murajun
More プロフィール

Search

Calendar

<< 2006/12 >>
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

トップページ

Doctors Blog

新着コメント

新着トラックバック

2006.12.21 18:29 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 0

ルーマニアの旅(3)

1989年から90年にかけて、東欧諸国の政治体制は目まぐるしく変化をしていた。既にチェコポーランドブルガリアなどでも革命後に大きな変容を遂げているかもしれないが、学生の早稲田君と違って大学病院で医師をやりながらの自分にはこれ以上の自由な時間は許されなかった。残された数日間の夏休みを上手く使って、自由気ままにヨーロッパを旅して元気に仕事に復帰するのが自然だった。

1990年8月26日夜、こうして私は再びハンガリーを経由してウイーンへ行くため、ルーマニアの首都ブカレストから夜行列車ORIENT EXPRESS号の乗客になった。ハンガリーのVISAは先日ブタペストの空港で入手していたし、オーストリア入国にはVISAが必要とは聞いていなかった。トランシルバニア地方やドラキュラ城を訪問をする事も無く、いまだに政情混乱のルーマニアはたった一日の滞在で逃げ出すように列車に飛び乗ったわけだが、定期的に飛行機が飛ばない以上、時間的制約のなかで私の選択肢はあまり無かった。それに、東欧から西欧に向っての雰囲気の変化を陸路体験するのもいいかな・・・と感じていた。

夜行列車に飛び乗った際の私の不安は、食料や飲料水を調達出来ずに果してウイーンまで耐えられるか・・と、先ほど露天で買ったピンクの生ぬるい水が赤痢菌に汚染されていないか・・だけだった。それと、コンパートメントの乗客と全く言葉が通じず会話が出来ずに過ごすのも辛い予測だった。駅構内にも長距離国際列車内にも食料提供の場所は見つけられなかった。腹をすかして眠ってしまうのが得策かと感じていた。

ところが、思いもかけずコンパートメントの乗客達に恵まれた。8人掛けコンパートメントは満席で私は窓際の席を確保していたが、さっそく中年の男性3人が英語で話しかけて来てくれた。ブカレスト市内を案内してくれた数学教授以来のまともな英語をきいて私はホッとした。少なくとも一晩中完全に黙っている必要は無くなったのだ。いくら一人旅が好きといっても、退屈ほど嫌なものはない。

ルーマニアの東は黒海に面し、石油を産出していると地理で習ったのは覚えていた。この3人の中年親父達はそこのConstanta大学で石油採掘を専門にしている工学系の教授達で、はるばるウイーンの学会まで列車で出かけるところだったらしい。恐らく、その街からブカレストまでも、既に半日ほどかかった事だろう。彼らにとっても、初めて会う日本人と会話しながらウイーンまで同行できるのは絶好の退屈しのぎでラッキーだったに違いない。列車が動き出す前から名刺を差し出され、ラテン民族のノリで他の英語が出来ない乗客も巻き込みながら会話が一気に弾みだした。ルーマニア人とこんなに沢山会話が出来るとは期待していなかったが、みんな薄汚れた格好はしているものの明るくお人好しな人々ばかりだった。

チャウシェスク独裁時代の彼らは一体どんな生活を送っていたのであろう。チャウシェスク共産党が倒れたのちの救国戦線政府も同じ共産党の変容組織であり、各地で暴動を繰り返しながら第二革命が起こらんとしている時代背景の中で、誰が聞いているか分からない列車の中では、たった今知り合った人々と心底から政治談議をできる状況ではまだ無かった。しかし、お互いの国や生活への興味は尽きず、夜遅くまで寝させてもらえなかった。

しかし、何より嬉しかったのは、彼らが分けてくれた食料品と飲み物だった。どうも当時のルーマニアでは食料持参で長距離列車に乗るのがお約束らしく、列車が動き出して間も無く全員の夕食タイムが始まった。私は全く何も持たず、2時間前に簡単に不味いレストランで食べたきりウイーンまで我慢する覚悟だった。運がよけれはハンガリーではパンとジュースくらい手に入るかも知れない・・くらいに諦めて夜行列車に乗り込んでいたのだ。一人何も食べようとしない私に、3人だけでなく全員が夫々手作りと思しき夕食や飲み物を喜んで恵んでくれた。赤痢の心配なんか吹っ飛んで、私は嬉しさで涙が出そうだった。

そんな幸せな車内での時間を過ごしたにも関わらず、その教授の一枚の名刺以外に写真も全く残っていない。翌日明るくなってから乗客たちと一緒に写真に納まろう・・と私達は考えていた。しかし、この後の大事件でそれどころではなくなり写真を一枚も取れないままに私は彼らと別れ別れになってしまった。

 

翌朝、やっと周囲が白み始めた5時過ぎに私達をウイーンまで運ぶORIENT EXPRESS号は静かに停車した。ハンガリー国境の駅、Curticiだった。上に乗せた写真は最近のものだろう、拝借したCurtici駅舎の姿だ。しかし、このときは軍隊に囲まれ警備が厳しくカメラを構える事は困難な雰囲気だった。名前と場所と路線図はグーグルアースなどで先日確認するまで資料が少なく覚えてなかった、というより知らなかった。

ハンガリーからルーマニアに入国の際にここの駅は経験していたはずだが、今度は全く異なった雰囲気だった。各車両にドヤドヤと完全武装の兵士達が乗り込み、かなり入念に全員のパスポートと荷物を調べだした。停車後20分位して我々のコンパートメントにやってきたが、仲良くなった教授達と私は小声でずっとお喋りを続けていた。窓際の私は最後になったが、今度はVISAももってるし・・・と、銃をさげた兵士にパスポートを要求されても私は安心して差し出した。

まだ起きがけで、私は眠たい眼をこすりながら兵士達の手元にある自分のパスポートを眺めていたが、彼らは何度もめくり返しながら私の顔を眺め、他の兵士を呼びつけ数名の兵士が加わった。最初は日本のパスポートが珍しいのか?と思っていたが、雲行きが怪しくなり、教授達が私をチラチラ横目で見だした時には動悸がしだした。「チョッとこい」と合図され、コンパートメントから通路に出され、パスポートに貼り付けてあるハンガリーのVISAを指差しながら、「これは一回VISAだからダメだ・・」と言ったようだが、私にはさっぱり理解できず、教授が兵士と交渉してくれたが無碍も無く拒絶され、結局「荷物をまとめてサッサと下車しろ・・」と銃を構えられながら命令されてしまった。私は一定期間何度も使えるVISAと信じていたため、キョトンとしながら荷物を抱えて兵士に従った。ホームで説明すれば何とかなるだろう・・と平原の真っ只中の国境の駅のホームに降り立った。車外だけで兵士の数は50人を超え、車内もあわせると80人位の「国境警備兵」が早朝の駅を固めていた。私の前に4~5人の客が降りていたが、もともと地元の人だったようだ。結局、私の後には誰も降ろされず、強制的に降ろされたのは私一人だったようだ。

 

その時はまだ、たとえVISAが無効でも前回は空港で取れたし、ルーマニア入国時には簡単に列車内で取れたので、ハンガリー国境でも列車内発行可能と楽観視していたが、相当甘かったようだ。完全に西欧化へ向っていたハンガリーは、まだ暴動が散発し第二革命の噂まであったルーマニアからの流入を極度に警戒していたのだ。両国間で同一民族が国境周辺に暮らしている関係もあることだろう。ちょうど、ハンガリーが韓国で、ルーマニアが北朝鮮といった関係か・・と感じる。

そうこうしている間に車内検問が終了したのか、私をホームに残して列車は静かに西に向って走り出した。窓からは多くの人が私に視線を向け、教授たち同室の乗客たちは黙って憐れそうな目付きで手を振ってくれた。後で一緒に写真を撮りたかったがこういう事情で不可能だった。まだ朝の7時前だったが、広い平原の中を何事も無かった様に去り行く列車を眺めながら、一気に不安な感情が私を襲ってきた。私にはどんな選択肢があるのだろう?

 

兵士達に隊長のところまで連行された。パスポートは取り上げられたままだ。それを手にしたまま隊長は私に話しかけるが判りっこない。隊長が兵士に合図をしたら20歳位のジーンズをはいた若者がやって来た。不安に怯えていただろう私に若者は英語で話しかけてきた。正式な通訳なのであろうか、それにしては若者は西欧風なラフな格好をしていた。しかし、彼以外に言葉の通じる人間はいなさそうだった。彼を間に隊長と私は交渉したが、列車は既に行ってしまい次の列車が簡単に来るとも思えなかった。

簡単に言うと、「お前のVISAは一回ビザで再入国には無効だ。ハンガリーに入国したいならばVISAを再取得する必要がある。その方法は、いくつかある。」と、隊長は私を足の先から頭のテッペンまでジロジロ眺めながら言った。一日に一人位ビザなし降車が出るらしいが、日本人を見たのは初めてたっだそうだ。「いいカメラだな、いい時計だな、いいスーツケースだな、いい顔だな・・」と物欲しそうな顔をしながら何やら話しかけてくるが、若者は全部を通訳するわけではない。「一つ目は、ブカレストに列車で戻ってからVISAを取って来い。あさっての朝にはOKだろう。二つ目は、ブカレストから飛行機でVISAのいらない国へ出ろ。だが、飛行機はあまり飛ばない。三つ目は、100km程はなれた街にVISA発給所があるから車で行って戻って来い。ただ今日OKかは分からん。」と、どれも難しい方法ばかりを提示してきた。

他に今すぐOKな方法は無いのか?ブカレストに再度往復するより時計で済めばそっちがいい・・と感じつつ通訳の若者に不満を述べていると、若者が隊長と何やら話しだした。隊長が大きく若者に頷いたあと、若者が振り返って私に向って優しく口を開いた・・・

ちょっと長くなったので、この後は(4)に書こうと思う。

このConstanta大学の石油工学教授 Dr. Gheorghe Barbatu は私が一番再会してみたい人の一人だ。古い名刺は手元にあるが、もう大学にはいないだろう。なんとかお会いしてみたい。

 

読んでくれてどうもありがとう。

固定リンク | コメント (0)

2006.12.21 01:50 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 0

ルーマニアの旅(2)

私にとってはルーマニアの旅は強烈な思い出となっているが、当時のアルバムを開いても残念ながら情報量は余りにも少ない。何しろ満足な地図も持たずカメラを構える余裕も自らの存在を記録する手段にも乏しい旅だった。安全と思いつつ、見るもの聞くもの食べるもの全てが、予備知識を仕入れる暇もないほど忙しい大学病院を抜け出してきた私には完全に異次元の世界だった。

イラクの内戦は確かに危険であるが、現代においてはインターネットでイラクの殆ど全ての地理的文化的情報が手に入る。衛星テレビでは住民の生の声や姿が鮮明に伝えられる。携帯電話やネット動画やGPSなどを使用すれば、一体何処にいるのか分からない時代だ。この当時は、自分が何処で何をしているのかを日本の誰かにリアルタイムで伝える手段はまず見当たらなかった。見知らぬ土地での「野垂れ死」には行方不明者に結びつく状況だった。そろそろ結婚を意識し始めていた前途有望な青年医師であった私は絶対に死ぬわけにはいかなかったのだが、独身最期かもしれない自由な旅の魅力に引き込まれてしまっていた。

今ここに記録に留めたいとブログ記事にしているのは、今ならインターネットを通じて詳細な地図を得て、グーグルアースの画像で建物の姿まで確認しながら、当時の思い出を辿る事が可能になったからだ。従って、誰かに伝えたいというより自分自身に対しての記憶を再構築するための記事になってしまうだろう。タイムマシーンを手に入れた子供の様な気持ちで昔の旅を振り返ってみたい。「そんな独身時代があって、パパがどんな風に自由に旅をしていたのか・・」を、いずれ思春期を迎えた子供達に感じてもらえればいい。残念ながら昔の私自身の写真はアナログで、自分のアルバムに閉まっておきたい。そのうち、デジタル処理してブログにアップするかも知れない。

さて、私とブカレスト北駅の構内で出くわした早稲田君は駅前に出て地図を広げた。私の持つ地図は「地球の歩き方」の半ページにも満たない粗末なものだったが、早稲田君の地図はヨーロッパで入手した様でもう少し詳しかった。駅前にはオンボロ車やメタンガス燃料のトロリーバスなどがあったが、至る所が黄砂で覆われたような埃っぽくて薄汚れたブカレストの街の姿だった。そこに登場した上品そうな日本人二人だから目立たないはずは無い。さっそく、東ドイツ製と思しきオンボロ車の運転手が近寄ってくる。小柄で腹が出た典型的ルーマニア親父が彼のタクシーに乗らないかと誘って来たのである。全く見知らぬ土地で、タイムイズマネーでもあるから親父の話を聞いてみた。

身振り手振りで会話を試みる彼に終には根負けする形で、我々は彼の乗客となった。

「どこ行くの?」 『一番チャウシェスクらしい場所へ頼む』  「それなら300円だよ」 『まあ安いからいいか、しかし変な場所に連れて行ったら払わんぞ・・』 とかなんとか言いながらボロタクシーは汗臭いお喋り親父に案内されて、巨大な白亜の共和国宮殿の見える場所まで運んでくれた。コレまで見たどんな建物より大きなその建物に我々が驚いていると、タクシーは急に止まり、我々を降ろして「料金を払え」という。

『もうチョッとあそこに近づいてくれよ』 「ダメだ、この先は近づけない決まりだ」 『ホントか?それじゃ仕方ないな~』 「二人で600円だ」 『さっきは300円と言ったじゃないか』 「そうさ、一人が300円」 運転手はニヤニヤしながらそう言って、1,000円から400円しかお釣を渡さずに「ありがとう」を連発しながら立ち去ってしまった。最初の300円自体も30円位が相場だったかもしれない。単純な罠に引っかかってしまった・・・と二人して笑った。

『全くしょうがないな~、ヒドイ街だな~』と二人で嘆いていると、そばを歩いていた老人が英語で話しかけてくる。その老人は「これが、独裁者チャウシェスクの夢の跡じゃ、今じゃ雑草が生えっぱなしじゃがの・・」と言ってしばらく案内役をしてくれたが、勿論タダだった。さっきのタクシーの話をしたので、ブカレストの名誉挽回をしたかったのかもしれない。大学の数学教授を引退した知識人なので英語が話せたようだが、特権階級ではないもののそれなりのエリアに暮らすことが出来た人なのだろう。わざわざ日本からやって来た医師だと名乗る若者が珍しかった様で、ルーマニア情勢を色々答えてくれたが大概は忘れてしまった。

LIBERTATII大通りにある宮殿正面から眺める巨大な建物には既に一切の精気が消え去り、所々に塗料が剥がれ錆を思わせる茶色の染みが夏の日差しを浴びて輝く白い壁を汚し始めていた。半年前までは宮殿正門前に庶民が立つことなど叶わなかったに違いない。周囲の広い敷地は高い背丈の雑草に占拠され、まるで廃墟の趣きが漂っていた。振り返って東をみると、広く真っ直ぐな道路の行き着く果てはボンヤリと霞んでいた。今日ネット地図で見返すと、3km先の広場まで特権階級しか通行を許されない完全な凱旋道路だったのであろう。両側の高い並木道は青々と風に靡いていたが、真ん中に点在する噴水の多くは止まり、溜まった水は汚く澱んでいた。そこで下着姿の数人の子供達が水遊びに興じていたが、逆に彼らの人懐っこい好奇の眼に我々の方が晒された。革命直後のルーマニア人は外国人に対して非常に人懐っこい眼差しをしていたと感じる。巴里のシャンゼリゼに匹敵するそのUNIRII大通りには通行する車はほとんど無く、歩く人通りもまばらで、あたかも映画の巨大なセットの中を歩いている感じがしたものだ。

親切な数学教授と別れて我々はその日の宿泊先を目指して街の最も賑やかと言われた場所に立つインターコンチネンタルホテルを目指してBURATIANU大通りを北に進んだ。夏の日差しを避け、物珍しさも手伝って潜り込んだ地下道を歩く早稲田君の後姿の写真がたった一枚アルバムに残っていた。彼はチェックの青い長袖シャツにブルージーンズ姿でナップサックを背負っていた。早稲田君、連絡を待っているよ。

 

当時のインターコンチは首都で最高級のホテルであり、旅行会社も入りレストランもチャンとしたのがあるはずだった。ホテルは最も中心部のUniversitatll広場に面して立つ高層ホテルであったが、建物の至る所に弾痕があり、割られたショーウインドウには何枚ものベニヤ板が張られ、開けっ放しの玄関を通ってロビーに入っても電灯が点いてなくて暗い雰囲気だった。周辺の建物も似たような有様で、途中で戦車や銃を構える兵士を何度も見かけていたせいもあって怖いという程ではないが異様な感じが迫ってきた。そこでは結局美味しい食事にもありつけず、早稲田君と私はブカレストに宿泊を諦め今夜は夜汽車に乗り込んで国外脱出を図る事にした。

 

学生の早稲田君と違って私は大学病院勤務医。後4日後にはアムステルダムに戻らないと帰国便のチケットが無駄になる。その前の年、ロンドンからパリに渡る時飛行機が遅れて乗り継げずに25万円の片道チケットを購入して涙を流した痛い経験があったので、2年連続のドジはなんとしても避けたかった。早稲田君はブルガリアに入ってユーゴスラビアに抜けたいと言った。羨ましかったが、私には時間が無い。飛行機でチェコかポーランドに一旦入りオランダに向おうかと考え、ロビー内の開店休業みたいな旅行会社にチケットを頼んでみたら、「政情不安で空港はほとんど運休していて予約など受け付けていない・・」と、信じられない返事だった。

結局、トーマスクックの時刻表を睨んで今夜出発の夜行列車でハンガリーを経由してウイーンに出ようと考えて、二人で歩きながら駅に向った。今思えば、RomaniaにはRoma遺跡が沢山あるみたいだったのでユックリ観光を楽しめばよかったのだが、戦車や兵士や弾痕だらけのビルやボヘミアン的風情の市民たちしか目に付かず、狭い路地裏をスーツケース引きずりながら歩きまわった。しかし、戦車の周りの兵士達の眼は優しく、一緒に写真に納まってくれたし、街角の太ったおばさんたちも私の肩に手を回してフレンドリーに写真に納まってくれた。でも、コマネチがデブになる素質充分だと感じて萎えてしまった・・・こうして、二度とタクシーにも乗らず、我々は街をぐるっと一回りして再び朝来た北駅に戻って行った。チケット売り場は大混雑であったが、何故かハンガリーと異なり意外とスムーズに進んだ。

私の夜汽車は何と19:35発のORIENT EXPRESS号という名前だった。決して冗談ではなく、当時のタイムテーブルがアルバムに残っておりチャンと確認した。有名なオリエントエクスプレスと同名だし、終着は翌々日の早朝のパリだったが、毎日運行の薄汚れた国際列車だったので、絶対に別モノのハズである。ウイーンまで2,000円もしなかったと記憶している。でも、最近調べていて再認識して驚いた、俺はORIENT EXPRESS号に乗ったことがあるんだぞ・・・と。早稲田君もほぼ同時刻のソフィア行き列車のチケットを買った。

我々の出発時刻にはまだまだ2時間ほどあり、朝から何にも食べるものを見つけなかった我々は駅周辺に食べ物探しに出かけた。駅にも売店は見つけられなかったのだ。500m程東にはなれた場所に小さなレストランを見つけて、夜汽車に持ち込む食料が調達できそうも無かったので、不味いながらも二人でお腹に詰め込んだ。コレでやっと一息つけた私達は、朝8:15分に到着してからの事と、今後の計画などを時間が許す限り話し合った。しかし、連絡先を聞くのを忘れた。まさか、半日で分かれて別の国に旅立つとは思ってなかったのだ。

出発まであと30分、我々はレストランを出て駅に向った。途中、露天があり5円くらいでピンク色の飲み物を売っていた。明日の朝まで何にも飲めないかも知れず飲み始めたが、炭酸も砂糖も入っていない生ぬるい色つき水だった。ビンもロクに洗わず使いまわししているみたいで、いかにも不潔そうだった。そしたら早稲田君が「ルーマニアでは今赤痢が流行っているから飲み水に気をつけろと聞いてました・・」と言う。もっと早く言えよ早稲田君・・と叫んだが、幸運にも下痢や発熱に悩まされる事は無かった。

そうして、我々はお互いの無事を祈りつつ別の夜行列車にそれぞれ乗り込んだ。その後に波乱の出来事が私を待ち構えている事など全く想像もせず・・・ これについては、後ほど書き残したい。

 

読んでくれてどうもありがとう。

固定リンク | コメント (0)