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2006.12.19 18:05 |  映画 / 音楽 / 読書  |  murajun  | 推薦数 : 0

Le Petit Prince

この前の日曜日、朝から寒々とした冬空で雨や雷や霰模様の悪天候だった。上の娘は早朝から「部活動」に出かけ夕方5時半まで帰らないという。妻は午後に友人と「能」の観劇を勝手に予定し、下の娘と私が残された。下の娘は先日作ったガラス皿が気に入ってまた作りに行きたいという。まあ、いいか・・と言って@@民芸村に出かけた。途中は強風で、海沿いの都市高速の上では幌屋根が揺さぶられる程であった。出かける前に、妻が娘に一冊の本を渡していた。ちゃんと振り仮名を打ってあるので車の中で読みなさい・・と言って送り出されたのだが、20ページ位であっさりと眠ってしまった。

ヤマの中にある@@民芸村は近づくと周辺の山頂は雪景色だった。ちょうど一時間で駐車場に着くと、車のフロントガラスに雪が積もっていた。お客さんは元々少ないが、なんとその日の入場料は無料だったにもかかわらず当日は更に少なかった。これで本当に成り立つのか?と要らぬ心配をしてしまう。ただ、働いている人たちは暖かく迎えてくれた。まだ、一ヶ月だから当然私達を覚えていてくれた。

上の娘を迎えに行くのも私の仕事なので、4時までの2時間半に「大皿と中皿、ステンドグラスの鏡」が娘の希望だった。ギリギリだが、作業に馴れたので可能と自信をもっていたが、ガラス皿に手間取り3時を過ぎてしまった。そこへ、上の娘から予期せぬ電話。予定より二時間も早い電話で何事か?と思ったが、部活で早期敗退し解散になったから迎えに来て欲しいとのこと。結局、ステンドグラスは諦めて帰宅の途についた。帰りは雪はずっと続いたが積もるまでにはならなかった。が、早く帰って正解だった気がする。

で、私は何をしていたか?と言うと、FMから流れるユーミンと山下達郎まりあ夫妻の番組を聴きながら、子供に妻が渡していた「星の王子さま」を読んでいたのであった。1943年にフランス人のSaint=Exuperyによって書かれたこの物語を私は恥ずかしながら読んだことは無かった。勿論、題名くらいは知っていたし、挿絵にも見覚えはあった。最初の前書きを見ると、「大人に捧げた・・」と書いてあったし、娘と後で本の感想を述べ合いたかった。良い父親だと思う・・・?

 

内容は、ものすごく感動した。今まで読んだ事無かったのか?と、多くの方のお叱りを受けそうだが、子供のころからマセガキだったので、多読だったのに「子供向け本」は読まなかったのだ。しかし、読後感は「大人向けの教訓本だな」と思った。きっと、10歳の娘は良く理解できないだろう、けど読ませたい本である。

さて、ローマの休日、カサブランカなど映画の名作が次々に著作権切れで500円DVDが出てきている。ヤフー動画にもヒッチコックなどの名作が無料で沢山登場し、時間があれば古きよき時代の映画を楽しんでいる。本にも著作権期間が当然あって、この本もネットで全文が読めるようだ。また、新訳本が次々に出版されている。しかし、「星の王子さま」というタイトルは最初の翻訳者の発案らしい。素晴らしいタイトルだ。私もかつて「白馬の王子さま」と言われた時代があったけど、今の姿からは誰も信用してくれない・・・残念。

5000万冊も世界中で読まれているらしいが、新訳本のお陰で今後もドンドン発行されていく事だろう。「美しい国」の建設のためには官僚や政治家達に読み返してもらいたい本だと思う。「漫画は日本の文化」とか言わずに「世界の名作」を読む習慣と余裕を現代の子供達には与えたい。

 

この中でキツネと王子が友達になる場面。下に本文をコピペしておくが、とっても思い当たる場面がお気に入りの映画の中にあったことを思い出した。馬と人間の心の交流を描いた作品、「モンタナの風に吹かれて」。これも原題とは全く異なった名訳タイトルだと思う。  

結局、上の娘の迎えが二時間近く遅くなってしまった、ご免。 

 

読んでくれてどうもありがとう。 

 

以下、お気に入りの場面の抜粋コピペ 

キツネはだまったまま、しばらくの間、王子さまの顔をじっと見ていました。「たのむ……おれと仲よくしてくれよ」と、キツネがいいました。
「そうしたいよ。でも、ぼくにはあまりひまがないんだ。友だちを見つけなけりゃならないし、知らなきゃならないことも、山ほどあるんだもの」と、王子さまは答えました。
すると、キツネは、こういいました。「あんたが知らなきゃならんことって、ただ一つ、仲よくすることさ。人間どもはな、なにか知りたくても、ひまがないのさ。ほしいものも、スーパーマーケットでできあいのものばかり買ってる始末よ。けど、人間を売ってるスーパーマーケットなんか、世界中どこをさがしてもありゃしないから、あいつら、もう友だちなんか持ってやしないよ。あんた、もし友だちがほしいのなら、このおれとほんきで仲よくすることだな!」
「で、ぼく、どうすればいいの?」と、王子さまはキツネにききました。
キツネが答えました。「とにかく、がまんすることだな。さしあたりこのおれから少しはなれて、むこうにある草の中にすわるんだ。おれは、あんたを横目でみている。あんたはなんにもいわない。ものをいえば誤解のもとになるからな。けれど、日がたつにつれて、あんたは、だんだんとおれに近いところへきて、すわるようになるんだ……」

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2006.12.19 10:05 |  医療制度 / 行政  |  murajun  | 推薦数 : 1

介護の「切り札」が赤字?

昨夜のNHK8時からの認知症介護特集。

介護員や家族の孤立をテーマに、低い介護報酬の問題も含めて報道されていた。既存の施設介護、通所介護の問題点を示し、その解決の切り札として「小規模多機能施設」を取り上げ、宣伝していた。現在全国に300ある施設を10,000にする予定だと言う。当院の近所にも今夏開設されたが、テレビでは全19人の利用者にスタッフ21人、宿泊2人にスタッフ2人。だから手厚い行き届いた介護が可能で今後の認知紹介後の切り札となる・・・との内容であった。

確かに手厚い介護で素晴らしい。が、しかし、「問題点は赤字なんです。法人内の他の黒字分で補っています。」と来た。なんだ?これは・・・ 介護報酬を下げに下げ、介護労働者の賃金の低迷を招き、就労定着率が極端に低いボランティア的労働で「切り札の赤字施設」を全国にドンドン建設する。何かおかしくありませんか?

多分、特別養護老人ホームの代わりには充分なんでしょうが、「切り札」というものが構造的赤字体質だと問題山積のままですね。

やはり、本間会長たち「特権さん」には無縁の世界なんでしょう。特権さんの場合の老人介護はドウなんでしょうか?きっと「特権的手厚い介護」が保障されているんでしょうね、都内一等地で・・ でも、税金セレブの本間会長も自民党幹部の一斉コールでそろそろ「終わり」みたいで、弟子の竹中さんの足を引っ張り出す日も近かろう・・と推測しています。

安倍さんが一人で擁護していますが、他に頼れる経済ブレーンが居ないんでしょうか?これで、早くしないとまたまた支持率が下がります。いよいよ北朝鮮頼みになりますよ・・・

 

読んでくれてどうもありがとう。

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2006.12.19 01:27 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 0

1989.12.18. Romania

激動の東欧革命がクライマックスを迎えようとしていた。

東西ドイツを隔てるベルリンの壁崩壊の日を過ぎて、いよいよ東欧共産主義諸国を揺さぶる政治的嵐は最期の独裁者チャウシェスク大統領を目掛けて吹き始めた。ちょうど現代の北朝鮮を思わせる暗い沈黙の中の指導者の姿は絶対に揺ぎ無いものに思われていた、ホンの少し前までは・・・

チャウシェスク大統領は、ベルリンの壁崩壊の一週間後の1989年11月17日にハンガリーとの国境を封鎖した。西隣に接するハンガリーは一足先に急速に自由陣営に変容し始めていたのだ。さらに、ルーマニア中央部のカルパチア山脈以西の地は、ハンガリーと民族的にも文化的にも一体と言えるほどかなり似通っており、変革の波は容易に国境を越えて入ってくると独裁者は恐れたに違いない。北朝鮮と中国の境とは異なり、ハンガリーとの長い国境線には防波する大河もなく、広々とした大平原が広がっていたのだ。案の定、最初の反政府的デモや暴動はハンガリー国境に近いTimisoaraで起こり、多数の死者が出た。それが、12月18日のことであり、それを契機にルーマニア国内の革命の炎は燃え盛り、首都Bucurestiに一気に進んで行ったのである。

 

ちょうどこの頃から世界中に東欧の奥の奥ルーマニアの現状が世界中に報道され始めたのである。連日のようにテレビはルーマニア革命の推移を報道した。生々しい市街戦、むごたらしい死体、共産党本部になだれ込む群衆、戦車の上でVサインをする若者達。新政権樹立の興奮。テレビは野次で演説を中断された大統領の一瞬の表情をもとらえて我々を「革命の現場」に立ち合わせた。それは、フセインのイラクへ攻め入るアメリカ軍を報道するテレビとは緊張感がまるで異なっていた。死んでいき傷つく人々の姿が見える、政治的力関係のバランスが一気に変化する姿が見える、などの点でイラクやアフガン戦争よりも遥かに生々しい。天安門事件を思い起こさせるが、政府転覆のなかった天安門は「革命」とは呼び難い。

当時の日本人にとっては、妖精ナディア コマネチ以外に報道で知るルーマニアは無かった。連日のうんざりするほどのマスコミ報道で、北朝鮮の事を我々は相当知っているのだが、感覚的に言うと「ブータンで金正日が独裁してるらしい・・」くらいの「遠くて神秘的な政治的秘境」であった。しかし、相当に独裁の完成した国であったのだろう、最期は血に塗られたクリスマスを迎えることになったのである。

反政府デモはたちまち全国に拡大。ソ連も米国もチャウシェスク政権を批判し、勝敗の流れは大きく傾いた。21日にはBucurestiでの大規模デモを強制鎮圧して多数の死者が出たが、市民の叫びは兵士をも動かし、22日朝には軍兵士の大半が市民側につき、チャウシェスク大統領夫妻は逃亡をはかった。

 

そして、夕刻に夫妻は逮捕され、クリスマスの25日に裁判で死刑を宣告され直ちに夫妻は銃殺されたのである。何度も繰り返し放送されメディアを埋め尽くした夫妻の銃殺時のむごたらしい姿は眼に焼きついてはなれない。フセイン大統領の逮捕劇とは全く様相を異にする独裁者の最期であった。たった一週間のうちに全てが変わり、独裁者は去っていった。

しかし、ルーマニア国内の銃撃戦は断続的に更に一年間続く。1990年の初夏、少し平静を取り戻し始めたルーマニアは「今、日本人が行って最も衝撃を受ける国」として旅行雑誌に紹介された。と同時に、政治誌には、「東欧が歩み始めた歴史的な民主化への道は、ますます険しくなっている。各国の新政権は暴動や政治的内部抗争に悩まされ、国民の幻滅感はつのり、改革のプロセスそのものが危険に晒されている。」とある。

人々が「第二次革命」を求めていた1990年の夏、私は刺激を求め好奇心を満たすためにハンガリーから夜汽車でルーマニアに向ったのだった。知らないと言う事は怖いことだが、何故か引き寄せられるように感じた。この頃の私は、医師の仕事よりも「世界の出来事」の方に興味を引かれていた・・・

このルーマニアの旅は後に書き残したい。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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