先週の新日曜美術館での、『悲しみのキャンバス石田徹也』は心に響いた。以前、その異様な絵は見た事がある、なぜこんな絵をと思った。顕微鏡を覗いている男たちの顔が顕微鏡になっている絵、食品製造のベルトコンベア自体が自分になっている・・・象徴的に考えれば現代文明と自分自身の関係、あるいは現代文明にに巻き込まれ押しつぶされて行く人間性を書いているようにみえるが、単純な話ではなかった。自分自身の不安のなかで苦しみながら、魂を削って絵を書き続け、踏切事故で命を失った若い画家。その心の不安、苦しみを時には女友達に助けを求めながらも向きあい、絵にしていった彼、なくなる直前の自画像は真っ白いキャンバスを前に、真っ白いパレット、空の絵の具箱を前にうつろな目を見せる・・・自死なのか、事故なのかは知らないがその遠くを見る目は自分の将来を見ていたのだろうか。
芸術にて自分を表現する人たちはその魂からでてくる衝動を根本に持っているのだろう。魂も体も削って短い生涯を鮮烈に送ったピアニスト、リパッティやグールドなど、心に残る演奏をのこしたひとたちはタイプこそ違え、その魂を感じる。
私はどうだ?私の歌は?まだまだ足下にも及ばない。自分自身の心を頻繁に襲う不安は歌う事で一時的にはらわれ自分は癒されるが、そうした自分の癒しの為だけに歌っているのでは、まだまだだと思う。魂の奥から歌う事。自ら、自らを取り巻く人々や社会、その中で確かに生きている中での、苦しみ、悲しみ、悩み、喜びを、もっともっと絞り出して歌って行かなければ・・・歌をわざとらしい表現で歌うという事ではない。人の為によかろうと歌う事は偽善かもしれない。人間としての自分の中からでてくるものを歌/声にしていく事で、そうしようと努力して、シューベルトに迫っていく事で、ライフワークと言える資格が出来るのではないだろうか?
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