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2006.11.03 18:20 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 0

法然院 My Favorite

全国一斉に行楽シーズンに突入して賑やかであるが、妻が実の父親と京都に旅をしたいと、明日から二人で出かけていく。

「11月1日から5日まで京都御所の一般公開をやってるよ、家族で行こうか?」といったら、あいにく娘の文化祭。「残念だね、でもお父さんを誘って京都でも行ってきたら?」って何となく奨めたら、急に乗り気になった妻は、多分生れて初めての父親との二人旅をする決心をしたようだ。私の両親が今でも海外旅行に出かけていくので、今のうちに「親孝行」をしたいと感じ出したのであろう。80歳を迎える彼女の父親も現役の医師であるが、今まで仕事一筋で海外旅行をしたことが無い。まだボケ症状は見られないが、何度か病気もして決して完璧な体調ではないはずだ。また私が知る限り、この10年間に泊りがけ(といっても一泊だが)で旅行した事は、多くても5回位しかないはずだ。いい事だと思ったので、子供の面倒は自分で見ることにして気持ちよく送り出してやろうと思う。ピークシーズンであったが、幸いにも素敵なホテルも予約出来たので幸いだった。義父にとっての一年間は重要なハズだから・・・

二日間のスケジュールは私が立ててあげた。特別公開のものを中心に、私の好みも織り交ぜながら観光ガイドタクシーにも負けないプランになったと自負している。ただ、暖かいので全く紅葉は期待できそうも無いので、義父が望んだ高雄方面は外れる事になった。

その中で、11月1日から7日まで特別公開されている「法然院」だけは、妻にも見せておきたかった。といっても、今年既に彼女は訪れた事があり、初めてではない。ただ、除夜の鐘を突かせてもらいに家族全員で大晦日に出かけていったので、彼女は昼間の姿を全く知らないというわけだ。この法然院は、私が京都に行くたびについつい行ってしまう My Favorite 寺院である。20歳頃からのお気に入りであるから、結構永~い。元々は単に雰囲気や佇まいやロケーションなどに引かれて静かな時間を求めに行っていたのだが、ここ数年は梶田貫主のお人柄や考え方に惹かれるようになった。

我が家の宗派は浄土宗で、知恩院が総本山。法然さんが宗祖であり法然院も身近に感じてきたのは確かだ。しかし、私は法然の教えをよ良く知らないバチ当たり者でもある。ただ、梶田師の生き様はとても素敵だと思う。お話した事も無ければ、檀家でもないが、京都のFM放送のポッドキャスティングで遠くにいながらでも身近に感じられる。いい時代になったものだと思う。

 

妻には、墓所をよく見ておいで・・と言った。谷崎潤一郎の墓を見て来いと言ったわけではない。俺が予想外に早く死んだら、梶田さんに頼み込んで法然院の墓所に俺の墓を建てさせてもらうよう懇願するため下見をしておいで・・・という切ない気持ちからだった(チョッと早すぎか・・)。私自身も死ぬ前に、梶田さんの言葉にもっと触れ、法然院の空気を自然に吸えるように心を磨いていきたいと思う。そのための最短距離はやはり、日々の診療の場面で患者さんを精神誠意診察していく事だろうと考えている。

 

 

読んでくれてどうもありがとう。

  

梶田真章  法然院 貫主
1956年、浄土宗大本山金戒光明寺の塔頭寺院に生まれる。哲学の道に近く、境内には樹木がうっそうと茂る法然院は、作家の谷崎潤一郎ら多くの文化人が眠る寺としても知られる単立寺院。325年の伝統を持つ古刹を、先代貫主だった父親の橋本峰雄師の死去に伴い、27歳の若さで継いだ。境内の豊かないのちの営みを生かした環境学習活動「森の教室」のほか、芸術家の発表など市民の出会いの場として伽藍(がらん)を開放、寺院の可能性を追求している。

 

以下、梶田さんの講演記事からコピペ 

◆日本人の宗教心 

日本の仏教を真実の意味で「葬式仏教」にするという先代の方針に沿って1984年から法然院を預かっています。元来の葬式仏教は誇るべきもので、高度経済成長期までは日本人の宗教心を培ってきました。葬式仏教を民俗学者は「先祖教」と呼んでいます。それが時代に合わなくなって来ているのを踏まえ、話を進めたいと思います。

日本には現在、7万5000の寺があります。なぜそんなにたくさんあるのかといえば葬式と法事をしてきたからです。寺の基盤を維持するには檀家との関係が大切でした。檀家という維持基盤を生かして、それ以外の人とも付き合い、縁を結ぶ。これが大事なことと思い、寺を預かってきました。

日本人の中には「自分は無宗教」と言う人が多いようですが、日本人に決して宗教心がないわけではありません。お盆や彼岸になると墓参りに出掛け、正月には初詣でのため神社がにぎわいます。

先祖教による宗教心を培ってきたにもかかわらず、明治時代以降、キリスト教や仏教のように特定の神仏を信仰するのが「宗教」だと思い込まされたため、日本人は「自分は無宗教」だと言うようになりました。 日本でお寺が一番多く建てられたのは戦国時代から江戸初期にかけてです。室町時代には農業の生産力も上がって、一時的に飢饉があっても、村は存続できるようになりました。こうして村で死んだ人を村全体で弔うという宗教がおこりました。

大きな本山は別ですが、小さな寺は最初から浄土真宗や日蓮宗の教えを広めようといった形で建ったのではありません。葬式、法事を行ってきたのが寺の歴史で、先祖教の儀式の場を寺が担ってきたのです。

◆先祖教の特色 

先祖教には4つの特色があると、民俗学者の柳田国男さんはまとめています。1つは、故人は子孫にまつられることによってご先祖さまになるということ。2つ目はこの世とあの世の交流が自由であること。特にお盆と正月は重要で、七夕も大事なお盆の行事。3つ目は臨終の際、子孫のための願いが死後に必ず達成されると考えられたこと。最後は死んでも2度、3度と生まれ変わり、同じ事業を続けることができると信じられたことです。

先祖といっても、今は各家の先祖を意味するようになっています。これは家に仏壇を置くようになった江戸中期からです。当初は村で死んだ人を村全体の先祖としていましたが、先祖という観念がやせ細ってきたのです。

僧侶は、先祖を超えた三界万霊を常に意識し、全精霊の成仏を祈ってきました。故人の何回忌をしても、それだけは先祖教であって仏教ではありません。仏教は一切の生きとし生けるものの成仏を祈って儀式を行います。皆様方の意識の中では先祖教だけれども、仏教の精神をちょっと儀式の中に入れているのです。先祖だけを拝んでいるのか、一切の生きとし生けるものの救済を祈っているのか、そこが先祖教と仏教の分かれ目です。

仏教について 

お釈迦様の悟りを漢字2文字でかけば「縁起」、1文字なら「空」と私は答えます。お釈迦様の教えの中には「一切皆苦」というものがあります。「苦」を私は「自分の思うままにならないこと」と解釈しています。私の人生は自分で決めているようで、実は、みんなで決めているのです。

思い通りにはならず、生きていくのに悩み苦しむのは当たり前で、お釈迦様は苦しみたくなかったら「我にこだわるな」ということを言っておられます。そんなことを言っても煩悩を断てない人もいます。「ありのままに生きれば、いいじゃないか」と言ったのが法然、親鸞なのです。

仏陀への道 

悟りへの道には各宗派の教えがあって「自力で修行して悟れ」という宗派と、「信心によって仏の力で成仏させて頂く」他力の教えがあります。仏教で言う他力は仏さんの力。その考え方の代表が法然、親鸞です。さらに、どのようにして悟るのか、自力か他力か、この世かあの世か。この組み合わせでいろんな宗派が生まれてきました。

だから、法然についていくのか、空海についていくのかは自分で決めてもらわないといけない。お釈迦さまが悟りを説いたけれど、悟る方法はいろんな時代のお坊さんがこんな方法があるんじゃないかと考えてきました。

これまで、各宗派の違いについてあまり関心は持たれず、とにかく葬式ができたら、法然でも空海でもどちらでもいいという感じでした。そういう宗教心で、日本人は高度経済成長期まで満足してきましたが、その後、先祖教の力が非常に弱くなりました。

例えば、日本人にとって大事な言葉に「ふるさと」があります。先祖教では、ふるさとは先祖と私がつながって生きていると実感できる場所としてはっきりしていました。

墓参りの際に手向ける水は「ふるさと」のシンボルです。しかし、高度経済成長で親子がばらばらに住むようになると、どこに行ったら先祖とつながっているのかはっきりしなくなりました。ふるさとが急速に失われたのです。

これまで各宗派のお寺は仏教を説いて来なかった。皆さんの中にもお寺という場所がお釈迦さまや法然、親鸞、日蓮、道元らの教えを聞きに行く場所だという気持ちがあまりなかったし、お寺の方も答えていく習慣がありませんでした。

高度経済成長期以降、先祖教で満足できない人たちへの対応が、寺として遅れてきたことが浮き彫りになってきたと思います。今、寺はそういう人たちに、どんなメッセージを発信していけるのか問われていると思います。

法然・親鸞の人間観 

そこで、せっかく法然院から来ているので、法然と親鸞が説いた悟りへの道を少し紹介してみたいと思います。

まず、法然と親鸞はどのように人間を見たか。人はすぐ、あの人はいい人だ、悪い人だとレッテルを張ります。法然、親鸞は人間はみんな凡夫であって、自由意志で修行を積んで悟りを開くことはできない、自力では悟れないと考えました。

なぜなら、縁によって悪くなったり、良くなったりするから、その人が良いか悪いかは、その人が出会う人や物によってコロコロと変わると考えました。法然は言います。「われらが往生は、ゆめゆめ、わが身のよしあしきにはより候まじ。ひとえに仏の御ちからにばかりにて候べきなり」

極楽往生に私の善悪は関係がないということです。これは平安時代にはとんでもない考えでした。従来の仏教では良いことをした人が極楽に行き、悪いことをした人は地獄に行くと教えていましたが、平安末期の法然は、良いことをしなくても阿弥陀仏の本願を信じ、「南無阿弥陀仏」と唱えさえすれば、どんな人間でも往生できると言ったのです。さらに「往生は一定と思えば、一定なり。不定と思えば、不定なり」とも説きました。これは極楽に往けるかどうかは、あなたの信心が決めるという意味です。阿弥陀様に「私をよろしくお願いします」と任せるという意味です。

一方、親鸞は「南無阿弥陀仏は感謝なんだ」と言いました。阿弥陀様に任せ、救われることが決まって、有り難うございますという感謝を表現しなさいと説きました。「どうぞよろしくお願いします」というのが法然、「どうもありがとうございます」というのが親鸞なんです。

仏様になるには、いろんな道がある。どれが正しいということではなく、自分の宗教的素質や能力を自分で見極めて選ぶことに各宗派が存在する意味があるのです。各宗派の教えは、皆様方の新たな「ふるさと」となれるでしょうか。

現代における法然院の役割について 

法然院では私が住職になってから「お寺が意味のある場所だ」と感じてもらうことから始めました。1つは檀信徒との信頼関係を築き、葬式、法事を執り行うことです。この住職に葬式をやってもらうんだとお付き合いをしたうえで、お葬式をさせて頂くのが檀那(だんな)寺としては一番大事なことだと思います。2つ目は檀家以外の人にとっても仏と人、人と人、人と他の生き物とのつながりを実感していただける場を提供すること。つまり、「縁起」という真理や、なるべく生き物を殺さない生活を心掛ける「不殺生戒」を説いていくことです。

この世はすぐには良い方向に変わりません。ただ、1人1人の願いがずっと続いていくことで、長い時間でみると変わっていくかも知れません。悲願をもって1人1人が変える1つの力になっていこうとするのが仏教の教えです。そして、私なりのささやかな慈悲を実践していくのが念仏者としての私の立場です。そういう気持ちで法然院を今後も預かっていきたいと思っています。   (2005年07月06日  読売新聞)

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2006.11.03 13:14 |  映画 / 音楽 / 読書  |  murajun  | 推薦数 : 1

初めてのフランス映画

あ~、日仏景観会議の事を書いてるうちに、昔見た一本のフランス映画を懐かしく想い出してしまった。

髭生え初めし坊主頭の中学生が、生れて初めて「洋画なるもの」を子供だけで見に行った記念すべき私の初フランス映画。同時期に見た同じフランスの子供主演核問題映画「クリスマスツリー」及び、ミレーヌ・マチューの「モン・パリ~」と共に、生涯忘れがたい中学時代のフランス映画作品の一つだ。その後は、遡ってジャンギャバンの「ヘッドライト」などの白黒映画の方が好きになるのだが・・・

さてさて、上の娘が、この「小さな約束」という映画を私が見た頃にさしかかってきた。非常に多感だったから娘の心も色々な色合いがキラキラしているに違いまい。あまり、邪魔しないようにしないと・・・

私は、この1973年の「小さな約束」の本まで今も大事に持っている。早見書房といって映画の原作を良く出してくれていたところだ。活字が小さくてフォントも読みづらい。でも帯には映画のシーンがプリントされていて、非常に懐かしい。探したら、シドニーポワチエの「いつも心に太陽を」なんかも埃を被って押入れから出てきた。映画の日本語タイトルは原作と全く無関係で、「小さな約束は、野ばらを意味するEglantine」、「いつも心に太陽をは、To Sir with Love」である。ま、そんな事はどうでもいいが・・・

その本の扉に、短い日本語の詩が書かれている。

少年が夢見る~天使との恋 幼い日の約束は二人だけのもの~ いつまでもいつまでも いつまでも永遠に~ こだまする~初恋の~ 二人だけの~~ 誓い~~~

というやつで、私が勝手に曲をつけて歌っていたので、節回しに「~~」が付いている訳だ。

舞台は、片田舎となっているが、古城が点在するロワール川の流域だろう。1973年に日本で公開されたジャン=クロード・ブリアリ監督の名作だが、DVDなどビデオ化はされていなそう。最近知ったが、有名な字幕翻訳の戸田奈津子さんの映画字幕デビュー作品らしい。フランス語なのにチョッと不思議だが、英語じゃ字幕業界に割って入り込めなかったのだろう。誰にも苦労した下積み時代があるものだと再認させられた。 

当時、映画は映画館で見るものと決まっていた。中間テストや期末テストが終わると、仲間と一緒に洋画館に直行していたが、そんな日ばかりは「3本立て」を見て遅くなっても、親からも学校からも全く文句は言われなかった。 ゲーム機やゲーセンもエロネットもブログも携帯も無かったので、勉強とスポーツと読書と映画と音楽とに明け暮れた。ガールフレンドなんて鼻血が出そうな不純なものには時々しか縁が無かったので、少年に自由な時間はタップリあった。

 

 

 おばあちゃんとの小さな約束を、早朝の墓地でひとり果たすレオポルの姿には、あふれる涙を拭いきれない。レオポルとポーリーヌの、ちゃんと男と女としての関係が成立した交流がまたいい。まもなく持ちあがるであろう彼ら両家の争いが二人をどう変えていってしまうのか。「屋敷はいつか買い戻そう」というポーリーヌとの小さな約束は果たせるのだろうか。「子供の時」の終わりを自覚して懐かしむようなレオポル奏でるチェロの旋律があまりに切ない。(<この部分、良い表現なのでコピペ)

あ~、今はお金は少しあるし、元気と好奇心も少し残っているが、何しろ時間が無いし自由も無い。下らん映画がドンドンDVD化されてるのに何故「小さな約束」がビデオ化されていないのか?と少々不満に思っている。今度、戸田奈津子さんに「あなたのデビュー作なんでDVD化をしてください」とお願いしようかなと思っている今日この頃、でした。 

 

読んでくれてどうもありがとう。 

 

(参考までに映画のあらすじなど、コピペ) 

宣伝コピーは: あの幸せは、もうかえってこない… 過ぎ去りし日の想い出を胸に レオポル少年が奏でる 愛と哀しみのセレナーデ… 美しき田園に花ひらく さわやかな感動と 詩情あふれる愛の秀作! 

 

その日、フランスの片田舎にある寄宿学校の中は、生徒たちの歓声でわきたっていた。今日は二学期の終業式で、明日から待ちに待った夏休みに入るのである。生徒たちはそれぞれの楽しい計画を胸に秘め、帰宅の準備をしていた。ところが、レオポルだけは、一人浮かぬ顔をしていた。それもその筈、彼の成績は前学期はビリ、今学期も二十四人中、二十二番というありさまで、本来なら夏休み返上で補習を受けなければならないところを、彼の祖母のたっての望みで辛うじて帰ることができたからだ。宝物のチェロを大切そうに抱えたレオポルは、校門で待っていた馬車を見つけ、御者のギョームの横に座った。馬車は美しい森を抜け、懐かしい我家に向った。家に着いたレオポルは、両親と顔を合わせることを気まずく思っていたが、運よく二人とも祖母と一緒に外出中だった。彼はまっ先に従妹のポーリンのいる庭へとんでいった。二人の姉と遊んでいたポーリンもレオポルの姿を見ると駆け寄ってきた。二人は、祖母が帰宅する前に、彼女の大好きな野バラを飾っておこうと、中庭へ野バラをつみにいった。レオポルが祖母と顔を合わせたのはその晩のことだった。翌日、祖母はレオポルとポーリンを連れて、森へピクニックにでかけた。祖母は久しぶりに家に帰ってきたレオポルのために、いろいろな計画を立て、二人も祖母と遊ぶ毎日をこのうえなく楽しみにしていた。そんな祖母への感謝をこめて、幼い二人はささやかなコンサートを開き、レオポルのチェロとポーリンのピアノによる二重奏を披露した。数日後、レオポルとポーリンは祖母に連れられて市場にでかけた。祖母がレオポルに新しい帽子を買ってくれるというのだ。彼に合いそうな帽子を探しまわった末、しゃれた鳥打帽を買うことに決めた。家に戻ると、ポーリンも買ったばかりのその帽子をほしがったが、祖母に買ってもらった大切な鳥打帽子をレオポルは手放そうとしなかった。そのかわり、彼は小さなレディに宝石を贈ろうと、伯母の宝石箱から指輪を一つ盗んだ。ところが彼はポーリンの誕生日のパーティの席で指輪をおとしてしまい、皆に知れわたってしまった。しょんぼりするレオポルに、ポーリンはチョコレートケーキを贈って慰めるのだった。夏休みも終りに近づいたある日、祖母のボーイフレンドのクレマンがパリからやってきた、その夜、クレマンはパリみやげの新しいダンスを披露したり、パリの話をしたりして、皆を喜ばせ、祖母もピアノを弾いたり踊ったり、何歳も若返った様子だった。やがて、長いようで短かい夏休みも終りを告げレオポルは一人淋しく寄宿学校へ帰らなければならなかった。それからしばらくたって、レオポルが授業を受けているとき、彼は校長に呼びだされた。それは、思いもよらない知らせだった。夏休みあんなに元気だった祖母が、秋の訪れと共に突然逝ってしまったというのだ。レオポルは迎えの馬車に乗って家に帰った。彼は大人たちが止めるのも聞かず、祖母の眠るベッドにかけ寄った。祖母はまるで眠っているようにやすらかな顔をしていた。幼いレオポルとポーリンにとって更に悲しいことには、祖母の死によって、今まで一緒に暮らしてきた二つの家族が別れなければならなくなったことだった。しかし、二人は、大人になったらまたこの家に帰ってこようとかたく約束した。翌朝、朝もやにつつまれた祖母の墓の前に、生前、彼女が愛した野バラで作った花束をささげ、彼女が好きだったチェロを弾くレオポルの姿があった。

 

 

(戸田さん自身のコピペ) 

「通訳の戸田さん」として、映画会社に顔と名前を知られるようになっても、字幕をやらせてくれるところはなかなか現れませんでした。私が字幕翻訳をしたがっていることは、業界のだれもが知っていました。でも、映画1本の字幕を作るには何十万円というお金がかかるため、なかなか新人には任せてもらえない。あいかわらず字幕の世界は、日本第1号の字幕入り映画『モロッコ』(30年/31年公開) のころから活躍されている10人足らずの先輩たちで占められていて、とても新人の入りこむ余地はなかったのです。
そんな保守的な風潮にいらだちを感じているとき、やっと第一フィルムという会社から、『小さな約束』(72年/73年公開) というフランス映画の字幕をやってみないかと声がかかりました。待ちに待ったチャンスの到来だけに、私の意気込みも相当なものだったと思います。
試写を見て、「1秒間に3~4文字」といった原則を教えてもらったあとは、原文の台本を家に持ち帰り、ひとりで訳と格闘する日々が始まりました。「新人なんだから時間をかけてもいいよ」と言われていたので、何度も何度もことばを練り直し、推敲を重ねていきました。その字幕が付いた試写を初めて見たときのことは、いまも忘れられません。  自分では、「これで完壁だ!」と思っていたものが、あまりにも画面と合っていなかったことにガクゼンとしてしまったのです。

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2006.11.03 10:55 |  旅行 / 宿  |  murajun  | 推薦数 : 0

日仏景観会議

日仏景観会議というのが今日から福岡県柳川市で開催されている。

第一印象は、「心地好い響きだな~」だった。 

北原白秋の生誕祭が現在開かれてるハズの福岡県柳川市は家からそう遠くないし、年に一度だけ国内1ヶ所の地方都市でしか開催されない希少価値、更には中学の頃から大好きだった「おフランス」の香りに騙され易いので、この会議とやらには非常に行きたかった。

が、今日も仕事。メインの明日も仕事。パネル討論予定の明後日は、可愛い娘の小学校の文化祭ときたから当然パス。私は柳川など地方小都市の景観改善・保全には少なからず興味を持っているし、おフランス人や首都東京人の「お言葉・提言」にも肯定的に興味があるので、折角のチャンスに参加できないのは非常に残念だが、泥臭い田舎の開業医のお仕事には常に時間の厳しさが付きまとうから仕方あるまい、生活のためだ。だが私が元気なうちには「近場」には来ないかも知れない。可能性があるとすれば、唐津や島原や別府なんかがあろうが、山口は萩が昨年やったし、ウ~ン残念。

 

私は一度、その柳川で開かれた別の「パネル討論会」を見たことがある。参加者は、柳川藩主の子孫で観光名所の「御花」を経営する立花氏、湯布院町おこしの立役者でNHK「風のハルカ」のモデルである「亀の井別荘」のご主人。さらに映画監督大林宣彦氏も参加されていた。なぜ大林監督かというと、随分昔に三谷幸喜氏の奥さんになった小林さん主演で、福永武彦の小説「廃市」をマイナープロダクション撮影した際に縁が出来た人が息子のお嫁さんになったのだったか?が理由なのと、尾道や臼杵だったかな、柳川っぽい場所で映画を沢山撮っている視点からの地方都市景観への提言をされていたかと思う。ちなみに「廃市」は悪くない。

お仲間同士の発言・提言だったが、でもマアマア良い話だった。発言各氏の質は非常に高かった。日仏景観会議では、若い参加者や都市の参加者、大都会に住む都市づくりのプロを自任している参加者が多いと聞く。一歩間違えば無責任発言になりそうな、地域の実情不在の議論になるかもしれないが、それはそれで面白かろうし謙虚に参考とすべきかとも思う。フランスを始めヨーロッパの地方都市を大好きな人間としては、柳川でフランス語が飛び交う事を夢見ている。

どうせ参加できないので、この位にしておこう。

 

読んでくれてどうもありがとう。

 

(参考までにコピペ)

 1.日仏景観会議の目的

 日仏景観会議は、日本の都市や地域の景観について、生活環境の整備、自然との調和と共生、伝統や美意識に基づく文化などの広範な問題を、フランスとの情報交流を行いながら、国際的な視野にたって議論することにより、ひろく景観に対する意識の向上を図るとともに、優れた景観の形成に寄与することを目的としています。

 2.日仏景観会議開催の経緯
 
  日仏景観会議は、1999年に埼玉県吉田町で開催されたのが最初で、吉田町のまちづくりに関与していた日本の建築家とその友人のフランスの建築家(フランス政府顧問建築家)を講師として、吉田町の景観問題について議論する催しが開催され、同年は東京都においても、同じ講師による 講演と討論などの催しが行われました。その結果、このような会議を継続して 実施することが望ましいという機運が高まり、その後毎年次のように各地において、日仏の建築家などが参加して開催されてきました。
1999年  6月  埼玉県吉田町 及び 東京都(日仏会館)
2000年  9月  神奈川県鎌倉市  及び   山形県新庄市
2001年.11月  高知県高知市
2002年 5月  鳥取県倉吉市 及び 東京都(日仏会館)
2003年  9月    滋賀県彦根市 及び 東京都(日仏会館)
2004年 10月  富山県高岡市 及び 東京都(日仏会館)

2005年 10月  山口県萩市  及び 東京都

2006年 11月  福岡県柳川市 及び 東京都

会議は当初から毎回開催地で組織する実行委員会が主催し、開催地の自治体やフランス大使館の後援を得て行われ、その成果は関係各方面から評価を受けてきました。 
特に建築家等の派遣費を負担するなど、当初からこの会議に理解を示していたフランス大使館からは、継続して支援することの表明がありました。  このような推移の中で、会議を計画的に運営するために一定した主催者の必要性が生じ、2002年から建設環境情報センターがその役割を担う立場で主催者として加わることになりました。2002年及び2003年の会議は文化庁及び国土交通省の後援を得て開催され、多くの成果が得られました。2004年は「人、行き交う美しき“景”」をテーマとして、富山県高岡市及び東京において開催されることになりました。

 3.建設環境情報センターが主催する理由

 建設環境情報センター(CEIC)は、「建設倫理」をテーマとして、その構築と実践を目指して、啓蒙普及、調査研究、技術支援などの事業活動を通じて、社会に貢献したいという趣旨で2000年7月に東京都の認証を受けて設立されたNPO法人です。建設倫理とは、環境倫理、技術者倫理、経営倫理などの建設行為に関係するすべてを対象としたもので、事業活動の例としては  『建設環境倫理セミナー』の開催などがありますが、景観問題も大きなテーマのひとつです。
  このように、日仏景観会議の目的がCEICがNPO活動に掲げている<まちづくりの推進を図る活動><国際協力の活動>にあてはまることと、日仏景観会議の当初からの
企画者や関係者がCEICの会員になっていることから、CEICが2002年の東京における会議の開催から主催者となり、会議全体の総合調整と東京で開催する会議の運営を担当することが決定しました。CEICでは日仏景観会議をより充実発展させるために会議の目的、運営方針、実施要領などを定めましたが、後援機関であるフランス大使館国土交通省などからは、今後の活動方針についても十分な理解を得ているところです。

 4.日仏景観会議の運営方針

  日仏景観会議は、今後次のような運営方針によって行う計画です。
①会議の開催は年1回とし、開催を希望する地域の会場及び東京の会場で開催する。
②会議の開催は開催地域が主催者となり、建設環境情報センター(CEIC)が共同主催者として主体的に総合調整を行う。
③会議の主題は景観に関する地域の具体的な問題の解決に寄与するものとし、ひろく地域住民の参加を求める。
④会議の主な内容は講演及び公開討議とし、 講師として主題に適したフランス及び日本の専門家 に依頼し、日本側は開催地域の関係者を加える。
⑤会議の開催にあたっては、できるだけ国の関係機関、自治体、関連諸団体等の後援を得て、公共性の向上を図る。
⑥会議の結果を刊行物、諸媒体を通じて公表し、景観問題の啓蒙普及に努める。
⑦当面フランスとの連携関係を強めて、フランスにおいても同様な会議を開催することを目指すとともに、他の諸国との連携関係に広げることにも努める。

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2006.11.03 01:14 |  診療  |  murajun  | 推薦数 : 4

Medicine Man

永く診察していながら突然しばらく姿が見えなくなる患者さんがおられる。

以前は2週間処方が主体であったので一ヶ月来院されないと、「あの患者さん最近姿が見えないね。誰かどうしてか知ってる?」という感じだった。政府の政策に素直に従う私の診療所では長期処方が増えてきたので、2ヶ月位しないと「行方不明か否か」が不明瞭になった。多くの場合、3ヶ月も来院されないと完全に忘れ去ってしまうか、「何か思うところがあって当院に嫌気がさして逃げたんだろうし、良医たるもの去るものは追わず。」で、患者さんの意思を最大限尊重し、無駄な心配をしたくないので忘れ去ってしまうようにしている。つまり、患者・医師関係が希薄になりプチ崩壊の様相を見せ始めている。数ヶ月先の患者さんの外来予約をとったり、内視鏡検査の案内状を定期的に送りつけるなどの営業上有効と見られる手段をとるつもりは全く無い。

70代半ばの頑丈そうなAさんは、かれこれ6年程、冠攣縮性狭心症と高血圧などで診察していた気の好い田舎のオヤジさんだが、今年2月を最期にプツリと来院が途絶えてしまった。10年来、前立腺癌を患って泌尿器科にも通院しておられたので、それが悪化して入院されたのかな?と6月頃までは心配していたが、最近は多忙なせいもあってスッカリ忘れていた。そうしたら、外来の待合室にヨボヨボと両脇から支えられて前屈みでヤット歩いているAさんの姿が見えた。一週間ほど前の事である。しかし、眼は虚ろでヨダレまで垂らしており、ドラキュラに血を吸われた廃人みたいだった。

幸か不幸か当日に限って外来は非常にヒマだったので、付き添いの奥さんと息子嫁の同席で久しぶりの診察を開始した。後の患者さんを心配しなくてユックリ話を聞けたのは幸いだった。

先日の腎臓疾患に引き続き、複雑な話で皆さんを混乱に落としいれるつもりではないが・・・

Aさんは当院初診以前はB病院循環器科に入院歴があり、心カテ検査CAGを受け「冠動脈は異常なし」だったようだ。しかし狭心症様胸痛が時々見られ、安静時からECGも虚血性ST変化らしき所見を呈していたので、一応スパスムVSAとして当院では定期管理をしていたが、体調は大崩れすることなく比較的安定していた。

Aさんは2月末頃、胃腸の調子が悪くなり、家にほど近いB病院を受診された。何故かいきなり入院となり、上部下部内視鏡、腹部エコーに各種CT、挙句の果ては久しぶりの心カテCAG検査までフルコースの検査を施行されたが「全く異状は無かった模様」で、逆に段々胃腸も悪くなり、そのため次々に循環器系や消化器系の処方が増えていき、あれよあれよと一ヶ月程で悪心・嘔吐と脱力感で立つのがヤットの状態になり、見かねた家族が申し出てB病院を退院する事になった。

無理も無いが、「脳神経がイカレタ」と心配した家族が、当地域の脳外科専門病院と名高いC病院の外来受診をさせたら、震えて歩けないAさんに担当医は「パーキンソン病」の診断を下し、それに対する処方と胃腸薬を追加したという。しかし改善が思わしくないので、近所の人に奨められたのか、やや遠方の小規模D病院を受診し、そこでも入院を勧められた。特に追加検査は無くベッド上安静が主体であったが、B&C病院の処方に更に精神薬らしきものが一時加わったようだが、症状増悪したため中止になったという。しかし増悪した症状は改善に向かわず、言葉が出にくくなり、自力で立てなくなり、ヨダレを垂らし、目の前が黄色に見え出し、食べても直ぐ嘔吐し、頭を上げて正面を見据える事が出来なくなっていた。それでも、気丈に処方された全ての薬はしっかり「薬と信じて」飲み続けていたようだ。

しかし、我慢も40日程で、見かねた家族がD病院に申し出て退院となり、自宅に戻って再びB病院循環器科外来に無理して通い始めたが、直ぐに体調悪化で予約日以外にB病院を受診。しかし担当医不在のため、とうとう8ヶ月振りに私の診療所に再び受診してきたという経緯である。でも、黙って他の病院へ受診したため私に合わせる顔が無いと、相当どうしようかと悩んだそうである。

Aさんは必死に喋ろうとしているが言葉は全く聞き取り難く、付き添う家族の説明からは、E病院泌尿器科の2種類、C病院の2種類、B病院の11種類の処方が並行してあり、一時はD病院から精神薬がこれに加わって計16種類をずっと飲まれていたようだ。2月までの処方は全部で6種類だったので相当内服薬が増えており、また類似薬・ダブり処方が多かった。

 

その後は、皆さんの御想像通りかと思う。

私は中毒症状と判断して、全15種類を4日間10種類に減らし、その後4日間7種類に減らした。案の定、日に日に症状は劇的に改善し、2月の80%程度には改善し、普通に会話が可能になった。ただ、B病院退院後のC病院でのパーキンソン病診断も副作用によるものかと私は疑っているので、近く抗パ剤も中止して全6種類にしてみようと思っている。

まだ、どう転回するか予断を許さないが、非常に激しい薬物中毒にさらされた不幸なケースではないかと思う。Aさん家族からすれば、B病院もC病院もD病院も田舎にしては比較的設備も整った、なにより入院設備の整った救急病院であったので、たった一人の医師しかいない無床診療所よりも信頼しやすかったのかもしれない。確かに普通はそうだし、無理からぬことと思う。

Aさんは元々B病院から転医されてきた患者さんだった。総合病院であるB病院の方がAさん宅から随分と近いし新築移転して綺麗で救急外来もあり入院も可能だ。どうして当院に6年以上も通い続けてこられるのか不思議なくらいだが、縁あって希望されて来院される間はキチンと対応したいと改めて思っている。

 

読んでくれてどうもありがとう。

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