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Doctors Blog

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2006.11.10 22:27 |  開業 / 病院経営  |  murajun  | 推薦数 : 3

情けないレセプト集計

開業して既に8年以上経過したが、チットモ楽にならない。今日は、このブログ開始後の初のレセプト集計日だった。しかし、働けど働けど収入が増えなくなってしまった。

世間ではイザナギ景気を超えたコイズミ景気らしいが、我が診療所には景気のいい話は何~んにも無い。もっとも、ここいら辺の「地方」では格差が下のほうにしかブレないので、開業医も贅沢は言っておられない。

この格差問題というもの、「頑張った人にご褒美を上げるので歓迎」の向きも東京にはあるらしいが、こと地方格差の問題に関しては、自分がいくら頑張っても現代の地方は決して浮かばれない仕組みになってしまっている。どこぞの学者が、「地方人の甘えだ、都会に出てくる自由があるのに出て来ないのが悪い」などと助教授の分際で政府の御用学者然とノタマッテイルが、「ウルサイ」と言いたい。こっちは、東京が江戸と呼ばれる前の沼地だった頃から今の場所にずっと住んでいるんだ、簡単に移れるか。

といったツマラナイ東京への嫉妬はさておき、

この一年のうち、実に8ヶ月で収入が前年同月比割れしてしまった。4月以降は大幅な診療報酬改定が響いたが、3月までは長期処方化と必要な検査の手控えが大きく響いたようだ。収入は約1%減だが、患者数は約13%増加していた。つまり、非常に忙しくなったが収入は少し減ったわけだ。何とかこの1%は経費削減で相殺してはいるが、職員の保険料負担増加分までは追いつかなく、実質マイナスである。しかし、医療法人の内部留保は今後馬鹿馬鹿しくなるらしいので残らなくても惜しくはないが・・・ウソ、悲しい。

忙しかったので長期処方に当方から振り替えた事と、手一杯で検査をやる時間が減ったので単価が減ったことが大きな影響だったと考えている。つまり、「雑な診療」になったので、患者さんには申し訳なく恐縮している。しかし、考えてみると院長一人が忙しすぎるのを回避しようとした結果の収入マイナスなので、コントロールの術を持たない職員にも申し訳ないと思っている。

昨年までは、レセプト集計が毎月楽しみであった。頑張れば何とか収入も増えて、職員の給与も無理なく増額出来ていた。今は、職員の給与を来年以降増やせるのか、リストラが必要になってくるのか非常にストレスになってきている。レセプト集計は事務スタッフには完全オープンであり、最近の彼女らは毎月私に申し訳ないという顔をしながら集計結果を報告してくれる。多分、経営が伸びてない事は職員全員が共通認識としてあると思うが、職員の家族や家庭の事が浮かんでくるので少しでも増やしてあげたいと願っている

勤務医から開業医になったら経済的に恵まれるだろう・・・と思っている人も少なくないだろうが、ここ数年は決してそうではない。私の場合、資本投下分の全額回収は生涯出来ないかも・・・と半ば諦めている。古びた建物売れない土地が残るだろう。親からの援助分を回収出来なくても仕方ないや・・位の気持ちで向かわないと、営利主義的な開業医に陥ってしまうと思うだろうと思う。大多数の患者に尊敬されつつ経済的にもゆとりのある開業医をやるのは難しい。尊敬されなくてもいいなら幾らでもやれると思うが・・

 

読んでくれてどうもありがとう。

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2006.11.10 13:48 |  趣味  |  murajun  | 推薦数 : 0

コイの重い病

我が家に鯉がやって来た。正確に言うと、再び増えてきて賑やかになって来たのだ。今年の夏頃に、急に庭の泉水の鯉達がアップアップしだして動かなくなり、毎日数匹ずつ浮かんでしまった。朝起きると、前の日に元気そうに見えた鯉まで死んでしまっており、当時の父は何とも悲しそうであった。 

我が家に鯉が初めてやって来て既に40年になる。二つあった泉水は20年前に一つを埋めて芝生の庭にした。今は、デイサービスのお年寄りが散策出来る様にしている。しかし、ボケ老人の中には帰宅願望が強く脱走を試みる人もたまに居るので、設えたデッキから眺めてもらうだけの日が殆どだ。開設の際の希望は中々上手く行かないものだ。

 

鯉達には、逃げ場がない。獣医さんもいないし、病気に対しては外敵が少ないだけに無防備に近く、免疫系も発達は少なかろう。庭の手入れで消毒薬が混入するリスクは庭師もベテランだけに充分考慮している。付き合いのある鯉屋さんが「他所でも死んでるので、長梅雨で天候不純のせいだろう。地球温暖化の影響だ。」という声もあったが、この40年 天候のせいで死んだと思われた経験は無いし、絶対に違うと医師の眼には思えた。

10匹近く死んだり死にそうになった時点で、医師の私は決断した。薬局などをあちこち探して、試供品や期限切れや処方後に使用せず余っている抗ウイルス剤を集めて、粉にして池に撒いた。日に数回池に撒いてはみたが、泉水は常に酸素補給のために水を流しており、人ヘルペス用の高価な薬が鯉ヘルペスに効くかは知らない。母は「効くはず無いよ・・」と言いながら協力してくれたが、それでも毎日数匹ずつ死んで行き、とうとう3匹まで減ってしまった。池自体が死んでしまったかのように感じられた。人用の抗ウイルス剤は結果的には全く効いた感じはしない。やはり、ヘルペスではなく違う原因だったのだろうか?

それから三月ほど、生き残った3匹は元気に泳ぎ続けた。生き物が死ぬと何となく悲しくもあり、罪悪感もあり、原因が判らぬ不安もあって、家族としては当分鯉を飼うのは止めておこうと思っていたが、鯉屋さんが5匹程持って突然やって来た。自分のところも沢山死んだ。お客さんのところでも彼方此方で死んだ。多分、なんかの病気だったのだろう・・ 実は、我が家の鯉が死に始める数日前に数匹の鯉を父がそこから買っていたようだ。鯉屋さんは申し訳なかったのだろう。

河などで魚が大量死しなかったので特に報道もされず、誰もヘルペスという言葉を口にする人も居なかったが、多分コイヘルペスであったと思う。それ以外には、私の知識ではありえない話だ。保健所に調査を持ち込む気持ちはサラサラ無かった。お役人の行動はあまり生産的でなく、無駄に書類の山を築くだけだ。

先日から父がまた鯉を買い始めた。小さいのが多いが、安いのばかり15匹を超えた。まだまだ、惨事の前の30匹には程遠いが、「今度は大きいのを2~3匹買おう、高くなくていからヤッパリ大きいのがおらんとね・・・」と80歳にならんとする父の表情も明るくなってきた。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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2006.11.10 01:14 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 1

1989年11月10日未明 ベルリン

17年前の今日、11月10日未明ベルリンの壁が崩壊した時である。実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和が発表され、なし崩し的に東西の往来が可能になった日であり、誰かが銃撃を恐れず壁にハンマーを打ち下ろした世界史に残る記念すべき時であるが、翌年10月3日が正式の東西統一の日である。

私は、ベルリンの壁が崩壊した頃、北九州のある総合病院にいた。当時の日本は、バブルで浮かれた医師達も銀行の斡旋融資にのってゴルフ場の会員権やマンションを次々に購入し、あからさまに値上がりを期待し、秋にはボジョレーヌーボーにも大枚を叩いていた時期でもあった。同僚や先輩達はあの借金を今頃どうしているのだろう?未だに悔やみながら返し続けている人も居るかもしれない。私は、あまりバブル的なモノには興味は無かったし、むしろTVに映る東欧の混乱や崩壊過程に心惹かれていた。

 

8月にはハンガリー、9月にはチェコ、10月には東ドイツでホーネッカーが辞任した。しかし、11月の壁崩壊には正直驚いた。多分、生中継で一番最初の瞬間は見ていないが、心の中にはあの頃の一連の映像がしっかり記憶されている。毎日がドキドキだった。それは、イラク戦争やアフガニスタンの映像とは全く異質で、不安より希望や同情や好奇心が支配する歴史的ドラマであった。

現代の若い医師には信じられないかもしれないが、私はその病院にほぼ毎日住みこんでいた。医師になって五年目で自信過剰になりかかる危険な年齢で、その救急総合病院では専門の循環器だけをやっとけば良い身分ではあったが、ひたすら医局に7ヶ月間、土日で当直が無い限り、基本的には医局の仮眠用のベッドに泊り続けた。毎晩、他の誰かが数名当直をしているので、小児科であろうと外科であろうと脳外科であろうと、夜間の救急には手伝いというか見学というか、喜んで飛んでいった。勉強熱心というのが表向きの理由で、本当の理由は病院官舎が感謝するほどには住み心地がよくなかったのと、オペ着を着替えるのが面倒だったからだ、というのは冗談です。やはり、実地研修を真剣に考えていたから他科の医師から臨床を吸収するのに住み込みは最適と考えたからだし、いずれ留学する前に臨床の経験をつめるだけ積みたかったからだった。

前置きはこのくらいにして、その頃の心境などを忘れないうちに書き残したい。私は、バブルの日本で患者だけの事を考えて時間を過ごしていていいものか?と疑問を常に抱いていた。

特に、その後の12月16日から25日にかけて起こったルーマニアでのチャウシェスク政権の崩壊と夫妻の処刑の映像は生々しく、暖かな病院内に患者相手にじっとしていられない感覚を抱かせた。ぜひ、歴史の舞台をこの眼で見たいと強く願っていた。翌4月に大学へ戻り、勤務医の特権である2週間の夏休みに、東西統一目前のベルリンに行くことにした。

ベルリンへの最短コースとして、8月21日にKLMでアムステルダムに渡り、KLMの小型プロペラ機でハノーバーへ、そしてやはりプロペラのBAで西ベルリンへ飛んだ。しかし、早速荷物が出てこない。医者のクセしてドイツ語は苦手だったので、大した荷物は入っていなかったが大いに困った。しかし、一番困ったのは私の明日以降の連絡先だった。私の旅行はたとえ外国であろうと宿は数日前にしか決めないことが多い。天気や雰囲気で行き先をクルクル変更する風来坊スタイルだ。このときも東欧の事は殆ど書いていない「地球の歩き方」と、Thomas Cook European Time Table しか持ってなくて飛び出してしまい、ホテルも西ベルリンのGrand Hotel Esplanada Berlin という超高級ホテルに、たった一泊だけしか予約していなかった。判ったらホテルに連絡を・・といってホテルに向かったが、荷物はどこ行ったか判らない。国内線を含め3回乗り継ぎしてるのでアフリカあたりに行ってるかもしれず、翌日までにホテルに届くか否か全く期待出来なかった。

それで、ホテルに着いてまずやったことは連泊依頼で、当時300マルクもした高級ホテルだったので計画はスタートからおかしくなった。ちなみに、このホテルの浴室には室内プールと立派なサウナが付随しており、奇妙な事にサウナは男女両方からの利用が可能で、うら若き女性が2人入っていて、バスタオルの巻き方がルーズで奥までハッキリ見えるので、私は眼のやり場に困ってあと少しで茹で上がってしまいそうだった。今思えば、あれは客ではなく、コールガールだったのでは?と思う。でなきゃ、不自然だ。ま、そんな事はどうでもいいが・・・

先々のお金に不安が出たので、あまりタクシーなどは使えず、TVで何度も見た例のブランデンブルグ門まで歩きに歩いた。一応穴の開いた壁も少しばかり叩き割ろうとしたが簡単には割れず、お土産として買う事にしたが、西側は色合いが妙にワザとらしく、目の前に本物の壁があるにも関わらず偽物かも・・と疑念を持ったほどだ。一応、まだ東ドイツだったのだが国境はフリーパスで、Checkpoint Charlieを探して通ろうとしたが、残念ながら場所がよく判らなかったので諦めた。またまた歩いて、リンデン通り、国会、駅、ペルガモン博物館、丸いテレビ塔などキョロキョロ眺めながら一人うろついた。いまだに東西ベルリンの雰囲気の違いは明らかであったが、全てを観念して受け入れた安らかさを、東側の街並みや人々の顔に感じることも出来た。

もう一つの目的は東欧諸国のビザの取得だった。洗練されたベルリンは東欧とは感じ難く、当初から長居は無用と思っていたので、東ベルリンにある東欧諸国公館で、まずチェコのビザを取ろうとしたが直ぐに発行は無理だった。ハンガリールーマニアも直ぐにビザの発行は不可能で、最も確実なのはハンガリーに空路入り、空港で一回ビザを発行してもらう事だった。

結局、私のスーツケースは翌日にはホテルに届けられたので、ベルリンを充分に歩き回った後、今度は贅沢にもベンツのタクシーで東ベルリンの侘しいSchonefeld空港へ行き、ハンガリーのMALEV航空でBudapestにノービザで入ったのだが、この事が数日後に大事件を引き起こす事になるとは、その時まだ私は知るヨシも無かった。この後のことは、またいつか書いてみたい。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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