以上頼るとは・・・誠に無知とは怖い、恐れ入った。
自己犠牲による僻地勤務。僕の場合はドウだっただろうか?実はそれに似た時期を過ごしていたことがないわけではない。想い出話を忘れないうちに、娘達のためにでも書き残しておこう。
医師になって三年目に、僕らは大学病院から離れて3年間の関連病院めぐりをやった。大学病院はほとんど泊まりこみに近いハードなストレート研修で非常にためになったが、月額2万5千円の報酬ではアパート代にもならないので、高額な報酬を頂ける三年目以降の病院めぐりは楽しみであった。といっても、最初の病院は年収130万円で、掃除のオバサンより安かったのではあるが・・・ ただ、派遣先もかなり当たり外れがあって、僕の前の学年までは、離島の公立病院一人内科医長と、陸の孤島の個人病院副院長というのがワースト2(関係者の方、失礼)であった。入局者数の関係や地方国立大学の増加などで、離島のジッツは手放したのだが、反対する意見は当然でなかった。個人病院の方は、教授の友人の経営する病院だったのでその後も長く派遣が続けられたが、みんなに「ハズレくじ」と思われていた。
11人の同学年のうち、一人がハズレくじを引く事になるが、決めるのは医局長と教授であった。「開業医の跡継ぎではない独身の優秀な奴を送れ・・」という秘密の指令があったとかなかったとか・・・ そこには可愛い一人娘がいたのである。真の目的は・・・僻地病院への永久就職だったのかもしれない。
以上の条件に見事当てはまってしまっていた僕は、最初の派遣先の大きな国立病院で「知らせの電話」を受けた。2月に総移動になるので一月中旬には対象者全員に大学の医局長から電話連絡が順次入る。しかし医局長も人の子、知らせやすい良い派遣先に決まった人から先に知らせてしまい、どうしても「ハズレくじ」の派遣先は先延ばしになってしまう。つまり、同級生の中で最後に電話が来るのが「ハズレくじ」なのであり、最後ということは・・・・「ゴネテも変更は有り得ないという最終決定」なのである。意向打診という生易しいものではないのだが、そこは多少の情けもあり、期間を短くしたり、その次の派遣先を選ばせてくれたりもする。
僕の場合も最後だったので判っていた。神妙な声で医局長は、『君に頼むしかない。是非、俺の頼みを聞いてくれ。そのかわり、その後はどこがいい?好きなトコ、言ってくれ』と言って全てが決まってしまった。幸いな事に、陸の孤島は7ヶ月勤務となり、その次も大都市の人気病院が内定した。
車に全ての荷物を積み込み、1月31日に陸の孤島と呼ばれた町に乗り込んだ。4年目で副院長というのは聞こえはいいが、50床の個人病院に外科の院長と内科の副院長だけ。派遣期間中は土日も夜間も常に拘束状態で、年収は500万円だった。最初にあてがわれたボロアパートには暖房器具がなく、夜通し隙間風が吹き込み、寒さで眠れぬ初夜を過ごした。あの寒さと寂しさは今でも決して忘れない・・・震えながら涙が流れて僕は先を案じた。
循環器のストレートで大学でも国立病院でもやって来た僕が、田舎の一人内科。ハッキリ言って、循環器以外は実践経験に乏しい。しかし、現場は全然待ってくれなかった。初日から外科の院長が、胃透視に付き合えという。つまり、一度だけは手本を見せるから明日からは君がやってくれ・・という事のようだ。何かあるたびに、『前任の@@君は何でも良く頑張ってくれた・・』というのが口癖だったが確かめる余裕もなく初めての仕事が回ってくる。手本といっても、院長は決して上手とはいえない。確かにこれなら僕がやったほうが良いかもしれないと思わせる芝居がかった技量は大したものである。翌日には、胃カメラをやるからティーチィングスコープで良くみておきなさい・・・と言われて覗いていると、『おや?白内障かな?ボーットして良く見えんな、君変わってくれないか?』といって、いきなり指導も受けずに胃カメラを持たされた。しかも、そこには・・・・初めて経験する早期胃癌が存在していた。
こんな漫画みたいな世界。先輩達には、「循環器のプロに成りたきゃ、胃カメラとか透視とか絶対に手を出したらいかん。専門がしないと患者に失礼だぞ、癌をもし見落としたら申し訳ないだろ?」と、固く言い聞かせられていたのを思い出したが後の祭り。初めてやった胃カメラで、初めて生検やって検査伝票書いて、それが早期癌だった。僻地では、「するのも怖いが、しないのも怖い」と思い知らされた。電子スコープと違ってフィルム撮影のファイバーは後から見直しが難しい。写真が出来るのは数日後、おかげで病変観察スケッチが循環器の癖に相当上手になった。結局、循環器しかしたことなかった僕が、教科書を何冊も読み漁りながら、半年間に胃カメラを100例以上やって、4例の早期癌を発見した。ついでに、大腸透視までせざるをえなくなり、2例の大腸がんを発見した。
でも、やらずに7ヶ月乗り切れば済んだ事かもしれない。早期癌ではその間には死ぬ事はない。消化器以外も指導してくれる人は居らず、粟粒結核初期やDICや即死に近い交通外傷などもそこで初めて経験した。簡単な手術も手伝わされた。学校検診もやったが、助産婦からの依頼で妊婦の検診までやった。出始めの心エコーで胎児の心奇形を検索しますよ・・・といって田舎の助産師を驚かせて楽しんでもいた。その心エコーは僕へのご褒美で院長が買ってくれた。これでもっとバリバリ頑張れ・・という事だったのかもしれない。
院長は、東京の医大で学ぶ可愛い一人娘が帰省するたび、「心エコーを教えてあげて」とか、「胃カメラを教えてあげて」とか、一緒にいる時間を作りたがっていたようだが、プライベートまで踏み込まれるのはさすがに困った。
その頃には、可愛い娘の将来の新居が完成し、僕は汚いアパートを引き払ってそこに入った。といっても、永久就職を決めたわけではない。さすがに、このまま陸の孤島にうずもれる気にはなれなかった。院長は気の良い豪放磊落な典型的な外科医で僕は嫌いではなかった。
7ヵ月間、いわば住み込みで個人病院勤務をしたわけだが、僕には幸い逃げ場があった。車で40分位のところに以前から非常に親しくしていた産婦人科開業医一家が住んでおられた。携帯電話は当時まだ普及しておらず、僕はポケットベルを持ってしばしばそのK市の産婦人科開業医の所に息抜きに出かけた。それがなければ精神的に辛かったかもしれない。そういう意味で、僕にとっては完全な見知らぬ僻地というわけではなかった。
僕は、その病院で働いた事を全然悔やんではいない。むしろ将来に役立つ良いチャンスを与えて頂いたと思っている。自己犠牲などと当時思ったことはなく、医療ミスとか医療訴訟とか想像したこともなかった。住民は僕を信頼するしかなかったし、実際に僕を大切にしてくれた。職員の皆さんも良い人ばかりで、田舎の生活も苦にはならず、一定の期間であれば僕の様な僻地勤務も有意義と考えられるのではないかと思う。
決してあの病院に永久就職したほうが良かったとは思わない。しかし、今の若い皆さんがことさらに僻地勤務を「研修できない無駄な時期」だと考えていることは、少し違うような気がする。医局制度がなかったら僕もそこには決して行かなかっただろうとはおもうが、マスコミ報道や厚労省のドタバタ劇を見ていると、僕らの時代は良かった・・・と感じてしまう。
僻地に強制派遣させられたが、僕は医局制度には賛成だった。
読んでくれてどうもありがとう。