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2007.01.30 16:20 |  生活 / くらし  |  murajun  | 推薦数 : 1

宮崎出身 石井十次さんのこと

今日は、鳥インフルエンザに悩まされている宮崎と岡山の両方に縁のある偉人、石井十次さんが宮崎で1941年に48才で亡くなった日だそうだ。恥ずかしながら今日まで私は石井さんの事を全く知らなかったが、お昼の「みのもんたの番組」を見て涙がでてきた。みのもんたの栄養医療コーナーはさすがに見ないが、「今日は何の日」のコーナーでは時に感動で涙が溢れる様な話が混ざっており、チャンネルを合わせることもよくある。

1865年の日向の生まれ、ちょうど私の父の母の父が生れた頃だ。16才で宮崎で小学校教師になり、17才で岡山甲種医学校に入学。きっと秀才だったのだろう。この頃、天主教に入信したそうだ。1887年、22才の時に岡山の阿知村の「太田診療所」で実地訓練(医師の代診)を行っていた際に、たまたま隣接する(弘法)大師堂に泊まる親子が「巡礼の途中で父親が死亡したので、息子を引き取ってくれないか」とすがられ、一人の男児を世話するようになったのが生涯を孤児の救済に捧げる始まりなのだそうだ。TVでは触れなかったが、てっきり弘法大師の真言宗かと思ったが、実はキリスト教の精神だったと後で知った。

「人は二主に仕うること能はず」との聖句に従い、その後十次は医学書に火を放ち、雑念を断ちきって岡山孤児院の設立に向けまっしぐらに走り始める。「医師になる人は多いが、孤児を救えるのは自分しかいない」との思いだ。十次はこの時の心境を日記に、「6カ年学びたる医書に石油を注ぎ火を放ち焼き尽くし、全身を孤児院事業にあてり。これにより心衷に一の苦悶なく外友人の忠言を止み、全力を天命の事業に傾注することを得るに至れり」と記している1887年(明治20年)十次は孤児教育会を作り、岡山市門田屋敷の三友寺の1室を借りて20人の孤児を集め学校を開く。後の岡山孤児院の前身だ。

この時代のフィルムが放送されたが、考えてみると明治20年代の「孤児院」の映画フィルムが残っているというのは凄く不思議だった。この明治時代を代表する社会福祉事業家が、孤児たちの生活ぶりを映像(フィルム)で記録し、孤児院に寄付を募るための宣伝に使う、という実に“先駆的”な活動もしていたことはあまり知られていない。そういえば、活動費を賄う寄付金名簿には大隈重信の名前も認められた。 

1891年の濃尾大震災の孤児400人を引き取っただけではない。1905年(明治38年)東北地方が夏の冷害で稲が実らず大凶作に見舞われた。冬になり農家の貧民の飢えは凄惨を極めた。十次はその東北に出向き、6回にわたって825人の孤児を岡山孤児院に引き取っている。彼の目は岡山に留まっていなかったのである。やがて岡山孤児院は孤児の数が1200人に膨れ上がり、1カ月の生活費が現在のお金で6000万円も要することになった。公的な福祉制度などない時代、十次は費用のすべてを寄付で賄わなければならない。寄付は約束されたお金ではない。もしお金が集まらなければ、1200人の孤児は餓死してしまう。
そうした寄付集めの手段の1つに思いついたのが、当時まだ珍しかった活動写真の上映だった。十次は孤児院の子どもたちを撮影した映像を持って全国を駆け回り寄付を集めた…。
十次は当時エジソンが発明したばかりのカメラをアメリカから輸入し撮影に使った。その映像がとにかくおもしろい。明治の日本はとても貧しく、飢えと隣り合わせだった。しかしフィルムに映った子ども達は天真爛漫で、必死に生きようとするエネルギーに満ちあふれている。

かつて日本にも凄い人がいたんですね。一人の医師としていきるより数十倍も価値ある仕事を成し遂げた人なんですね。この人を知らずに育った私は幸せだったのか、不幸だったのか。多分、境遇として考えれば幸せだったんでしょうが、学ぶべき事は非常に多いですね。今なにかと注目の宮崎出身と聞いて、東国原知事にも郷土の偉人に負けぬよう、勇気をもって頑張って欲しいと思います。

読んでくれてどうもありがとう。

 

 

以下、ある人の「石井十次に学ぶ」というタイトルの文章のコピペ 

 石井十次は、明治の初期に日本で初めての孤児院である岡山孤児院を作り、孤児の父と言われている人です。晩年は郷里である宮崎県児湯郡の広大な茶臼原に孤児院を移転し、そこで亡くなりました。彼は単なる慈善的孤児養育ではなく、自主独立の精神に則った孤児教育を目指しました。

 彼はその点をこう述べています。
「単なる慈善事業ということで事が経過しておれば、苦心も困難もなかった。困ったら人に訴えて寄付金を募り、ただ小学教育だけを施す、それで済ませたであろう。ところが、単に学問教育のみを授くれば、遊情におちる恐れがあり、実業教育を主とすれば学問教育を軽んずる恐れがある。半労働、半学とすれば、一もとらず、二もとらぬ的となる。昼労夜学とすれば、学問遅々として進まないばかりでなく、少年児童だと、幾分健康障害を来す恐れがある。」

 かつて医学を志した十次にとって、少年期の健康を害することには相当警戒したものと思われます。この様に彼が苦心の末考えたのが、成長年齢に応じた教育方針である「時代教育方針」でした。それは次の様なものです。

 ①幼年時代(6歳~10歳まで)は遊ばせる。
 ②少年時代(10歳~16歳まで)は学ばせる。
 ③青年時代(16歳~20歳まで)は働かせる。

 この教育方針に基づいて、孤児院内に私立の幼稚園と尋常高等小学校を付設し、また小学校卒業者には中学校、女学校に行かせる者までいました。これは当時とすれば、常識を越えて孤児の能力を尊重したものでした。

 10歳までは伸び伸びと遊ばせて、10歳からはしっかりと学ばせるという彼の考えは、子供が労働力と考えられた当時においては、驚くべきものでした。現在の日本でも、小さいときから塾通いが当たり前となり、子供を伸び伸びと遊ばせるなど考えもよりません。経済的に発達したにも関わらず、日本の子供達の現状は、十次が考えた人間教育には到底及ばないと言えます。

 彼のヒューマニズムの精神は、岡山孤児院十二則にもよく表れています。有名な「満腹主義」は、孤児の悪習を除くのために空腹感を満たすことから始めたわけですが、医学的な発想だけでなく心理学的な直観もあると思います。彼は年齢や体格による食事量制限をせず、各自が欲するままに食事させました。また「非体罰主義」では、子供が嘘をついたり、喧嘩をするのは父母教師が体罰をすることに発すると考えています。

 「密室主義」とは「善行あらば賞し、悪為あれば戒む、而してこれを為すに無人密室の内において為す」というもので、みんなの前で誉めるのは偽善に陥りやすく、また嫉妬も受けやすい、衆前で悪事を戒めるのも反抗心を招きやすく、本当に素直な改心をさせることができないというものです。

 我々教師はえてして叱るのは密かに、誉めるのはみんなの前でと思いがちですが、よくよく考えると名誉心と良心とは本来関係のないものです。衆前で誉めると却って他律的な善行の傾向が生まれ、陰日向ある傾向を強めてしまったり、現代では嫉妬からいじめの原因にもなりかねません。聖書にも「みんなの前でラッパを吹き鳴らすな」と、内なる神に対してのみ善行は行うよう記されています。

 石井十次は、ペスタロッチやルソーの教育理念にも大きく影響され、彼の鍬鎌主義は、労作教育と自然主義教育の反映だと言われています。石井十次の死後、大正15年に財団法人岡山孤児院は解散しましたが、昭和22年に石井記念友愛社が設立され、児童養護施設や保育所等を設置し、児童福祉活動などの数多くの福祉活動を行ってきました。

 現在でも友愛園には、石井十次の精神が生き続け、院生達は鍬鎌主義に則り、野菜栽培や家畜の世話・炊事・薪拾い等の多くの労作を続けています。そして茶臼原の自然豊かな院内の中庭で、各自が自分だけの花壇を作り、自分の好きな草花を育てています。宿舎の木製の階段や手すりはつるつるになるまで磨かれ、多くの院生が育った長い歴史を感じさせます。院生の机上や本棚はきちんと整理され驚くほどです。確固たる自治の精神にも感心させられました。

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2007.01.30 00:22 |  開業 / 病院経営  |  murajun  | 推薦数 : 1

零細開業医の悲哀

ホワイトカラーEなどどうでもいい開業医であるが、昨今の診療報酬ダウンのなかで悩ましいものの一つに労務問題がある。開業医は一応経営者であるが、他の職種と異なる事が幾点かある。

そのなかでも、職員の休暇があると補充しないと運営が出来なくなることは大きな問題だ。つまり、誰かが暫らく休むといっても患者さん達は待ってくれないから、職員数を減らしたり業務縮小や時間短縮や季節変型労働では対応出来ない場面も多い。

この時期、風邪やインフルエンザで患者数が増加しがちであるのでなおさら休まれると困る。零細開業医だと常勤が一人休むと10%以上のマイナスになり、影響は大きい。当院では利益度外視で常時一名多めに雇用して危機に備えているが、今日はちょっと重なって困りかかっている。

まず、金曜日に看護師の一人が「小学生の子供が膝の股関節の手術をしなければならなくなった。母親の付き添いが必要で暫らく休ませてもらいたい。」2~3週間以上にはならないだろうし、一名ならなんとか・・とOKサインを出した。

翌朝、別の職員の実父が旅先で急死したと連絡が入った。全くの突然死であり、忌引きで1週間の突然の休暇入りとなったが、NOと言える話ではない。

そして今日の月曜日の夕方、別のガンバリ屋の有資格職員が「個人的な事だが、先生に話がある・・」と言ってきた。このパターンは退職願いが少なくないので、気分が重かった。この人が休んだり辞めると、零細介護施設の運営の際の人員規定に引っかかり大幅減算となってしまい影響が大きい。うちの給料が少ないので他施設への転職が望みなのか?心配しながらだったが、話を聴くと・・・「妊娠してしまいました。」との事。なんだ、そんな事か?・・と簡単には行かない。

妊娠には院長の許可は不要とはいうものの、長期休暇が関係し、優秀な人材を急に雇用確保するのは困難なので、出産予定日に向けて労務軽減や代用職員の臨時雇用などを今後悩む事になりそうである。少子化のおリ、頑張ってドンドン出産休暇を取ってくれ・・と行かないのが零細開業医なのである。

小さい組織なので2人以上が急に休むと非常に厳しい局面になってしまう零細開業医。労務管理は悩みの種である。もし、明日にでも誰かが「ノロウイルスにやられました」とか「インフルエンザでダウンしました」とか言ってきたら・・・どうしよう?この時期、ありえない話ではないので怖い。

しかし、最大の問題点は・・・院長(私)の休み(ダウン)である。私が突然の病に倒れて入院でもしてしまったら・・・OUTである、きっと。医師不足と言われるご時勢、急に代診を探すのは至難の業。医局も以前ほどあてにならない。家族の突然の不幸の際にも対応出来るのか?・・非常に不安である。美男子薄命というから私も用心しておかねば・・と考えている。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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