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1989年から90年にかけて、東欧諸国の政治体制は目まぐるしく変化をしていた。既にチェコやポーランド、ブルガリアなどでも革命後に大きな変容を遂げているかもしれないが、学生の早稲田君と違って大学病院で医師をやりながらの自分にはこれ以上の自由な時間は許されなかった。残された数日間の夏休みを上手く使って、自由気ままにヨーロッパを旅して元気に仕事に復帰するのが自然だった。
1990年8月26日夜、こうして私は再びハンガリーを経由してウイーンへ行くため、ルーマニアの首都ブカレストから夜行列車ORIENT EXPRESS号の乗客になった。ハンガリーのVISAは先日ブタペストの空港で入手していたし、オーストリア入国にはVISAが必要とは聞いていなかった。トランシルバニア地方やドラキュラ城を訪問をする事も無く、いまだに政情混乱のルーマニアはたった一日の滞在で逃げ出すように列車に飛び乗ったわけだが、定期的に飛行機が飛ばない以上、時間的制約のなかで私の選択肢はあまり無かった。それに、東欧から西欧に向っての雰囲気の変化を陸路体験するのもいいかな・・・と感じていた。
夜行列車に飛び乗った際の私の不安は、食料や飲料水を調達出来ずに果してウイーンまで耐えられるか・・と、先ほど露天で買ったピンクの生ぬるい水が赤痢菌に汚染されていないか・・だけだった。それと、コンパートメントの乗客と全く言葉が通じず会話が出来ずに過ごすのも辛い予測だった。駅構内にも長距離国際列車内にも食料提供の場所は見つけられなかった。腹をすかして眠ってしまうのが得策かと感じていた。
ところが、思いもかけずコンパートメントの乗客達に恵まれた。8人掛けコンパートメントは満席で私は窓際の席を確保していたが、さっそく中年の男性3人が英語で話しかけて来てくれた。ブカレスト市内を案内してくれた数学教授以来のまともな英語をきいて私はホッとした。少なくとも一晩中完全に黙っている必要は無くなったのだ。いくら一人旅が好きといっても、退屈ほど嫌なものはない。
ルーマニアの東は黒海に面し、石油を産出していると地理で習ったのは覚えていた。この3人の中年親父達はそこのConstanta大学で石油採掘を専門にしている工学系の教授達で、はるばるウイーンの学会まで列車で出かけるところだったらしい。恐らく、その街からブカレストまでも、既に半日ほどかかった事だろう。彼らにとっても、初めて会う日本人と会話しながらウイーンまで同行できるのは絶好の退屈しのぎでラッキーだったに違いない。列車が動き出す前から名刺を差し出され、ラテン民族のノリで他の英語が出来ない乗客も巻き込みながら会話が一気に弾みだした。ルーマニア人とこんなに沢山会話が出来るとは期待していなかったが、みんな薄汚れた格好はしているものの明るくお人好しな人々ばかりだった。
チャウシェスク独裁時代の彼らは一体どんな生活を送っていたのであろう。チャウシェスク共産党が倒れたのちの救国戦線政府も同じ共産党の変容組織であり、各地で暴動を繰り返しながら第二革命が起こらんとしている時代背景の中で、誰が聞いているか分からない列車の中では、たった今知り合った人々と心底から政治談議をできる状況ではまだ無かった。しかし、お互いの国や生活への興味は尽きず、夜遅くまで寝させてもらえなかった。
しかし、何より嬉しかったのは、彼らが分けてくれた食料品と飲み物だった。どうも当時のルーマニアでは食料持参で長距離列車に乗るのがお約束らしく、列車が動き出して間も無く全員の夕食タイムが始まった。私は全く何も持たず、2時間前に簡単に不味いレストランで食べたきりウイーンまで我慢する覚悟だった。運がよけれはハンガリーではパンとジュースくらい手に入るかも知れない・・くらいに諦めて夜行列車に乗り込んでいたのだ。一人何も食べようとしない私に、3人だけでなく全員が夫々手作りと思しき夕食や飲み物を喜んで恵んでくれた。赤痢の心配なんか吹っ飛んで、私は嬉しさで涙が出そうだった。
そんな幸せな車内での時間を過ごしたにも関わらず、その教授の一枚の名刺以外に写真も全く残っていない。翌日明るくなってから乗客たちと一緒に写真に納まろう・・と私達は考えていた。しかし、この後の大事件でそれどころではなくなり写真を一枚も取れないままに私は彼らと別れ別れになってしまった。
翌朝、やっと周囲が白み始めた5時過ぎに私達をウイーンまで運ぶORIENT EXPRESS号は静かに停車した。ハンガリー国境の駅、Curticiだった。上に乗せた写真は最近のものだろう、拝借したCurtici駅舎の姿だ。しかし、このときは軍隊に囲まれ警備が厳しくカメラを構える事は困難な雰囲気だった。名前と場所と路線図はグーグルアースなどで先日確認するまで資料が少なく覚えてなかった、というより知らなかった。
ハンガリーからルーマニアに入国の際にここの駅は経験していたはずだが、今度は全く異なった雰囲気だった。各車両にドヤドヤと完全武装の兵士達が乗り込み、かなり入念に全員のパスポートと荷物を調べだした。停車後20分位して我々のコンパートメントにやってきたが、仲良くなった教授達と私は小声でずっとお喋りを続けていた。窓際の私は最後になったが、今度はVISAももってるし・・・と、銃をさげた兵士にパスポートを要求されても私は安心して差し出した。
まだ起きがけで、私は眠たい眼をこすりながら兵士達の手元にある自分のパスポートを眺めていたが、彼らは何度もめくり返しながら私の顔を眺め、他の兵士を呼びつけ数名の兵士が加わった。最初は日本のパスポートが珍しいのか?と思っていたが、雲行きが怪しくなり、教授達が私をチラチラ横目で見だした時には動悸がしだした。「チョッとこい」と合図され、コンパートメントから通路に出され、パスポートに貼り付けてあるハンガリーのVISAを指差しながら、「これは一回VISAだからダメだ・・」と言ったようだが、私にはさっぱり理解できず、教授が兵士と交渉してくれたが無碍も無く拒絶され、結局「荷物をまとめてサッサと下車しろ・・」と銃を構えられながら命令されてしまった。私は一定期間何度も使えるVISAと信じていたため、キョトンとしながら荷物を抱えて兵士に従った。ホームで説明すれば何とかなるだろう・・と平原の真っ只中の国境の駅のホームに降り立った。車外だけで兵士の数は50人を超え、車内もあわせると80人位の「国境警備兵」が早朝の駅を固めていた。私の前に4~5人の客が降りていたが、もともと地元の人だったようだ。結局、私の後には誰も降ろされず、強制的に降ろされたのは私一人だったようだ。
その時はまだ、たとえVISAが無効でも前回は空港で取れたし、ルーマニア入国時には簡単に列車内で取れたので、ハンガリー国境でも列車内発行可能と楽観視していたが、相当甘かったようだ。完全に西欧化へ向っていたハンガリーは、まだ暴動が散発し第二革命の噂まであったルーマニアからの流入を極度に警戒していたのだ。両国間で同一民族が国境周辺に暮らしている関係もあることだろう。ちょうど、ハンガリーが韓国で、ルーマニアが北朝鮮といった関係か・・と感じる。
そうこうしている間に車内検問が終了したのか、私をホームに残して列車は静かに西に向って走り出した。窓からは多くの人が私に視線を向け、教授たち同室の乗客たちは黙って憐れそうな目付きで手を振ってくれた。後で一緒に写真を撮りたかったがこういう事情で不可能だった。まだ朝の7時前だったが、広い平原の中を何事も無かった様に去り行く列車を眺めながら、一気に不安な感情が私を襲ってきた。私にはどんな選択肢があるのだろう?
兵士達に隊長のところまで連行された。パスポートは取り上げられたままだ。それを手にしたまま隊長は私に話しかけるが判りっこない。隊長が兵士に合図をしたら20歳位のジーンズをはいた若者がやって来た。不安に怯えていただろう私に若者は英語で話しかけてきた。正式な通訳なのであろうか、それにしては若者は西欧風なラフな格好をしていた。しかし、彼以外に言葉の通じる人間はいなさそうだった。彼を間に隊長と私は交渉したが、列車は既に行ってしまい次の列車が簡単に来るとも思えなかった。
簡単に言うと、「お前のVISAは一回ビザで再入国には無効だ。ハンガリーに入国したいならばVISAを再取得する必要がある。その方法は、いくつかある。」と、隊長は私を足の先から頭のテッペンまでジロジロ眺めながら言った。一日に一人位ビザなし降車が出るらしいが、日本人を見たのは初めてたっだそうだ。「いいカメラだな、いい時計だな、いいスーツケースだな、いい顔だな・・」と物欲しそうな顔をしながら何やら話しかけてくるが、若者は全部を通訳するわけではない。「一つ目は、ブカレストに列車で戻ってからVISAを取って来い。あさっての朝にはOKだろう。二つ目は、ブカレストから飛行機でVISAのいらない国へ出ろ。だが、飛行機はあまり飛ばない。三つ目は、100km程はなれた街にVISA発給所があるから車で行って戻って来い。ただ今日OKかは分からん。」と、どれも難しい方法ばかりを提示してきた。
他に今すぐOKな方法は無いのか?ブカレストに再度往復するより時計で済めばそっちがいい・・と感じつつ通訳の若者に不満を述べていると、若者が隊長と何やら話しだした。隊長が大きく若者に頷いたあと、若者が振り返って私に向って優しく口を開いた・・・
ちょっと長くなったので、この後は(4)に書こうと思う。
このConstanta大学の石油工学教授 Dr. Gheorghe Barbatu は私が一番再会してみたい人の一人だ。古い名刺は手元にあるが、もう大学にはいないだろう。なんとかお会いしてみたい。
読んでくれてどうもありがとう。
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