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2007.01.15 18:45 |  映画 / 音楽 / 読書  |  murajun  | 推薦数 : 2

小浜島での谷川健一さん

1979年の冬休み、小浜島のとある民宿で二晩、民俗学者の谷川健一さんとご一緒する機会があった。

当時、大学入学したばかりの友人と私は、読書は好きだったのに 民俗学者としては柳田國男くらいしか知らなかったのだが、熊本県生まれで東大卒の当時58歳だったであろう谷川氏は既に20冊の著書を著していた民俗学の巨人であった・・・ことを後に知った。誰もが知る平凡社の雑誌『太陽』の初代編集長でもあるが、我々にひけらかす様な素振りは一切無く、サインを貰っとけば良かった・・と後悔しても後の祭りだった。

 

谷川さんは1981年、川崎市に日本地名研究所を設立され、現在に至るまで所長をされているが、平成の大合併で次々に消え行く地名に悲しみを堪えきれないのではなかろうか?年賀状に知らない地名が並ぶ度に、私ですら悲しくやるせない思いがしたものだ。地名を決めるのは各地の議会、つまり住民自身であり 決して総務省の官僚が問題なのではないが、地名に込められた歴史や文化や風俗などの民俗学が今後淋しいものになっていく恐れが現実のものになりそうである。由緒ある地名を何とか残せないものか?総務省が住民に啓蒙するのは今の時代ダメなのだろうか?

歴史の短いアメリカでさえ、先住民の地名を通り名に残したりして大事にしているのに、2000年以上の文化を持つ日本が地名を大切にしない風潮は見ていて悲しい。1000年以上の歴史を持つ地名が今回どれほど失われた事だろう。

嘆き節はホドホドにして、谷川健一さんのことだが・・・

多分、谷川さんは1981年1月に出版された小説『海の群星』の取材に来ておられたのではないかと思う。1970年に既に沖縄の著書を書かれているので沖縄先島の取材は数え切れないほどだったはずで、私達は谷川氏の語ってくれる沖縄の物語にすっかり魅了されてしまった。1988年NHKのスペシャルドラマとして『海の群星』が制作放送されたので知る人も少なくなかろうが、谷川氏の著書としては小説形式で非常に読みやすく、先島諸島や糸満の物語としてはよく書かれており、今では古書しか入手困難だが是非ご一読をお奨めしたい。

谷川氏は1921年生まれで、昨年も新刊を著されるなどご高齢にも関わらず正統派民俗学の巨人として歩んでおられる。既に原著だけで50冊を超える。是非これからもお元気にご活躍される事を期待している。

 

話を戻そう。その二晩の間、民宿の部屋や浜辺で谷川氏に聞かせていただいた先島諸島の物語は、どちらかと言うと悲しい物語だった。人頭税や口減らし、ジュゴンの人魚伝説、巫女伝説、サバニ漁、人買い、船作り、海底遺跡伝説・・・若い私達が引き込まれないハズは無い。私はその後、卒業までに計5回も先島諸島へ通う事になる。まだ若かった谷川氏は泡盛を飲みながら、好奇心旺盛な若造を相手に話をするのが実に楽しそうだったし、私も非常に楽しかった。時には、泡盛を手に波の音静かな浜辺に呼ばれて夜の海を眺めながら色々と島の話をしてくれた。ジュゴンに抱きしめられて海に沈む漁師の話や、自ら海に入っていく巫女の話はなんとも悲しかったが・・・

私は、若い人を感動させられる話を この先できるようになるのだろうか?

 

読んでくれてどうもありがとう。
 

 

以下は、谷川氏の沖縄に対する思想の根底を1970年以来流れるものか・・・コピペというか 私が勝手に適当にまとめさせて頂いた。

沖縄の解放の思想も生活の思想も、沖縄のおかれた時間と空間を抜きにしては考えることができない。南島では生活圏――それは珊瑚礁の内側の島――の周囲を異空間にとりまかれ、外側に出ればそこは異郷であり、そこからおとずれるものは異族である。この異空間にたいする索引と反撥、訪れるものにたいする款待と警戒の二重意識が日常化しているが、外界からもたらされるものは、すべて恩恵として受けとると同時に、懐疑の念をなくすことはなかった。たとえば寄木の神というように、木に乏しい島では波打際にうちあげられる材木は大切にされたが、一方それは悪霊がついたものとして悪霊よけのまじないをすることを忘れない。

海の彼方に異空間と異質の時間を意識するとき、同化と拒絶の二重意識が同時にはたらく。鋭敏な異族意識は異空間からおとずれるものを異族とおもうと同時に、相手にとって自分が異族であると考える。南島のばあい、時間は空間を媒介としてしか認識できない。ある島から他の島にむかって容易に渡航できないとき、その空間は時間として認識され、記憶の中に集積し、回流または沈澱するほかない。渡航できるとしても、その距離を克服するためのさまざまな条件を必要とする。たとえば、潮や風や、それから道具としての舟など。このとき時間は空間と切りはなすことができにくい。

南島の空間はたんに現実的なものでなく、異空間を含むことによって象徴的なものであり、一つの「世界」を形成し表現する。太陽の観念でも、本土とちがうのは、それが異空間との境目である水平線からのぼることに神聖な意味がもとめられることにある。太陽は農業神としての色あいは本土よりもはるかによわい。本土のように同質の世界の頂点に君臨するというよりは、それが非日常的観念をおびた世界の代表者であるという意識がつよい。

農業神としての太陽が、神、天皇、それから常民とをむすぶ本土のばあい、天皇崇拝の残像が民衆のあいだに根強くのこっているのにくらべて、沖縄の国王が、常民と農業社会の祭儀と民俗意識の共有を欠如していることは、尚家にたいする崇敬が琉球処分以後百年足らずして霧消していることによって理解される。少くとも先島に関するかぎり、尚家にたいする追惜や思慕の念はひとかけらも見当らない。

南島では太陽では農業神としての役わりをはたさない。珊瑚礁の地質は水田耕作に適しない。殺人的な暑熱をふりまき、水不足にさせる存在としての太陽は、感謝の対象にはならない。ながい雨は本土の農業では最大の障害になるが、南島ではむしろ日照りのもたらす干魃がおそろしいのだ。

干魃や台風によって珊瑚礁の島はたちまち飢餓におとし入れられる。水飢饉も深刻である。大部分の島々は長期間の孤立に耐えることができない。そこで一つの島から他の島にわたる原衝動が触発される。しかし沖縄の離島は舟を作る木にめぐまれていない。沖縄本島の北部をのぞけば、石垣島、西表島のような大きな島が船材に適する木を自生させているにすぎない。そこで他の島は、宮古本島や多良間島を含めて、船材を求めて石垣島や西表島にわたるということがおこなわれた。とくに西表島は繁茂する原生林と、豊富な水と沃土をもつ島として先島の統一の求心力の中心となったと考えられる。船材を伐木し農具をこしらえること、そのためには石器では充分でなく、鉄器が不可欠となった。鉄の輸入は南島に生活革命をもたらした。

異空間からおとずれる舟がニライから農作をもたらすものとみなされ、「カネ」「カニ」という鉄器に関係ある名を先島の神々が負うように、南島の生活に重要なものは、たんに物質的なものでなく、精神的なものとみなされた。つまり「舟」や「粟」「稲」「鉄器」などは南島民の生活のもっとも基本的な物資であるが、一方それらは非日常的な聖なる空間に所属するものであり、これらの移動や伝播を追求することは、琉球王国の形成過程を知る上に重要な手がかりになる。

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2007.01.15 14:30 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 1

ちゅら島 小浜島

土曜日にちゅらさんをNHKでやっていた。スタートから6年目、短期シリーズらしいが、10歳の娘が何故か大好きみたいなので少しだけ観た。

少々マンネリだと感じるが、このドラマ、おばあがいないと きっと面白くないさ~ と、おばあ健在に少しホッとしたのである。

 

お父~は お風呂に はいりに 行くさ~ といって全部は見なかったが、ちゅらさんがこんなに続いてもやっぱりスタート時の感動にはかなわない。何と言っても 国仲さん登場前、つまり那覇移住前の小浜島でのエリィには全然かなわないのである。小浜島と沖縄本島、沖縄の人はどういうか知らないが、全然違う沖縄だと思う。

その小浜島、1979年冬に訪れた事がある。今から27年も前のことさ~。その時泊まった民宿は、まさにエリィの家みたいな建物の民宿だっださ~。

しかし、今ネット検索してもそれらしき民宿はヒットせず、今は多分ないだろうと思う。当時、島に民宿は2~3軒だったが、既にヤマハの立派なはいむるぶしリゾートは存在していた。大学一年生の私には高嶺の花だったので、買い占められた広く綺麗な立ち入り禁止区域を恨めしく眺めていたのを思い出す。私の泊まった民宿は、木造のいかにも沖縄ちゅらさんの民宿風で、南海岸に面しちょうど中間あたりにあって、部屋で寝てると潮の音が一晩中心地好く聴こえてくる場所だった。オヤケアカハチの森の浜側だったようだ。つまり、集落のある島の小高い中心部ではなく、2泊した宿の軒先からは黒島や西表島などが見えた。なぜ一晩中聴こえるか知ってるかというと、ほとんど寝なかったからだ。理由はあとで・・・

 

なぜ小浜島へ行ったのか、はっきり理由は覚えていないが、高校の同級生のS君と二人旅だった。S君はQ大医学部1年生で、コザ(現在の沖縄市)の出身だった。沖縄は初めての僕が先島諸島に行きたいと彼にリクエストしたところ、多分かれの親がアレンジしてくれたものと思う。沖縄を知るには行って来い・・という事だったのだろう。沖縄本島出身のS君も知らない事だらけで感動していた。学生だから民宿は当然だろうが、結果的にはいむるぶしに泊まらなくて良かった。その宿での感動が、卒業までに5回も沖縄に通うきっかけとなったのは間違いないから・・・

その民宿には先客があり、既に長く滞在されていた。民俗学者の谷川健一さんだったが、失礼ながら聞いた事がない名前だったので男二人の我々は泳げない冬の浜辺で波と戯れていた。冬の小浜島の民宿、当時は客が居ないのが普通だったので、取材旅行に来られていたらしい谷川さんも宿の家族以外に話し相手が欲しかったのだろう。結構読書好きの我々でOKと感じられたのか、直ぐに仲良くなってそれからは谷川さんの話に影響されっぱなしだった。それが、寝れない理由だった。谷川さんの事は後で書こうと思う。

我々は、南の浜に近い細崎港から漁船を頼んで、当時何にも無かった西表島にヨナラ水道を越えて渡った。島をつなぐ定期船が当時なかったので、最短距離でお願いしたが、滞在わずか5時間の西表島のことは、後で書くかもしれないが書かないかもしれない。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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