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今夜は、南の島のNHKが地域制作ドラマを放送した。ロケされていた事は知っていたし、内容や役者にも興味もあったので、念のために録画までして観た。夜間透析の患者回診が終わり、さて・・・と構えた放送直前に、感冒の時間外の患者さんが来院され、ギリギリセーフであった。
今回で5作目となる福岡発地域ドラマの舞台は北原白秋の故郷、水郷柳川市だった。
写真家として活躍を目指していた南海子(板谷由夏)が東京での生活に挫折し突然帰郷。地元で船頭をしている徹(中村俊介)、徹の兄でノリ漁師の実(入江雅人)、実の婚約者の由紀(瑞木りか)ら、幼なじみとの再会により、それぞれが抱える悩みに向き合うきっかけとなる。厳しい現実の中、懸命に生きる若者たちが“ふるさと”とそこに生きる人々にふれて成長していく姿を描くドラマだった。
期待以上に素晴らしい出来栄えだった。前半ビミョーにズレていた方言が後半ではシックリ行っていたし、「おにぎえ」「白秋祭」等の美しい祭りの情緒を織り込んで歴史ある地域の持つ魅力を表現する反面、観光や海苔漁など柳川を支える産業が抱え込む問題点も良く表現していた。大物脚本家、金子成人氏の作品というのもうなずける。

かつて私は、NHK福岡放送局が制作放送した「15年度の福岡発地域ドラマ 玄海 ~わたしの海へ~ 」を観て感動したことがある。今回も勝るとも劣らないドラマに仕上がった。NHKのテレビドラマのほとんどは東京・名古屋・大阪で作られている。地域の放送局が毎年1本ではあれドラマを定期的に制作するのは、福岡放送局のみである。地域発の取り組みが評価され、「玄海 ~わたしの海へ~」は第30回放送文化基金賞テレビドラマ番組本賞を受賞した。
朝の連続ドラマ小説も東京と大阪放送局が交互に制作しているが、時には福岡などの地方放送局に任せてみてはどうだろうか?南の島が舞台の連続ドラマを観ていると大阪の人が作った事を強く感じるが、今日の番組はとても自然だった。これなども、地方分権と同じで、地方の事情は地方に任せたほうが上手く行く例かもしれない。
いずれ、このドラマも全国放送が予定されていると聞いた。ブログの読者の中で思い出して観てくれる人がいると嬉しく思います。
でも上京する田舎の美人って、南海子のように東京で仕事をエサに悪い男に騙される事が多いもんね~ホント
読んでくれてどうもありがとう。
ハンガリー国境のLokoshaza駅から鈍行列車の乗客になった私は、ここ数日間の出来事を振り返りながら平原の風景を眺めていた。タクシーで辿ったルーマニア側の景色とは大きな違いはないが、何かが明らかに異なる自由な雰囲気を感じていた。もちろん、私の安心感がそう感じさせたものだろう・・・
ブタペストへは約3時間かかって到着した。既に勝手知ったる街だったが、予定より5時間以上遅れてしまい、列車でウイーンへは行かずに計画変更をする事にした。空港へ向い適当な便があれば行った事のないワルシャワかコペンハーゲンかに行こうと考えた。最終目的地は3日後にアムステルダムから日本へ。残念ながら両者共に夕方以降の便がなく、フランクフルトへ飛ぶ事にした。その後は列車でオランダに行く事にした。それでもフランクフルト到着は20時になり、その夜は疲れ果ててグッスリ眠った。夢さえ見なかったように思う。

ルーマニアからヤットの思いで脱出したが、考えてみれば詳しい情報を得ぬままフラフラ自由気ままに旅をしていたからに過ぎない。ネット時代ではなく、CNNが日本に定着していた訳でもない。モバイル機器など庶民には利用できなかった。だから私のドジも仕方ない・・と今でも思う。
現在のイラクなど内戦下の国に潜入することと革命直後の国に入ることの開きは大きい。いわば、同じ下痢でも赤痢とノロウイルスの違い位あろう。また、同じアナーキーでも戦乱と政治体制革命の差は大きい。破壊と再生の差でもある。もしタイムスリップできるならば、昭和20年6月より10月の日本に行ってみたいと思う。医療現場でいえば、癌病棟より産科病棟で働きたいと思う。
私にとっての1990年夏の東欧はそんな場所だった。EU加盟を前にする現在のルーマニアには興味はない。北朝鮮の崩壊後にも興味はない。なぜなら、我々はあまりに多くのことを既に知っている。津波のような東欧共産崩壊は、私を呼び寄せるほどの要因と雰囲気を持っていた。
その12月22日に旅行記を書き終える事にしたい。
1997年、外交官である春江一也氏が「プラハの春」を上梓された。「ベルリンの秋」を含めて彼の本を読みながら1968年のプラハはどんなに凄かったんだろうと想いをはせる・・・
読んでくれてどうもありがとう。
1989年の今日、12月21日から22日にかけては、ルーマニアでチャウシェスク大統領の独裁が音をたてながら崩壊して行った日である。
さきほどNHK BS1の「きょうの世界」という番組では、1月1日にEU加盟を果すルーマニアの現状と問題点を特集していた。すっかり美しくなった街の姿は、あの当時のルーマニアからは想像すら出来ないほどだった。黒海に面する街ConstantaはEU東端の国境の街として、貧しい東方諸国からの違法入国防止に全力を注いでいるようだ。かつてとは全く逆の立場にすっかり様変わりしていて面食らってしまう。
しかし、17年の時を経ても「汚職」などの共産党独裁時代の負の遺産が大きく他のEU諸国に懸念を抱かせているという。あの時のCurtici駅での隊長の態度も賄賂を要求する雰囲気がアリアリだったと思ったのだが、私から直接渡ることは無かった。あの若者からは、あるいは・・・・
1990年8月27日早朝のCurtici駅のプラットホーム。国境警備兵隊長と目配せをして私に優しく話しかけてきた通訳役の若者は、こう言った。
「隊長が提案した方法では時間も労力もかかり大変だと思う。私に一つ良い提案がある。自動車で国境を越える際にVISAを即時発給する関門が一箇所だけ近くにあるのだ。近くと言っても、そこを通ってハンガリー側の駅に行くまで約100km、2~3時間はかかる。幸いこの村には一台だけタクシーがある。どうだ、タクシーをたのんであげようか?」
キター・・・と感じた。恐る恐る値段交渉したら、最終的に100米ドルになった。約一万円、ほとんど交渉の甲斐なく彼の「言い出し値」だったが、私には他に選択肢があっただろうか?一万円で無事帰国出来れば安いもの、日本でタクシー100km乗ったらその倍はするだろう・・・私の高級時計が隊長に渡らなかったので安い・・という事にした。ヤレヤレだ。多分10ドル位は隊長に回されるのだろうが、100米ドルはルーマニアでは10万円程の価値があったと思う。
交渉締結でニコニコする隊長と別れ、若者に案内されて駅舎から表に出た。僅かな古い家が駅前には集まっていたが、タクシーは・・・真っ赤なおんぼろトラバントが一台だけ停車していた。他に自動車は、汚れた軍用車が数台あっただけだった。運転手がにこやかに話しかけてくるが分からない。若者に聞くと自分の父親が運転手なのだと言う。そうか、若者は私の様なドジを時々高値で捕まえて国境越えを手伝うタクシーの客引きで、隊長にショバ代を賄賂で渡して生計を立てているに違いない。月に3~4人もドジが居れば充分に成り立つ立派な商売だろう。
もっと快適なタクシーを期待しても無理であろう。スーツケースをトランクに詰めて、若者が助手席に私は後部座席に納まり、線路に沿って舗装されてない村の中の田舎道を走り出した。まだ、7時半頃だった。車は放し飼いのニワトリや犬を避けながら質素な家が並ぶ通りを進んだ。村のハズレまで来た頃、タクシーが急に曲がって極く普通の民家の前に停車した。若者が英語で「ここは我々の家だ。今から朝食をとる。お前は腹はすいてないか?降りて家に入れ・・」と言うではないか。親父はさっさと車から降りて家に入っていった。金髪の母親らしき婦人が家の中から出てきて車を覗き込んでニコリと笑った。
私は覚悟した。身包み剥がれて日本人が誰も知らない辺鄙な国の辺鄙な田舎の村で野垂れ死にするのか?前途有望な青年医師の死に場所には相応しくないと感じつつ、どうせ逃げられない・・と彼らについて「彼らの家」に入って行った。ちょっと映画の見すぎだったのかもしれない。結局、彼らの言うとおり朝食を食べに立ち寄っただけで、日本人から有り金全部巻き上げようという気はさらさら無かったようだ。朝5:20が列車の到着時間なので、早朝から家を出ていたのだ。更に列車は沢山は無いので焦って急いでも何の得にもならないようだった。
彼らの家は外見は周辺と変わらず普通だったが、中に入るとシャンデリアがあり、壁全面の大きさの南の島の風景写真が貼り付けてあった。良く見ると何となく金目のものが幾つもあって、ドジ相手のタクシー稼業は盛業のようだった。奥さんは私にも美味しそうな朝食を沢山出してくれた。若者はテレビをつけてルーマニアの番組を私に見せてくれたが、スイッチを入れて画面が映るまでに2分位かかる代物だった。優しく接待してくれた3人に私はすっかり安心し、普通の民家に招きいれてくれた事に大いに感謝した。彼らの写真がアルバムの中に何枚もあるが、貴重な経験だった。私の100ドルで彼らの生活は更に潤っただろうか?
ルーマニアの民家の朝ごはんを堪能し、親父と息子と私の三人は優しい母親に見送られ一路舗装された道を北に向かった。見渡す限りの大平原で、高い並木が交差する道路を示す以外には広がる畑が見えるだけだ。農作物を積んだ数台の馬車を追い抜いてトラバントは快適に走った。タクシーは西に向きを変え少し進んだところで急に渋滞しだした。どうやら国境検問所が近いようだ。検問所が見えた所で車を止め、二人は私を案内してVISA申請に付き合ってくれた。今回はかなりスムーズに発給され、私達はハンガリーに入った。親子のパスポートに無数の検印が押されていたのが見えた。
先日グーグルアースで確認すると、検問所はElekという場所だったようで、目指した駅はLokoshazaという小さな町にあった。Curtici駅から一駅目で、列車では10分もかからないハズだが3時間近くかけての大移動だった。ORIENT EXPRESS号は既にブタペストを過ぎてウイーンに向っていたに違いない。Barbatu教授たちは随分心配しているに違いないが、無事を知らせる連絡手段は無かった。
Lokoshaza駅前に真っ赤なトラバントを止め、スーツケースを降ろして約束の100ドルを渡すと、親父は嬉しさのあまり私に激しくキスをしてくれた。何度もキスをくれ息子が写真に収めてくれた。その写真もアルバムにあるが、私もニコニコして本当に嬉しそうな表情をしている。けっして私はホモではないのだが・・・
グーグルアースは凄い。その駅前広場まで空から見せてくれ、あの日の情景がまざまざと甦る。街の名前など知らなかった私だが、グーグルアースのお陰でもう一度若い日に戻って旅を追体験できる幸せを感じている。
こうして私のルーマニアの旅は終わり、再びブタペスト行きの各駅停車に乗り込んだ・・・・
あのタクシー親子にも是非再会してみたいものだ。勿論名前は知らないが・・・家なら分かる。
読んでくれてどうもありがとう。